ひも
人気のない、夜の路地裏に一人。
ベージュのトレンチコートを着た長身の人物がヒールを鳴らしながら歩いていた。
コツ、
コツ、
コツ。
ヒールの音が止まる。
しんと静まりかえっていた。夜の空気が冷たい。
その人が立ち止まった先に、ボロボロに汚れた服を着て顔に殴られた後のある若者が、壁に背をあずけて座っていた。
若者は目の前にいる女性を光る眼で見つめた。
何秒か二人の間になにかが流れた。
女性はしゃがんでこう言った。
「お金欲しくない?」
若者はこう応えた。
「欲しい」
ただ、偽物でもいいから愛されたかった。
代価を支払らって愛されるなら、それでよかった。
愛は無償だとか、そんなのを聞いたことのあるような氣がしなくはないけれど、どうでもいいのだ。
愛情に餓えていた。
欲していた。
顔が好みだった。好きな顔だった。
彼に声をかけたのはそんな理由だ。
テーブルにココアの入った白いマグカップが置かれる。
「はい」
「ありがと」
私は、パソコンのキーを押しながら、マグカップに口をつけた。
彼はなんでもしてくれた。
料理も洗濯も掃除も、
キスもセックスも、
お金を支払えばなんでもしてくれた。
たとえ、お金の関係だとしても私は満たされていた。
「お金ちょうだい」
私は財布から十万円を彼に手渡す。
彼は嬉しそうにして、出かけていく。
家で一人になると、急に寂しくなる。
前、好きだった人と離れてからいつもこんな調子だった。
心に穴があいているようなそんな感じだ。
わけもわからずに泣いている時がある。
好きだった人がいなくなって、私の心は壊れてしまったようだ。
好きだった人の顔に似た彼の愛情を感じると落ち着く。
たとえ、本物の愛じゃなくても。
私は彼の愛情を感じていると普通でいられた。
彼が帰ってきたようだ。
私は、濡れた目を拭いて、ソファに横たわる。
「ただいま」
「おかえり」
彼は室内の灯りをつける。
「寝てた?」
「いや」
彼はそっかと答える。
「プレゼント買ってきたよ」
私は目を開けて彼の方をみる。
彼は私に近づいて手をとった。
指輪を薬指にはめる。
「結婚しよ」
彼は優しい笑顔でそういった。
私は、微笑んでこう答えた。
「ひもとはしません」
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