第17話 失ったもの

 診療所に帰ると、イオはもう起きていた。

 ベッドの上で座り込み、膝を抱えてぼんやりと考えごとをしていた。その横ではアドリナが心配そうにイオの様子を見守っている。

 シュトシュノに連れられて窓から入るなり、ラスラは喜びのあまり叫んでイオに飛びついた。


「イオ!良かった、おれ一時はどうなるかと……」


 ラスラは違和感を覚えて言葉を途切れさせる。

 青い澄んだ目がゆっくりラスラを見た。コウモリの洞窟の池に似ている、と思った。とても綺麗で、透き通っていて、混じり気のない。

 そして、何も映していない青色の瞳。


「い、イオ?」


 じっとイオはラスラを見つめた。

 小首を傾げて尋ねる。


「どうしたの、ラスラ」


 変わらない声。変わらない言葉。

 なのにラスラは動揺した。おかしい。イオが変だ。

 イオはそんなラスラに不安そうな顔をした。助けを求めるように視線をさまよわせる。


「ねえ、二人とも。落ち着いてよく聞いて」


 一部始終を見ていたアドリナが口を開いた。

 戸惑った二人の視線を、彼女は落ち着きを払って受け止める。こうなることは予想していた、とでもいうような様子だ。


「イオ君、だったかしら。彼に憑いていた悪霊はだいたい追い出したわ。もう命をおびやかされることはない」

「あ、く……りょう?」


 またイオは首を傾ける。自分の身に何が起きたのか、まだ知らされていないのだ。


「君たちが近付いた巨樹の精よ。私たちはツァーリと呼んでいる。ツァーリはいたずら好きで、だれかを誘い込んでは取り憑いて命の柱を凍らせてしまうの。命の柱を凍らされた者は生気を奪われてやがて死んでしまうわ」


 ラスラは巨樹に飛び込んでいった野ウサギを思い出した。そして、死人のように青ざめたイオも一緒に思い出して身震いする。


「イオ君は取り憑かれたツァーリの数も少なかったし、処置も早かったから幸運だった。私と先生はヌイを使って悪さをしているツァーリを鎮め、イオ君の身体から外へ出したの。ただ」


 アドリナは言いよどんだ。


「はっきりしないな。一体どうしたって言うんだ」


 壁にもたれかかっていたシュトシュノが眉をひそめる。

 じろりとアドリナはそちらを一瞥し、そしてラスラに向き直った。


「ねえ、君はどう思う? イオ君を見て、何か違和感がある?」


 言われて、ラスラは二人を見比べているイオの顔を見る。


「違和感ってほどじゃないんだけど……。いつもと違うっていうのかな」

「いつもと違うってどういう風に?」

「えっと、ごめん。はっきり分かんないんだ。でも」


 もどかしさを感じながら、食い入るようにイオの一挙一動を観察する。心のどこかで引っかかっている。

 なにかが変わっているのではない。あえて言うなら、そう。なにかが足りないのだ。


「なあイオ」


 ラスラはたまらず声をかけた。

 イオと目を合わせたラスラは、引っかかっているなにかを確かめるために一つだけ質問をする。


「どうしておれがこんな恰好してるか分かる?」


 かぶりっぱなしだったフードをはずし、ラスラは緑色に塗りたくった顔をさらした。

 シュトシュノもアドリナも、質問の意味が分からなかったようだった。

 イオはラスラの顔をまじまじと見る。今まで全然気付きもしなかった、というように首を横に振る。


「そんなの、ぼくに聞かれたって分かるわけないよ」

「うん。そっか」


 ラスラはうなずいた。

 それからラスラは待った。何かを期待するように、イオの顔を覗きこむ。

 一度は話題が終わったと、興味を失ったようにラスラの顔から目をそらしたイオだったが、ラスラの視線に気が付きやがて居心地悪そうにたじろいだ。


「い、一体なんだって言うんだ」






 その瞬間、ラスラの感じていた引っかかりの正体がはっきりと分かった。






 ショックを受けて、よろめきそうになった。


「ラスラ?」

「違うよ。イオ、違うだろ!どうしちゃったんだよ!」


 肩を揺さぶるラスラに、イオは目を白黒させる。


「え、な、なに」

「おれの知ってるイオは村一番の知りたがり屋だ。自分に分からないことがあったら、絶対に確かめずにいられない」


 イオの目が大きく見開かれる。

 ラスラの目には涙がにじんていた。


「いつものイオだったら、おれがこんな恰好してたら真っ先に気付いたよ!ううん、気付かなくったっておれがあんな質問したら、『なんで』って聞き返すだろ!どっかおかしいのか?まだ気分悪いのか?」

「ぼ、ぼく」

「ラスラ君、その辺にしなさい。イオ君が混乱してる」


 間に割って入るアドリナを、ラスラはきっとにらむ。


「治ったんじゃないの?」

「ねえ、お願い。落ち着いてちょうだい。私も先生も最善を尽くしたのよ」


 それは暗に、まだ治ってはいないと言うのと同じだった。

 アドリナはラスラを椅子に座らせ、今度はイオに顔を向ける。


「イオ君、君はツァーリに憑かれている時のことは覚えている?」

「少し……」


 自信なさげに首を振る。


「意識がふわふわしてるみたいだった。それにすごく寒かったんだ。最初は頭の中がごちゃごちゃしていたけど、だんだん真っ白になって……なんにも考えられなくなった。それからは全然覚えてなくて、気が付いたらここにいたんだ」

「その時、なんでもいいわ。なにか感じなかった?」


 イオはまたぼんやりと考え込んだ。うなじに手を当てる。


「そういえば……寒いなって思っていた時に、すごく怖くなったんだ。このままぼく、死んじゃうのかなって。怖くて怖くてたまらなかった。どうしてあの白いもやはぼくらを襲うんだろう、あの木は一体なんだったんだろうって……」


 淡々と語るイオ。

 アドリナはそれを聞いて、目を伏せた。


「恐怖。それから、好奇心」

「え?」

「ツァーリはイオ君の命の柱に取り憑こうとしたの。その時に命の柱の一番表面の部分、つまり感情を凍らせたのよ」


 ラスラは心臓が止まりそうだった。イオも瞳を揺らす。


「どういうこと?それって治らないの?」

「私たちにできるのはツァーリを追い出すだけ。凍りついた感情を溶かせるわけじゃないの。他人の命の柱に深く干渉したら、なにが起きるか分からないもの」


 容赦のない言葉に、ラスラはまだ視界がにじんだ。

 感情が凍りつく?いまいちぴんとは来なかったが、ラスラに分かったのは今までの知りたがりのイオがいなくなってしまったということだ。

 イオはもうおれの話を、目を輝かせて聞いてはくれない?


「ねえ」


 うなじをなでていたイオが、おずおずと口を開く。


「まだなにか、隠してるよね」

「!」


 ラスラはアドリナを見た。アドリナの表情はみじんにも動いていない。


「さっきから歯切れ悪いもんね。本当のこと、言いづらいからそんな風に言うの?」


 イオは一息つき、目を細める。


「最初に言ってたよね。ツァーリは『だいたい』追い出したって」

「あ、アドリナ!まさか」


 慌てた様子で詰め寄るシュトシュノ。

 アドリナは視線を落としていた。


「ごめんね。あまり君たちを怖がらせたくなかったから。隠すつもりはなかったの。それに治療に手を抜いたつもりもない。さっきも言ったけど、私も先生も最善を尽くしたのよ。だけど、イオ君の言う通り。君の体にはまだツァーリが残っている」

「えぇっ!」


 腰を浮かしかけたラスラを、イオが押しとどめる。

 だけどかまわなかった。ラスラは声を荒げて怒鳴る。


「どういうことだよ!ちゃんと助けてくれるって!」

「イオ君が運ばれてきた時、もうすでにツァーリはイオ君の命の柱にしっかりからみついていたの。なんとか引き剥がそうとしたけど、無理に手を出すとその子の命をバラバラにしかねなかった。どうしようもなかったの」


 アドリナは申し訳なさそうに言った。


「私たちはからみついていたツァーリを鎮めて、これ以上イオ君の命の柱に干渉させないようにしただけ。これ以上イオ君に悪さはしないわ」

「だけど……!」

「大丈夫だよ、ラスラ」


 当の本人であるイオはいたって冷静だった。軽く肩をすくめさえしてみせる。


「これ以上悪くなることはないってことでしょ」

「いっ、イオはなんでそんなに落ち着いてるんだよ!怖くないのか?」


 言ってしまってから、ラスラはあ、と言葉を飲み込んだ。


「怖くないね。自分でもびっくりするくらい。感情が凍りついたっていうのは本当みたいだ」


 こんな時なのに、イオはちょっと感心しているみたいだった。

 まるで別人を見ているようだ。

 それを見ていたアドリナが元気づけるように付け加える。


「感情が凍りつくと言っても、それはなくなってしまったわけじゃないわ。ちゃんと時間をかければ、凍ってしまった感情を取り戻すことはできる。その人がその人でなくなるわけじゃないのよ」

「だって。ほら、ラスラ。元気出してよ。君の方が死にそうな顔してるよ」


 イオがラスラに手を伸ばす。

 その時、ラスラは自分でも思いがけない行動をとっていた。

「?」


 イオは手を引っ込めた。驚いた表情がみるみる広がる。

 ラスラはイオの手を弾いた自分が信じられなかった。


「あ……」


 謝罪の言葉がちゃんと言えなかった。

 胸の熱い何かがのど元にせり上がる。ラスラはそれをかみ殺して部屋から飛び出した。後ろでイオが呼ぶ声がしたが、もうまともに顔も見られそうになかった。

 ラスラは倉庫に駆け込んでいた。昨夜自分が丸まっていた棚に入り込み、フードを引っかぶる。

 むせび泣く自分の声が遠くに聞こえた。

 この世界でたった一人ぼっち、取り残された気がした。


 ◆


 真っ白な天井を見上げ、イオは自分の胸に手を当ててみた。


 指先に感じる、とくんという鼓動。生き延びたという実感が熱となって伝わる。


 看病してくれたアドリナも、ラスラと一緒にやって来たシュトシュノという人も、部屋から出て行ってしまって今はイオ一人だ。


 ラスラが飛び出した後、シュトシュノが代わりにイオが倒れた後なにがあったのかを教えてくれた。聞き終えた感想は、よりにもよってトカゲの長に助けを求めるなんてラスラはやっぱりすごいな、だった。あれだけトカゲの長に怖い思いをしていたはずなのに。


 隣の部屋から聞こえていた泣き声は、もう聞こえなかった。泣き疲れて寝たみたいだ。あんなに泣きじゃくるなんて小さい頃以来ではないだろうか。


 シュトシュノもアドリナも心配そうにしていたが、二人がラスラに声をかけに行こうとするのをイオは止めた。今はそっとしておいてやってほしかった。ラスラは誰かに泣き顔を見られると本当に怒るから。変なの。涙もろいくせにね。

 ぞくり、と身体の芯が冷えた。イオは身震いして毛布を深くかぶる。


「そんなにぼくと仲良くなりたい?」


 自分の中に居座ったツァーリに話しかける。

 返事はない。自分にもヌイとかいう力があれば違ったのかもしれない。話を聞いていると、どうやらヌイというのは他人の命の柱に接触する力のことらしい。人の心も感情も記憶も全部命の柱に凝縮されているから、ヌイを操るというのは誰かと心を通わせる力と言ってもいい。トカゲの長はあいさつ代わりにこれを使っているようだ。


 アドリナに質問攻めして得た情報に、イオは苦笑いする。


 これは別にイオが知りたかったわけじゃない。前ほど見知らぬものに魅力を感じなかった。ただ、知りたがりのふりをしたかっただけだ。




 もうラスラにあんな悲しそうな顔をさせたくなかった。




 一応、罪悪感はまだ残ってるわけだ。イオは長々と息を吐く。

 石ばかりの世界にいるからだろうか。視界に映る世界が灰色に見えた。どれもつまらないように思えた。だけどそれをラスラに教えちゃだめだ。優しい自分の友達はまた泣きそうになるだろう。


「ごめんね、ラスラ」


 ぼくは君に謝っても許されないことをしてしまった。

 毛布にくるまり、イオは静かに目を閉じる。



 なんだか疲れちゃったなあ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る