第36話 Alphonse Mucha

友梨佳ゆりかは長いストラップの付いたカーフレザーのバッグを肩に掛け、右手にはとうのバスケットを持っている。


「バスケット、持とうか?」


「お気遣きづかいありがとうございます。でも、これは私が持ちます。」


友梨佳ゆりか御門みかどの申し出を断ったのは遠慮ではない。

彼女には、バスケットを御門みかどに持たれては困る事情があった。


「ザ・ミュージアムは初めて?」


「行くのは初めてです。お恥ずかしい話ですが、Bunkamuraに美術館がある事すら知らなくて・・・そういえばミュシャってどんな人なんですか?」


「その答えは難しいね。ミュシャが画家なのは間違いないんだけど、彼を有名にしたのは絵画ではなくポスターなんだ。だからミュシャは画家であり、イラストレーターであり、デザイナーでもある。」


「多才な人だったんですね。」


「そうだね、アルフォンス・ミュシャは1860年にオーストリア帝国のモラヴィアで生まれているんだ。」


「モラヴィア?」


「現在のチェコ共和国の西部だね。ミュシャは芸術家としてパリで名声を得た後、第一次世界大戦が始まる前に故郷に戻っている。第一次世界大戦でオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊ほうかいすると、彼の故郷はチェコスロバキアという名前で独立したんだ。彼は新国家のために紙幣しへいや切手のデザインを手掛てがけているね。」


「故郷を愛していたんですね。」


「ただ彼のばんねん年は決して恵まれたものではなかったんだ。1939年にナチス・ドイツによってチェコスロバキアは解体され、彼の希望であったチェコスロバキアは世界地図から消滅してしまった。その上、愛国者として目を付けられていた彼は、進駐しんちゅうしたナチス・ドイツに逮捕されてしまう。結局、彼は釈放しゃくほうされたんだけど、そのまま失意しついの内に亡くなってしまった。」


「1939年って、第二次世界大戦が始まった年ですよね?」


「ドイツ軍がポーランドに侵攻しんこうして、第二次世界大戦が始まったのが1939年の9月1日だから、ミュシャは、その直前に亡くなっているね。結局ミュシャが一番輝いていたのは、パリ時代だったんだと思う。当時のミュシャは新進気鋭しんしんきえいの芸術家として、数多くの作品を残している。たとえミュシャの名前を知らなくても、代表作を見れば、見覚えがあると感じるはずだよ。」


「それは楽しみです。」


蘭堂らんどうさん、東京国立近代美術館とうきょうこくりつきんだいびじゅつかんで作品を見た横山大観よこやまたいかんを覚えている?」


生々流転せいせいるてんいた人ですよね。よく覚えています。」


「ミュシャと横山大観よこやまたいかんは同時代に活躍かつやくしているんだ。年齢も8歳しか違わないしね。大観たいかん日本画にほんがの確立のために日本美術院にほんびじゅついんで活動し、ミュシャはパリでアールヌーヴォーを代表する芸術家の一人になっている。」


「アールヌーヴォー?」


「それについては今から本物を見に行くんだし、せっかくだから本物を見ながら説明するよ。」


御門みかどが指差した先には、既にBunkamuraが見えていた。

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