幕前

文字通り、何一つ不自由なく生きてきた。

漫画のような話だが、スポーツも勉強も他人よりもできたし、欲しい物はなんでも買ってもらえた。

病院を継ぐことが父親の希望であり、使命でもあった。

幼い頃から医学部に入るための勉強をし、医師国家試験も無事合格した。

医師になる資格を手に入れ、研修も終えた。まずは大きな病院で研修医としてやっていくと誰もが思っていただろう。



漫画のような話だが、自分で生きていく力を手に入れた息子は、父親が敷いたレールから飛び降りた。


そして飛び降りた先は、最貧国の一つ、アフリカのマラウイだった。

国連の職員として、現地の生活支援と教育活動、医療活動などをおこなうためにマラウイにある子供病院に赴任したのだ。


はじめは現地の酷すぎる状況に言葉を失うこともあったし、そもそも言葉の問題もあり現地の人とコミュニケーションを取るだけで大変だった。

それでも、懸命に働くことで、現地の子どもの笑顔が見られたり、実際に命を救うことができた時には、とてつもない充足感を得ることができた。


数年間病院で働いた後、もっと現地の人と直接関わりたいと考えるようになり、ユニセフの職員として現地で働くことになった。

普通は希望しただけではユニセフの職員になることなどできないのだが、あっさりとなれてしまったのは色々なコネがあったからだと知ったのは、ずいぶんと後のことだった。

レールから飛び降りた後も、親は子どものことを気にかけてくれていたようだ。



ユニセフでは、現地の人のコミュニティと海外からの支援医療機関や政府との間を繋ぐようなことを主な仕事とし、合間を縫って現地の子どもの教育、というか遊び相手としての生活を送った。




任期があと1年になり、この後はどうしようかと考えていた頃に出会った少女がいた。


最貧国の一つであるマラウイでは、栄養失調が元で、多くの子どもがマラリアなどに打ち勝てず亡くなっていた。その少女は出会った当時10歳だったが、7歳くらいの幼女にしか見えなかった。両親をエイズで失っており、施設(と言っても、何かが提供されるわけもなく、ただ孤児が寄り集まって暮らしているコミュニティ)で暮らしていた。


仕事の合間を縫った活動、ボランティア活動ではあるが、やりがいや意義は子ども達との関わりの方に感じていたかもしれない。

5歳くらいから15歳くらいの子どもたちに、算数や英語を教えたり、スポーツを教えたりしていた。

少女はその子ども達の中でも少し異質というか、心を開いてくれるまで時間がかかった。

おそらく、ほぼ産まれながらにして孤児のような状況が多い他の子どもとはまた違い、5歳の時に両親をエイズで失ったことが原因の一つだと思われる。当時の彼女はエイズという病気自体を理解できず、周囲の大人の事情で無理やりに両親から引き離されたと感じたはずだ。そんな彼女は、大人を端から疑い、嫌う性質が身についてしまっていたのだろう。

ましてや、外国人にいきなり心を許すわけがない。



マラウイに来てから4年経っていたこともあり、言葉などコミュニケーションはほぼ問題なくできるようになっていた。仕事であれば基本的には英語で相互にやり取りするが、英語を喋れない現地の人も多く、現地の言葉、チュワ語もかなり覚えた。

特に子どもと話すときはチュワ語を使う。こちらの下手くそなチュワ語が子ども達にとっては面白いようで、笑顔のきっかけになったりもしていた。

実は子ども達との距離をぐっと縮める秘密道具がある。ポラロイドカメラだ。撮影後すぐに見られるのが嬉しいらしく、これがあれば、すぐに友達になってくれる。


その少女は、撮影しようとすると後ろを向いたりして避けてしまう。他の子ども達と自然に遊んでいるときは、とても素敵な笑顔なのだが、カメラを向けられた途端に顔を背けてしまうのだった。


子ども達が生活をしている施設の食堂のようなところの壁に、撮った写真を次々に貼っていった。近影した写真にはアルファベットで名前を書いて貼っていた。

弾けるような笑顔もあれば、少し照れたような顔もある。ひとりだけ、カメラ目線ではなく、空を眺めている女の子の写真がある。彼女は空を見つめている。空の虹を。


写真には「Mawa」と記されていた。



警戒心がなくなったわけではないが、時間と共に少しずつ心を開き、話をしてくれるようになっていった。Mawaは、幼い頃に両親から教育を施されていたため、英語でのコミュニケーションができた。


「どうしてヨースケはマラウイに来たの?」

Mawaは見た目は年齢よりも幼く見えたが、頭が良く、二人だけでする会話はとても興味深いものだった。


「うーん…。僕が生まれた日本は、このマラウイとは比べ物にならないくらい、食べ物がたくさんあって、着るものもたくさんある。全員ってわけじゃないけど、多くの人が、不自由なく日々の生活を送っているんだ。少なくとも僕にはそう見えていた」


「知ってるわ。山本先生もそう言ってた」


「それに、社会制度っていうの、わかる?まあ、暮らすための仕組みだね。そういうのもとてもきっちりとしていて、安全も保証されているんだ。たとえば誰でも少しのお金で病院で診察してもらったりさ、あと、この地域にはまだないけど警察官っていうのがいてさ、困った人を助けてくれたり、悪い人をやっつけたりしてくれるんだぜ」


「すごい。スーパーヒーローね」


「そうそう。困ったことがあれば、なんでも助けてくれる、スーパーヒーロー。道に迷ったら教えてくれるし、失くしものをしたら届けてくれたり、人を探してくれたり、とりあえず日本では困ったら警察に行けば良い」


「何でニヤニヤしてるよ。嘘なの?」


「ふふ。嘘じゃあないよ」


「ほんとに?ま、とにかく、いいわね日本って。警察官もいるし。それで、どうしてそんな良い国からこんな国に来ちゃったの?」


「やっぱり、恵まれすぎてたからかなあ…。そんな日本の中でも、僕はお金持ちの家に生まれて、本当に何も不便をしなかった。でもね、不便じゃないだけで、あまり自由じゃなかったんだ」


「よくわからないわ」


「僕の家は代々医者をやっていて、大きな病院を持っていたんだ。この国でもそうだけど、医者っていうのはとても重要な仕事だから、尊敬もされるし、お金もたくさんもらえるんだ」


「素晴らしいわね。うらやましいわ」


「そうだね。日本でもそう思われていたんだと思う。でもね、僕にとっては、決められたままの生き方っていうのはとても窮屈で、自由じゃないと感じてしまったんだ。もっと自分がやりたいこと、自分が面白いと思うこと、自分が大切だと思うことはなんだろう?って考えたんだ。そうしたら、自分にとってそれは日本で医者をやることじゃないって思ったんだ。ずっと恵まれた環境で生きてきた僕は、もっと他の誰かのために生きる必要があるって。そう思ったんだ」


「誰かのために、ねえ…」


「そう。医者になる資格を得る少し前にこんな言葉に出会ったんだ。ノブレス・オブリージュ」


「ノブレス…オブリージュ?」


「そう。少し古いフランス語なんだけど、現代で使われている意味としては、余裕のある人は自分のためじゃなくて、社会のために生きなさいって感じかなあ。まあ、人によって捉え方は違うかもしれないけど、僕はノブレス・オブリージュっていう言葉に出会った時に、そんな風に解釈したんだ。敷かれたレールの上でぬくぬくと生きている場合じゃない!困っている人のために何かしなくちゃ!ってそう思っちゃったんだよね〜」


なんだか語りすぎて気恥ずかしくなってしまった。


「じゃあヨースケは、私たちにとってのスーパーヒーローね」


「そっかあ…。う〜ん、スーパーヒーローなのかなあ」


「そうよ。たくさんの病気を治してくれたし、子ども達の笑顔を取り戻してくれたわ」


「Mawaも笑顔になったよね」


少し照れたような顔になる。


「そういえばさ、Mawaって名前はご両親がつけてくれたの?」


「物心ついた時からこの名前だから、たぶんそうよ」


「そっか。素敵なご両親だね」


「どうして?」


「Mawaって、明日ってことだろ?」


「そうね。チュワ語で明日っていう意味よ」


「今日という一日がどうなるかもわからないようなこの国で、未来のことを願って付けてくれたんだろ?きっと」


「わからないけれど、そうかもね」


「とにかく、明日へ、明日へって」


「そっかあ…。そうなのかなあ…」


「わかんないけどね。でも、親って、何があっても子どもに幸せになって欲しい、素敵な大人になって欲しいって願ってるもんだよ。明日に希望を持って生きて欲しいって」


「……わたし、ずっと両親に捨てられたって思ってた…。けど、もしかして、ちゃんと愛されていたのかなあ…」


「決まってるじゃないか。君のことを捨てたわけじゃない。ご両親は治る見込みのない病気になってしまって、どうやったら君が幸せになれるだろうか、って賢明に考えていたんだと思うよ。その時にご両親の選択肢はあまり多くなかったとは思うけど、とにかく君が明日を生き残れる方法を選んだんだと思うよ」


Mawaの両親は、親戚にMawaを引き取ってもらえば、下女のように死ぬまでこき使われることを分かっていて、あえて、孤児のコミュニティに入れるという決断をした。もちろん、楽な生き方ではないことは十分承知していたが、Mawaが自分で自分の生き方を選べる可能性がある方法を選んだのだった。


何か考えるように空を見つめているMawa。しばらくしてから口を開く。


「ヨースケはさ、そのうち日本に帰っちゃうんでしょ?」


「そうだね。ここの任期もあと3ヶ月だからね。一度日本に帰ろうと思ってる」


「日本って、遠い?」


「遠い…かなあ。まあ、飛行機で半日以上かかるから、遠いなあ」


抜けるように青い空が広がる。遠くの山並みの上にいくつか雲が浮かんで見える。


「…もうヨースケとは会えないのかなあ?」


「う〜ん…。もうマラウイに来ないと決まってるわけじゃないけどなあ。もう一度同じコミュニティに来ることはないかもしれないなあ」


施設の方からは子ども達の笑い声が聞こえる。


「そうだ。Mawaにこれあげるよ」


ポケットからコインを2枚と、小さなナイフを取り出す。1枚のコインにはM、もう一枚にはYとナイフで刻む。


「このYは僕の名前、洋介のイニシャルY。そんで、こっちのMはMawaのイニシャル」


Yと刻んだコインをMawaに渡す。


「この運命のコインが、また二人を出会わせてくれる。なんてね〜」


明るい気持ちになって欲しくて軽い冗談のつもりだったのだが、Mawaはとても嬉しそうにコインを眺め、そして握りしめた。


「とっても大事にする。次に会う時にはMawaはとっても大人になって、ヨースケは気がつかないかもしれないから、このコインがMawaのしるしね」


「ははっ。たしかに、大人になったMawaは想像できないな〜。もし会っても気がつかないかもしれないな。いつかさ、Mawaが大人になったら日本においでよ。そのコインを持って」


遠い未来を思い浮かべながら遠くを眺めていると、ふとこんな言葉が浮かんだ。


「空は繋がってるよ」


「繋がってる?」


「うん、そうだよ。空は繋がってるんだ。マラウイと日本はこの空で繋がってる。Mawaがこのマラウイで見上げる空は、僕が日本で見上げる空と一緒なんだ」


「遠く離れていても、同じものを見ていると思うと、…ちょっと素敵ね」


哀しいような嬉しいような曖昧な笑顔の彼女を見た。

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