60、不思議の国の二葉ちゃん


 玄関まで、夕食の良い匂いがしていた。


 リビングまで行くと、食卓にはこんがりと焼かれたチキンや、きのこのアヒージョ、クリームスープが並べられていた。どれも出来たてで、ホカホカと湯気を立てている。


 それなのに二葉先輩の姿は、影も形もなかった。


「二葉先輩」


 名前を呼ぶが反応がない。


 部屋を見渡しても、どこかに行った様子がない。プラスチックのカボチャの置物や、キャンドルが部屋の隅に置かれている。


 まさしくパーティーの準備を整えていたと言った、幸福な光景だった。


「先輩」


 そこに彼女はいない。


 脳裏をよぎったのは、あの放物線のグラフ。それから、いつか完全に消えてしまうかもしれない、と言う剥不はがれずさんの言葉。


 ふと消えて、もう戻らない瞬間がいずれ訪れる。


 それはひょっとすると、年明けなんかじゃないかもしれない。


 一ヶ月後かもしれない。一週間後かもしれない。明後日かもしれない。明日かもしれない。


 今日かもしれない。


「ふ……」


 もしかしたら、今この瞬間かもしれない。


 そんな不安がよぎった。同時にやり場のない後悔と絶望が、心をおおった。


 涙も出ない。


 言葉にもならない。


「……誰か」


 あまりのどうしようもなさに、背後で気配がするのにも気がつかなかった。パンと何かが破裂する音がして、ようやく我に返った。


「テストお疲れー!」


 クラッカーの破裂する音だった。


 振り向くと、二葉先輩がいた。


「トリックオアトリートー! びっくりした?」


 部屋の隅でカーテンが揺れている。


 ……消失したんじゃない。


 姿の見えなかった二葉先輩は、あそこに、ずっと隠れていたんだ。


「わぁ、声も出ないようだね。くふふ。大成功だ」


 楽しそうに笑いながら、クラッカーを握っていた。


 先輩は、前にショッピングモールで見た、水色のワンピースのコスプレ衣装を着ていた。


「これね。買ったんじゃなくて。レンタルしたの。ネットでたまたま見つけてね」


 スカートのすそをにぎって、彼女は俺に見せびらかした。


「ウィッグも借りたの」


 金色のかつらを見せびらかした。


 そして照れたように笑っていた。


「……ナルくん?」


 俺が何も言わないと見ると、不思議そうに顔をのぞき込んできた。その反応はまぎれもなく、彼女だった。


 何も言うことができず、ただ呆然と彼女の顔を見つめる。


 これは現実なのか。


「ねぇ。さっきから私からばっかりしゃべってるんだけど」


 ぷうっと頬を膨らませた。


 冗談めかして怒ったふりをした後で、彼女は一転して申し訳なさそうに言った。


「そんなにびっくりした? ごめんね」


 伏せた顔の下で、不安げに瞳が揺れている。


「ちょ、ちょっと驚かせようって思っただけなの。サプライズパーティー……」


 悪いことをして、怒られている子どものようだった。


「ねぇ……」


 何か言おうと、彼女は再び口を開いた。


 俺は思わず、彼女の腕をつかんでいた。

 

 白くて細い腕。

 自分とは違う温度。


 あ、と驚いたようなか細い声。


 そんな彼女の身体の腰のあたりを支えて、自分の方に引き寄せていた。


「……え」


 先輩が目を見開く。


 気が付いた時には、俺は彼女の唇に、キスをしていた。

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