憎しみ

憎し……


憎し


にくし


暗い闇の底のような深更の森のどこか、


その女は白い衣を着て、夜の森をさ迷っていた。


衣が地面の草に擦れる音がしているが、足音はない。


憎し……


憎しとつぶやきながら徘徊をしている。


なにがあったのか、なにがそんなに憎いのか。


と、女は立ち止まり天を仰ぎみた。


闇の天井を。


顔を隠していて長い髪が落ちて、美しい鼻筋と顎が現れる。


双眸から、涙の筋が零れた。


形の良い額の両側から瘤のようなものがむっくりと突出して、肌をつきやぶり角となった。


反り返った白い二つの角だ。




男は裸の女の後ろ姿を眺めていた。


布団に横になっている。


一物は立っている。


ロウソクの明かりが一つ、障子に影を作る。


女は鏡の前で紅を差していた。


赤い椿いろの紅を。


男は立ち上がり、掛けていた衣を羽織る。


「あら、どちらへ?」


「さんぽ」


男は戸を開けて、女の部屋を出た。


月も星も見えない、雲が空を覆っていて灯りをもたなければなにも見えないほどの夜だった。


当てもなく、男はふらふらと歩いていた。


と、少し遠くの方で白いモノが見えた。


ん?


男は立ち止まり、目を凝らした。


確かになにか見える、だが何かわからない。


灯りがないのに見えるのはおかしいなと思いながら、持っていた灯籠をもちあげてさらに目を凝らしてみる。


その白いモノは、だんだんとこちらの方へ近づいてくるようだった。


別に寒いわけではないのだが、なんとなく悪寒のようなものを感じた。


あれには近づかないほうがよさそうだ。


そう男が思ったとき、


声が耳に届いた。


女の声だ。


憎し……


憎し……


「小糸?」


男には聞き覚えのある声であった。


特徴的な声なのである。


前に好いていた女だ。


すこぶる美人で町で評判の女であった。


しかし死んだ。


男が浮気をしたと知ったら、川に身を投げたのであった。


男は死んだ小糸にまだ未練があった。


別に嫌いだから浮気をしていたわけではない、ただの遊びだった。


憎し……


女の声がだんだんと男に近づいてくる。


男はたちどまったまま。


「小糸なのか……」


男は、引き寄せられるように女の方に近づいた。


「お、おい」


女の姿が見える。


白い着物に、美しい顔、額には角が生えて、そして脚がなかった。


ズリズリと衣が地面に擦れる音が大きくなる。


「小糸」


女が目と鼻の先まできた。


男は、ただそのモノを見ていることしかできなかった。


灯籠が地面に落ちた。


火が消える。


闇しか無くなったが、女の白い影は男の目には見えていた。


女は男の姿が目に入っているのかいないのか、ただ通り過ぎた。


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