コラム アレストリア革命の文化的背景

 1789年頃、アレストリアの人口はおよそ3400万人ほどだったと言われています。

 当時、その内の七割強が帝国領の西側に集中していた事が、最新の研究で分かってきました。


 広大なアレストリア帝国、その領土は大きく分けて、平野部が多く、肥沃で交通の便にも恵まれた西側と、山脈地帯に近く、深い森が広がる東側に分かれていました。

 更に東へ行けば、帝国とカンザリー連合王国をへだてる天然の国境、小スマウラ山脈に行き当たります。


 ともあれ、現代でもそうであるように、帝国の西と東では、自然の姿も、文化も、全く異なっていたのです。辺境に行けば、帝国公用語が通じないことも珍しくなかったほど。


 帝国の歴史書を紐解くと例えば、「シャルル」と「チャールズ」のように同じ人名を表す言葉が混在して出てきますが、このように言語の面でも不統一なほど、帝国は多民族国家、多文化国家だったというのが、現代の定説です。


 この文化の多様性、東西の対立が、あの革命にも影響を与えたと考えられます。


 アレストリアは本来、東部の一王国でした。それが「大帝」ワグナー以降、西側を征服して領土を広げ、1448年に西の要衝へ遷都、皇族の姓を取り都をアルフェンと名付けました。


 それ以降も帝国は拡大を続けますが、人口が増大し次々と新しい文化が混ざり合う西側と、帝国の古い姿、伝統的な在り方を残す東側という構図が作られていきます。


 特に、「革命の世紀」と呼ばれる1700年台は、西側諸国の革命から戦火を避ける人、南洋の植民地からの移住者など、人口の流入が激しかったことが、様々なデータから明らかです。

 現代では名君と見られることも多いウェルナー帝の、痛恨の失策「亡命貴族保護法」、正しくは「西方からの亡命者達の、権利に関する諸法律」以降、人口の流入は更に増え、1780年台、革命前夜に、まさにそのピークを迎えます。


 多くの人間、新しい文化の流入は、混乱も招きます。

 とくに宮廷においては、連邦に滅ぼされた国々からの亡命貴族達により、「ロココ文化」と今は呼ばれる、華やかで、しかし贅沢かつ怠惰な文化が広がります。

 それは、奢侈しゃしで知られる「赤字夫人」フィオリナ妃の一派とも結び付き、宮廷の堕落は眼を覆うばかりでした。


 この状況をうれいた知識人や、帝国の伝統的な家風を受け継ぐ東部の貴族を中心に生まれたのが「新古典主義」、帝国の古き善き姿に、本来の精神に帰れ、とする運動です。


 「革命の乙女」の一人ロザリア・オルベインをはぐくんだこの気風は、やがてミアリス帝を旗手として一大潮流となり、革命へ無視出来ない影響を、与えていくのです。



 -モニカ・グルースキー著「女性達の帝国史」三巻、679頁より抜粋-

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姫君革命 百合宮 伯爵 @yuri-yuri

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