第2話
翌日の練習初日には自分の他に、もう一人無駄に元気のいい女子生徒が参加した。新歓に参加した11人の中で実際に「入部」したのは私を含め2人だけだった。私は自前のエレキベースとアンプを持参した。彼女もおそらく私物と思われるアルトサックスのケースを肩から掛けていた。その日体育館横の練習場所には自分とその女子生徒と齋藤先輩の3人が集まった。部員全員が同じ日に集まると、合唱練習の妨げになると林希に文句を言われるため、練習日を分散させているのだ。
「あれ、松野くんはトランペットじゃなかったの?」
1年生の女子部員が聞いてきた。
「だって先輩方がみんな高音楽器ばかりでしょう。私が低音をやりますよ」
新入生が入部を渋る最大の理由は実は吹奏楽部の冷遇ではない。楽器が無いのだ。吹奏楽部で使られる楽器がどれくらいの値段か分かるだろうか。小型の高音楽器ですら最低でも10万円はくだらない。チューバなどの大型楽器になるとその数倍はかるくかかってしまう。だから比較的安価な高音楽器はまだしも多くの楽器は学校の備品を借りるのが一般的だ。しかし高咲高校には楽器の備品なんてない。だから自前の楽器を持っていなければ入部しても活動できないのだ。故にほとんどの先輩の担当楽器は高音楽器で、低音楽器を持っている人はいない。そこでひそかにバンドにあこがれを抱きエレキベースを持っていた私が低音を担当しようと思い立ったのである。
無駄に元気のよい女子部員は遠藤春香といった。他の新入部員が齋藤先輩の話を聞きドン引きする中、なぜか彼女だけは目をキラキラと輝かしていた。齋藤先輩の話のどこに心をときめかせる要素があったのかわからないが、先輩が「部室がないの」というと「そうなんですね!」と嬉しそうに答え、「リコーダーの練習」というと「懐かしいですね!」「タンポポの観察」「私もタンポポが大好きなんです」と地獄のような返答を繰り返した。齋藤先輩も相当変わり者だと思ったが、この遠藤春香もそれに負けず劣らずイカれていた。
僕のエレキベースを見るなり「それ、ギター?」と遠藤が聞いてきたので、これはエレキベースといってギターよりずっと低い音が出る。アンプでいくらでも音を大きくできるからこれ一本で低音のパートは十分になるというと、遠藤はおおともええとも聞こえるあいまいな感嘆を上げてバカっぽく顔をくちゃっとして笑った。
バカっぽさとは裏腹に遠藤のサックスの腕前はなかなかのもので、無理のない透き通った音色をしていた。そして難しいスケールを吹いている遠藤の顔は真剣そのものでそのギャップに私はときどきドキッとした。
先輩がたが全員高音楽器だからとベースを担当することに決めた私だが、そんなこと全く気にする必要ないとすぐにわかった。咲校吹奏楽部は合奏なんてしない。その日練習に参加した3,4人のメンバーで適当にセッションをすることはあっても、全員が集まってなにか一曲仕上げるということは全くない。練習日を分散させているのだから全員が一堂に会することはないので当たり前のことなのだが。実は過去に一度だけ大きなカラオケを貸切り当時の8名の吹奏楽部部員で合奏をしようと試みたことがあったらしいのだが、いくら何でも音が大きすぎるとクレームが来てあえなく中止したという。
「ライブハウス借りればよくないですか?」と一度斎藤先輩に提案してみたことがあるのだが、「ええ、あんな怖い人が多そうなところ行けないよ」とあっさり却下されてしまった。
咲校吹奏楽部は部活として認められていない。ゆえに部室などあるわけもない。ただ、楽器や譜面台などをいちいち持ち帰る部員を不憫に思った先生たちが、体育館倉庫の余りのロッカーを備品入れとして使うことを認めてくれていた。というか黙認してくれていた。
咲校吹奏楽部のメンバーは、一言でいえばのほほんとしていた。学校からそっぽを向かれこれほど不憫な状況に置かれているにも関わらず、現状に不満を漏らす人間がひとりもいない。吹奏楽部は文化祭へ出ることはできない。練習の成果を発表することもできない。ただ週に2,3回、体育館横の渡り廊下で2時間ほど楽器の音を鳴らして、それで終わりである。タンポポ観察についても特に研究発表会があるわけではないし、外部との関りがない。咲校吹奏楽部の全ての活動は自己完結しているのだ。
吹奏楽部に入って困ったことがある。学校の友達や家族に部活について聞かれた時どう答えればいいか分からないのだ。クラスの友達と部活動の話になったときは気まずい。そういえば松野ってなにやってるんだっけ。あ、そうか例のあの…。吹奏楽部はボルデモートかなにかだろうか。中学校まで一緒に練習していた元部員の友人と会う時も部活について聞かれるのはつらかった。「あれ、咲校って吹奏楽部あったっけ?」と聞かれたときは、「いやうちの学校吹奏楽部ないんだよね」といつも答えていた。嘘はついていないが本当のことも言っていない。高校に入ってから吹奏楽の話を全くしなくなった家族にも不審がられた。「あんた毎日ギター背負ってるけど、軽音でもやってるの?え、吹奏楽部?」説明が面倒という以上に、成果を見せる場所がないことが辛かった。
「吹奏楽部でベースを弾いているんだ。今度の文化祭で発表するんだ。みんな毎日音楽室で練習をして、顧問の先生がおもしろくて、部員は50人いて、仲もよくて、とても楽しいんだよ」胸を張ってこう答えたかった。
吹奏楽部に入ってしばらく大人しく活動していた私も、時間が経つにつれ自らの境遇に対する不満を感じるようになった。その不満は学校の自分たちに対する冷遇もさることながら、こんな現状にもかかわらず文句のひとつも口にしない従順な先輩たちにも感じるようになった。不憫な現状にもかかわらず先輩たちはなぜか幸せそうに見えるのだ。なぜそんな幸せそうに楽器を演奏できるんだ。自分たちが馬鹿にされていることをわかっているのか。
というかなぜ私はこんな活動に参加しているんだ。一生懸命練習したって聴かせる人がいなければ意味がないじゃないか。誰にも聴かれない音楽なんて、誰にも食べられない料理と同じじゃないか。
「それでね、その先輩がね、うちの学園祭で演奏しないかって言ってくれたんだよ」
正社員になった同級生に嫉妬するフリーターのように卑屈になっていた僕を救ったのは遠藤だった。
「え?」
「だから、せっかく練習しているんだから、大学の文化祭で演奏すればいいのにって、そこの大学の芸術学部の先輩が言ってたんだよ。大学に相談したらしいんだけど、大学の学生も演奏に参加するならOKだって」
咲校の隣にはある私立大学の芸術学部キャンパスがあった。遠藤の話によると、まずその大学に進学した遠藤の知り合いの咲校生が咲校吹奏楽部のことを大学の知り合いに話した。その話が大学のジャズバンドサークルの人の耳に入った。その人は同じ音楽を愛する者として、咲校吹奏楽部の現状に愕然として、救いの手を差し伸べたいと思ったらしい。遠藤はその人と会った。はじめは、すぐ隣なんだからうちの大学で練習をすればいいじゃないかという話だったのだが、せっかくだからもう一緒に練習して、大学祭で演奏するのはどうだろうか、ということになったらしい。最高じゃないか。(続く)
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