第78話 ささめく息吹


 ベッドで横になったボクのお腹に、玲亜ちゃんが振りかぶったハンマーを静かに下ろす。


 服の上からハンマーがお腹に触れて、少し重みを感じた。


 それと共に部屋の中はボクのお腹を中心に眩い光で満たされた。

 その状態から玲亜ちゃんがハンマーを持ち上げると、その先にくっついた一つの小さな光の球がちらりと見えた。

 光はその球から発せられていて、穏やかだけれど確かな明るさを部屋中に溢れさせている。


 ハンマーはすぐにお腹に向けて再び下ろされてしまったので、光の球の詳細は分からなかったけれど、たぶんあれがゆう姉の魂。


 そして光が徐々に薄まって、すっかり消えてしまった後に、それまでボクのすぐ隣にいつもいた気配もすっかり消え失せていることに気がついた。


 ボクは横になったまま、玲亜ちゃんの方に顔だけ向けておずおずと尋ねた。


「……玲亜ちゃん、終わった?」


「ええ、無事に終わったわ。

 これでお腹の赤ちゃんに、魂が宿ったわね」


 ボクを見下ろす玲亜ちゃんは微笑んでいる。

 それを見上げるボクは多分少し不安に眉をひそめていた。


「なんだか、心にぽっかり穴が空いたみたいに感じる」


「そうかも知れないわね。

 いつも隣にいて、それが当たり前だった存在だものね」


 ハンマーを元の場所に戻しながら、彼女が答えてくれる。

 ボクは体を起こしてベッドに腰掛けた。


「……慣れるのかな、これ……」


「さあ? でもそんなの気にしている場合じゃなくなるとは思うわよ?」


「だと、いいんだ、けど」


 玲亜ちゃんに合わせていた視線を、自分のお腹に下ろす。

 右手でゆっくりと丸を描くようにお腹をさすっていると、なんとなく自分のものとは違う温もりを感じたような気がした。



§



 ゆう姉がいなくなってから二、三日後、ボクは勤務先の病院で産科にかかった。

 担当になったのはよくよく見知った女性の医師。


 舞浜夢香。


 見知ったというか、彼女とは高校の頃から医学部卒業まで続いた因縁があって、並ならない関係ではあったわけだけど。

 それももう昔のお話、お互いに。


 そしてそんな彼女に、


「女の子の予感がする」


 と言われたときはドキッとした。

 思わず、


「なんでわかるの?」


 と食い入り気味に問いただすほどには。



 ともあれ、医学的にもお腹で赤ちゃんが育っていることが確かに認められて、これでボクもいっぱしの『ママ』と呼ばれる存在になった。


 予定日は年をまたいで来年1月の終わり頃。

 新しい家族を迎え入れるための日々が始まる。



§



 医局に戻って職場に妊娠したことを伝えると、とたんに降り注ぐ祝福の言葉の数々。その一方で否応なく出産に向けて、仕事のタイムスケジュールを詰めていかなければならなくなった。


 母体や胎児保護の観点から仕事は軽くするようにと医長からの指示が降りる。

 ボク自身は今までの仕事量でも大丈夫な自信はあったけれど、院生時代にボクが起こした数ある所業の記憶がまだスタッフにも染みついているのか、そこは厳しく徹底されることになった。


 そんなお達しはあっても病院はやっぱり忙しく、祝福とは裏腹に人員の都合もあって、11月末までこれまでどおり働くことになった。その後も後任の医師に引き継ぎやらなんやらしなければならなくて、どうやら年末ぎりぎりまで休めそうにはないのだけれど。



 茹だるような夏が過ぎて空が高く澄む頃になると、いよいよボクのお腹も膨らみが目立つようになってきた。


 ありがたいことに悪阻もなくて経過は順調そのもの。時折内側から蹴ってくる胎動を愛おしく感じながら、相変わらずバタバタと院内を駆ける生活が続く。


 私生活では少ない休みの日をフル活用して出産準備に追われた。

 司が上手くサポートしてくれる。ママも時折様子を見に来てくれるし、お義母様もあれこれと世話を焼いてくれる。


 母方の三人、父方の三人、合わせて六人の愛に包まれて、ボクのお腹の中で育まれる新しい命は、今一体どんな夢を見て育っているんだろう。



§



 そして、ボクとゆう姉の誕生日が今年もやって来た。


 12月27日。


 12月に入っても仕事がばたついていたけど、下旬に入ってボクはようやく産休に入る事ができた。

 久しぶりに、本当に久しぶりにのんびりできる年の暮れ。


 そんな29歳になる誕生日を、ボクは実家で迎えることになる。


「ずいぶんお腹が大きくなったね。大丈夫? 張ってきたりしてない?」


 ソファーで半ば寝そべるようにだらけてテレビを見ていたボクに、ママが話しかける。


「うん、大丈夫だよ、ママ。順調すぎて先生も驚いてるくらい」


 ボクの軽い返事に、ママも本当に嬉しそうだ。


「そう、それは良かったね。それで、男の子なの? それとも女の子?」


「……それ、生まれたときのお楽しみじゃなくていいの?」


「うふふ。それもそうだね。

 うーん、知りたくもありだし、取っておくのもありだけど……


 うん、やっぱり楽しみに取っておくわ。


 ゆうちゃんはどちらなのか知ってるんだよね?」


「うん。もうずいぶんと早いうちにね」


「そっか。

 うん、それなら良いんだよ。ママは生まれたときのお楽しみにしておくね。


 もちろん、パパもそれでいいんでしょう?」


「え? あ、ああ。僕も生まれたときで問題ないねえ」


 問題ないと言いつつも、少しばかり残念そうなパパだった。


「それで、出産したらうちにしばらくいるのよね?」


「うん、こっちでお世話になろうかなって」


「それがいいと思うわ。最初はゆっくり休んでる暇もないからね」


「そうなんだ」


「赤ちゃんが目を覚ましたと思ったら授乳でしょ、これが時間かかるのよね。やっと終わったと思ったら何か出てるからおむつ替え。すぐ汗だくになるから着替えさせなきゃだし、ぐずり始めたらあやさなきゃいけないけど、最初は首が据わらないから抱っこも気を遣うしね。それで、そういうのが三時間とか四時間おき」


「ええ?」


 蕩々と語るママとその内容に、ボクはさすがに戸惑いを隠せなかった。


「ゆうちゃんが思ってる以上に大変よ?

 でもね、赤ちゃんの顔見てると、この苦労も全部吹き飛んじゃうからね」


「そうなんだ」


「そうだよ。

 なあんて偉そうだけど、ママもそんなに経験豊富なわけじゃないしね。だから、一緒に頑張ろ?」


 そう励ましてくれるママの瞳は、優しいけれどとても真剣にボクを見つめていた。 


 今ならママの気持ちがよく分かる。

 29年の刻を越えた、消えない痛惜。


 でも今はボクとママ、そして司とパパ、さらに生まれ変わったゆう姉もいる。みんなで一丸になって乗り越える。


「大丈夫だよ、ママ。は絶対に大丈夫。

 ボクがいる、司もいる、パパだっている。


 それに、ゆう姉もどこかで応援してくれてるよ。


 だから、絶対に大丈夫。乗り越えて行こう?」

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