第79話 芽吹いた翠


 2月になった。


 その日はなんとなく不穏な気持ちがして、まだ夜が明けきらないうちに目が覚めた。

 予定日は既に過ぎていたけど生まれる気配もなく、もうそろそろ生まれてくれないとと家族のみんなも主治医の夢香ちゃんも心配する中で、ようやくその日はやって来た。


 隣で眠っていた司の肩を揺らせておはようを言う。少しまどろむ彼の耳に訳を話すととたんに目が覚めたようで、ベッドから跳ね起きて身支度を始めた。

 ボクも慎重に起き出して隣室で眠るママの所へ。


「ママ、おはよう。

 なんだか、始まったみたいなんだ」


 ママには予定日の少し前からマンションに来てもらっていた。

 勤務先の病院で出産すると決めていた都合、出産当日までマンション暮らしは確定だった。それでは産気づいたときに司だけでは困るだろうと、ママがヘルプに入ってくれたのだ。


 時計は朝7時を指すところ。ボクがママの手を借りて着替えを進めるうち、ダイニングの方からは病院に電話を掛ける司の声が聞こえてくる。やがてそれも終わったのか、司は車の用意をしてくると言って、入院用品の入ったキャリーを抱えて玄関を出て行った。


 ボクはといえば不穏な感じは徐々に強くなっていて、さらにいつになく強く感じるお腹の張りが、その時の到来を知らせていた。どうかすると立っているのが辛い。

 ちょこちょこと一休みを挟みつつ、そろりそろりとマンション1階へ。司の運転する車で病院へ向かった。



§



 無事病院に到着して準備室に入る。すぐに夢香ちゃんが現れた。


「おはよう優樹。貴女ののんびり加減は相当だったけど、赤ちゃんも貴女似なのね。


 それで、具合はどう?」


 変わらず凜々しい雰囲気を纏う彼女の姿に、なんだか少し安心した。ボクは今朝からの経過を彼女に伝えていく。

 その間にもお腹の張りは波を打つように強弱を繰り返していた。


「痛みはそんなに強くない感じ? とりあえず、診せてもらってもいい?」


 よく陣痛はきつくて重い下腹部の痛みが断続するとは聞いたけど、今のところは言うほどキツい痛みは来ていない。その代わりお腹の張りがかなりあって、息が苦しいくらいだ。

 それだからまだまだ生まれてこないだろうと高をくくっていたのだけれど、夢香ちゃんが発した言葉は意外なものだった。


「ええと、お母さん、赤ちゃん出かかっているわよ。というか、全開に近いんだけど。本当に痛みはない?


 ……張りはかなり強め。陣痛を痛みとして感じていないってこと。


 もう、本当に貴女の体って頑丈なんだか鈍感なんだか。

 とにかく、モニター付けるから分娩台に乗って」


 夢香ちゃんはてきぱきとナースに指示を飛ばして準備を進めていく。

 そしてあれよという間にボクは分娩台の上で息を荒げていた。


 夢香ちゃんと助産師さんの掛ける声に合わせていきんだり休んだり。最初にもうあと一歩二歩と彼女は言ったけど、それでもスルッと生まれてくることはなくて、最後の方のボクはもう訳が分からないくらいに疲れ果てていた。


 そして大きな大きな塊がドカッと出て行く感覚がしたかと思ったら、少しして例えようのないほどの寒さが襲ってきた。

 ほどなく赤ちゃんの泣き声が聞こえて来る。


「おめでとうございます、お疲れさまでした。かわいい女の子ですよー」


 助産師さんの声と共に、ボクの胸の上にタオルで包まれた小さな命が預けられた。

 ディスポガウン姿の司もボクと赤ちゃんを覆うように立って、おめでとうを伝えてくる。


「優樹、よく頑張ったね」


「……うん、思ったより大変だった、けど、やり切った感は、あるかな」


 こうしてボクは、無事にゆう姉を新しい人生の始まりに導くことができた。


 2月3日、ゆう姉がその命を一度落とした日。その日に彼女が新しく生まれ変わったのは、偶然と言うにはあまりにも出来過ぎだったけど。



§



 産後の経過はボクも赤ちゃんも良好で、出産の翌々日には病室にお義父さまやお義母さま、そしてパパとママが入れ替わり立ち替わり訪れては、赤ちゃんには祝福を、ボクには労いをそれぞれに伝えていった。


 そんな中で、パパが用を足してくると言って病室を出ていった。

 そして、ボクと赤ちゃんとママが残される。


「ねえ、ゆうちゃん?」


 ベビーベッドで眠る赤ちゃんの顔を覗き込んでいたママが呟いた。


「なに? ママ」


 ボクの短い返事に顔を上げたママの目つきは、かなり真剣だ。


「この子、ゆう姉でしょ?」


 心臓が飛び上がるほど驚いた。

 ママにはバレるんじゃないかとは思ってたけど、まさか生まれて三日目の、しかも初見であっさり見抜かれてしまうのはさすがに予想を超えていた。


 ボクが間抜けに驚ききった顔を晒していたら、ママが続けていく。


「ゆう姉がこの世からいなくなるって話とゆうちゃんの妊娠のタイミング、偶然にしては出来過ぎてるとは思っていたのよね。

 それで生まれてみたら、どうも伝わってくる感じがゆう姉そっくりじゃない?

 それに、誕生日にしてもそうよね」


 真剣な表情で話すママを見て、ボクも表情を固くする。


「それ、前から不思議だなって思ってたけど、ママはなんで分かるの?」


 ボクの問いにママの眉が緩む。


「なんでって言われても……、勘かな。なんとなく、あっこれはってピンと来ちゃうのよね。


 ……それで、どうなのゆうちゃん? この子のこと」


 一見にこやかな表情だけど、ママからのプレッシャーは確かに感じる。

 隠しても無駄だと悟ったボクは、ありのままを話していった。


「……ママの言うとおりだよ。この子の魂はゆう姉で間違いない。けどね、ゆう姉の記憶はもうないんだよ。この子はこの子、ゆう姉ではないんだ。


 ……それは大事なことだから、どうか忘れないで。


 この子のことは一人の孫として接してあげて欲しいんだ」


 ボクがそうお願いすると、ママは静かに首肯してくれた。


「司さんはその事を知ってるの?」


「司にはゆう姉の生まれ変わりだって事は伝えてないよ。伝えても混乱するだけだろうし。

 でも、ママにはいつか多分バレるだろうなって思ってた。まさか初見でバレるとは思ってもみなかったけど。


 ……敵わないよね、ママには」


 そう言って苦笑いをするボクに、ママは再び柔和な笑顔を見せてくれた。



§



 次の日、司が赤ちゃんの名前をいくつか考えて持ってきた。最後はボクと二人で決めたいと言って。


「候補は三つ。

 以前二人で決めた通り、お互いの名前の文字は取らないようにしたよ」


 そう言いながら見せてもらった真っ白な紙の上には、彼の手書きで三つの名前が並ぶ。順番に目を通しながら、声にも出して読み上げてみる。

 すると、なんとなく意識の集まる名前が一つあった。


睦葉むつは、宇佐美睦葉


 ……これかな」


 そう言ってベッド横で椅子に座る司の目を見つめた。

 彼は無言のままゆっくりと首肯して、ボクの意見に従う意志を見せる。


「睦は、関わるみんなが仲むつまじくあるようにとの願いを込めて。葉はママである君、優樹という大樹から伸びて大いに茂り栄えるように祈りを込めて」


 彼は静かに命名の解説をしてくれる。

 

「素晴らしい名前だね」


 命名の由来に感動したボクは呟いた。

 すると司は少し照れくさそうに頭を掻く。


「少し大層かなって、思ったりもしたけどね」


「そんなことないよ、これ以上ない名前だと思う」


 そんな親二人の思いをよそに、睦葉と名付けられた女の子はすやすやと寝息を立てていた。



§



 そして、親子三人の生活が始まって、さらに下の子も生まれた数年後、ある日ちょっとした事件が起きる。


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