59、行ってらっしゃいのチュー


 その夜も寝ている間に、二葉先輩は何度か消失していた。リストバンドが鳴らすアラーム音は、すっかり耳に馴染なじんでしまっていた。

 

 二葉先輩が消える時間と対照的に、距離はだんだんとちぢまっていた。


 一つの毛布にくるまって、眠る。


 彼女の鼓動を感じるほどに近く、呼吸で上下する身体が肌に触れる。


 それくらい近いことが、たまらなく胸を苦しくさせた。

 耐えきれなくて、彼女の背中を抱こうとしたこともあった。


「……ま、だ」


 二葉先輩は小さな声でささやいた。


「ま、まだちゃんとキスもしていないし……」


 暗くて良く見えなかったが、多分彼女の顔は赤かった。


「恥ずかしいし……」


 もじもじした、二葉先輩が顔を伏せる。


「ど、どうしたら、良いか分からないし……」


 勢いそのままに、抱き寄せることもできたかもしれない。遠慮なんて捨てて、欲望に任せれば良かったのかもしれない。


 ……結果的に言うと、できなかった。


 彼女の気持ちを、こんな形で崩すことはしたくなかった。


「……おやすみなさい」


「お、おやすみー……」


 つまるところ、罪悪感だ。


 彼女が知らない消失の事実を、俺は伝えられていない。

 このあせりは事実を知る俺だけが、抱く感情だ。


 こんな気持ちじゃダメだ。


「ちゃんと解決してからじゃないと」


 誰もいない空っぽの空間にそう言って、目を閉じる。


 彼女がいた場所から、体温が失われていく。


 心をむしばむ夜がやってくる。天井を見上げて、恐怖から目をそらす。


「……おはよ」 


 その声で目を覚ます。


 夜は、悪い悪夢のように過ぎ去っている。


 二葉先輩がいつもと変わらない笑顔で、隣にいる。


「おはようございます」


 ホッとする。

 今日もきっと、いつもと変わらない幸福な日だ。


「先にご飯作って待ってるから。寄り道しないで帰ってきてね」


 玄関を出る直前、靴を履いた彼女が、振り返って言う。


 今日は中間テストの日で、夜な夜な取り組んでいた先輩との、勉強の成果が出る時だった。


「私の方が、テスト先に終わるから。先に帰ってご飯作ってるので!」


「あ……はい。ありがとうございます」


「あらら。また寝不足?」


 俺の顔をのぞいた彼女が、不満そうな顔をする。ちょいちょいと、手招きすると、先輩は「かがんで」と言った。


「頑張ろうね」 


 おでこに彼女の唇が当たる。


 ちゅ、と軽い音がする。顔を上げると、先輩はにっこりと笑っていた。


「やる気出た?」


「……がぜん」


「よし。じゃ行こっか!」


 二葉先輩に勇気付けられて、登校する。


 テストの出来は言うまでもない、


 今まで最強で最高だ。あれでやる気が出ないと言うなら、頭がおかしい。


「お。帰り?」


 校門の前で、鷺ノ宮と鉢合わせた。俺の顔を見た彼は、怪訝けげんそうに眉を下げた。


「どうしたニヤニヤして。良いことあったか」


「いや、何も」


「変なやつだな。ちょうど良いや。テスト終わったし。クラスの奴らとカラオケ行くけど、行く?」


「悪い。直帰」


 即答。


「……あぁ」


 鷺ノ宮は理解したと言う風に肩をすくめた。


「これを新婚って言うんだな……」


 捨て台詞の一つでも吐いてやりたいところだったが、あいにくそんな余裕はない。最短距離で最速で家まで帰る。


 家の鍵を開ける。


 水を打ったように、シンとしている。


「先輩?」


 嫌な予感がした。

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