紫陽花
高梨開
紫陽花
かたりかたりと規則正しく刻んでいたリズムを崩して速度を落とし電車は目的地に止まる。財布から取り出した切符を駅員に手渡しして古ぼけた駅舎から離れるとヒグラシが空気を軋ませるように鳴いていた。寝ぼけた頭を覚ましたくて頭をくしゃくしゃと掻いて深く息を吸う。吸い込む空気には少し泥のにおいが混じっていた。遠くに白んだ空の色に溶けてしまいそうな希薄な月が浮かんでいる。
久々に入る自室は必要最低限のものだけが残されていて、実家を出ていった日に見た光景とほとんど変わりはない。正装の入ったバックを空いてるスペースに投げて学習机の椅子を引いた。椅子のサイズはちょうどよかった、当たり前だけどあの頃から背丈は変わらないらしい。いやにすっきりとした机に突っ伏してしばらく窓の外を眺める。遠くに聞こえるカエルの声が煩わしくも懐かしい。
ふと思い出して机の引き出しを開けようとする。ガコン、と思いがけない引っ掛かりを感じて引き出しに鍵をかけていたことに気づく。迷わず机の裏を覗くとやはりそこにテープで鍵が張り付けてあったので爪を立ててそれを剥がした。セロハンテープは黄ばんでいて、貼ってあった場所にはそのままの形でべたついた跡が残っている。鍵からテープを取る、ごみ箱はなかったから丸めて机の隅に置いておいた。べたついた鍵は鍵穴に抵抗なく入り、数年ぶりに引き出しが開かれた。
引き出しの中に入っていたのはいくらかの文具と、その下に隠されるように置かれた手紙、少し息が詰まる。かわいらしい薄いピンクの封筒にキャラ物のシールで封がしてある。何度か剥がしたからかシールの粘着力は弱く、容易く開けることができた。取り出された便箋に書かれていたのは他愛のないような話、ただそれだけだった。たしか小学生のころだろうか。クラスで文通――と言っても手渡しなのだが――が流行った時にあいつからもらったものだ。空気が抜けるようにかすかな笑いが漏れる。鍵までかけて、女々しいことだ。
深夜、コンビニでビールを買った。すでにアルコールが入って火照った体に夜風が吹き付けて気持ちがよかった。室内で窓から吹き付けるやけに生暖かいそれとは異なるもので、もうすこし浴びていたくて、公園に立ち寄って買ってきた缶ビールを開けた。顔を上げると街灯に照らされた紫陽花が目についた。暗闇に浮かび上がる薄い赤紫の花弁が綺麗だった。あの時は確か時期が過ぎていて枯れかけた緑色だったはずだ。あの頃から何度同じ光景を思い返したろう。
月明かりが綺麗な夜だった。目を上げた夜空に光る満月に手が届きそうだったことをよく覚えている。文化祭の帰り、おそろいのクラスTシャツで帰り道を歩いたこと。不意に立ち止まって月が綺麗ですねとおどけた口調で、それでいて緊張した面持ちでこちらを覗き込むあいつに、一瞬口についた言葉を飲み込んで、うんそうだね、と返したこと。
ビールを思い切り煽る。
知らないふりをして言えなかった言葉。それももういい。明日君を祝うために、そのために思い出の俺はもう
「死んでもいいさ」
紫陽花 高梨開 @ika-and-tako
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