番外編

第70話 8月14日はリバース・バレンタインです

『人の子よ、今宵お弁当を買ってきたら、ゴッド乃亜はオコだぞ』


 怪文が梶野のスマホに送りつけられたのは、帰りの電車の中でのこと。


 慣れていない人には分かりにくいが、要約すると夕ご飯を買ってこなくても良い、とのこと。


「(また唐揚げ作ってるのかな)」


 乃亜の料理のレパートリーは、現状唐揚げのみ。そのかわり唐揚げ作りの技術はメキメキ上達している。


 唐揚げを楽しみにしながら帰宅すると、出迎えた乃亜は開口一番こう告げた。


「カジさん問題です!今日は何の日でしょーか!?チッチッチッチ……」


 やけにテンションが高く、突然始まったクイズ。

 乃亜によるカウントダウンを聞きながら、梶野は頭を巡らせる。


「8月14日……え、本当に分からない」

「チッチッチッチ……ドカーンッ!はい時間切れー、乗客の命助からずー!」

「そんな重大な局面だったのか……」


 そもそも何の乗客が何をされたのか。


 8月14日。

 この日にち、梶野はまったく身に覚えがなかった。


 乃亜の誕生日は前に祝った。他の誰かの誕生日でもない。何かの記念日でもない。

 一体何の日なのか。


「今日は、リバース・バレンタインデーです!」

「…………」


 答えを聞いてもよく分からなかった。


「もしかして、2月14日のちょうど半年前だから、リバース・バレンタイン?」

「さっすがカジさん!察し早めー!」

「リバースで合ってるの、英語……ていうかそんな言葉、聞いたことないけど」

「そりゃまぁ、アタシが考えたんだし」

「こんな正解不可能な問題のせいで、乗客の命は失われたのか……」


 とにかく、本日8月14日は誰がなんと言おうとリバース・バレンタイン、略してリババレらしい(ちゃん乃亜談)。


「それで、リババレは何をする日なの」

「そりゃバレンタインの逆ですから、男性が女性に贈り物をする日ですよ」

「えっ、ホワイトデーは?」

「バレンタインは女性が男性にチョコを渡す。ではリババレで男性が女性に渡すものは?『チョコの逆』といえば……もう分かりますよね、カジさん?」

「クッキーとか?」

「正解はカツ丼です」

「ごめんもう何も分からないよ……」


 乃亜に腕を引っ張られ、キッチンへ連れられていく梶野。そこには豚ロースや卵、パン粉などカツ丼作りに必要な具材が用意されていた。


「ということで、今日はカジさんにカツ丼を作ってもらいまーす!」

「そんな急に……仕事も残ってるんだけど……」

「ダメー!カジさん料理なんてほぼしたことないでしょ?」

「休日にちょっとやる程度だね」

「たまには新体験をインプットをしないと!非日常が人生を豊かにするんだよ!」


 乃亜にしては真っ当な意見である。

 ただ梶野は、そんな彼女の魂胆には気付いていた。


「カツ丼が食べたくなったけど、レシピ調べたら作るの面倒臭そうだったから僕に作らせようと思ったんでしょ。リバースバレンタインとかも単なる口実でしょ」

「うえーんタクトー!カジさんが揚げ足とるー!アタシの揚げ足とってパンツを見ようとするー!」


 乃亜はついてきていたタクトにしがみついて「ぴえんぴえん」と喚く。

 タクトは「どうでもいいですけど、ごはんはまだですか?」といった顔で梶野を見つめていた。


 そんなこんなでカツ丼作り決行。

 梶野が準備していると、乃亜もエプロンをつけ始めた。


「乃亜ちゃんもやるの?」

「そりゃだって、カジさん1人じゃ大変でしょー?せっかくだし一緒に作ろー」


 この時点でリババレの定義が崩壊していた。


「それにカツ丼を作れるようになれば、同時にトンカツもマスターできるじゃないすか。レパートリーが一度に2つも増えるのですよ、お得っすね!」

「唐揚げにカツ丼にトンカツ……パワフルなレパートリーだねぇ」


 準備ができたところで、梶野がタブレットを操作してレシピを読み上げる。


「えっと、まず玉ねぎを薄切り、か。じゃあこれは僕がやるから、乃亜ちゃんは豚肉の下ごしらえをして」

「うっす。何すればいいすか?」

「筋を切ったり、叩いたりとか」

「えっ、叩くんすか……豚さん可哀想……」

「肉になってる時点で可哀想でしょ」

「おいこの豚ァ!おまえ不倫してるらしいな!何とか言ったらどうなんだ豚ァ!」

「あ、ごめんそうじゃなくて、物理的に叩いてくれる?」

 

 梶野と一緒にキッチンに立っているのが楽しいらしい。

 乃亜はいつも以上にハイテンションだった。


 下ごしらえが済み、豚肉に薄力粉、溶き卵、パン粉をまぶしていく。

 油の準備もできたところで、乃亜が元気よく手を挙げた。


「はい!揚げるのアタシやります!」

「お、さすが揚げ物マスター」

「イエス!アタシに揚げられないものなどない!」

「でも気をつけてね。唐揚げとはまた勝手が違うだろうし」


 乃亜は手際よく、豚肉を高温の油に落としていく。


「うおー唐揚げよりも迫力がすごい!どれくらい揚げればいいんすかね?」

「キツネ色になるまで、だって」

「キツネ色……昔、動物園で見たキツネは泥まみれで汚かったんすよねぇ。タクトくらいの色ですかね?」

「タクト色だと少し焦げてない?」

「そっかぁ、タクト使えねぇなぁ」


 タクトは「えっ」といった表情で顔を上げていた。


「でも改めて考えると、揚げ物ができるってすごいねぇ乃亜ちゃん。僕なんてやったことないもんなぁ」

「そっすか?やってみれば意外と簡単っすよ」

「いやぁ僕はもうその高温の油を見るだけで怖くて……」

「熱ッ!」


 不意に油がはね、乃亜の手の甲に当たった。

 思わず声をあげた乃亜だが、見れば蚊に刺された程度の火傷。唐揚げ作りでもたまに起きることだ。


 しかし、梶野の反応は違う。


「だ、大丈夫!?」

「え、大丈夫っすよ。これくらいよくあるんで……」

「ほら、ちゃんと冷やさないと!」

「あっ……」


 梶野は乃亜の手をギュッと掴むと、シンクの水道で冷やす。


 乃亜は、真剣な梶野の横顔をじっと見つめていた。


「そうだ、軟膏あるよ!持ってくるね!」

「あ、はい……」


 キッチンから去っていく梶野の背中を、乃亜はボーッと眺めてしまっていた。


「……あ、トンカツトンカツ」


 油に浸かっていたカツは、香ばしい色になっていた。取り上げて油切りに置くと、乃亜はひとつ深呼吸。

 そして、そばにいたタクトに突如抱きついた。


「……んんん大事にされてるーぅ!アタシ、大事にされてるねータクト!ふひー!」


 乃亜は赤く染まった頬でタクトに頬づり。

 満面の笑みで梶野の帰りを待つのだった。


 タクトは「どうでもいいですけど、そこにあるカツは僕のですよね?」といった顔をしていた。




 その後はつつがなく、揚がったカツを醤油やみりんなどで作った調味料で煮て、溶き卵を混ぜ入れる。

 乃亜&梶野謹製・カツ丼の完成である。


「いただきまーす♪」

「いただきます」


 早速リビングにて、タクトのジトっとした視線を受けながら乃亜と梶野はカツ丼を一口。瞬間、2人とも目を輝かせた。


「おーーいしーーーー!」

「うん、最高だねこれは」

「いきなりこんなカツ丼ができるとか、アタシ天才じゃね!?」


 想像以上に良くできたカツ丼に2人は感動。あっという間に食べ終えるのだった。


 タクトも仕方なし、といった様子でドッグフードを完食。

 食後、2人と1匹でまったり。


「で、どうだった、リバース・バレンタインは」

「え、何それ……あっ、うん最高だったよ!」

「一瞬忘れてたじゃん」


 呆れる梶野をよそに、乃亜はつらつらと宣言する。


「他にもあるからね!来月はリバース・ホワイトデーでしょ!もちろんリバース・クリスマスもリバース・バースデーあるし、2月15日はバレンタインから一番遠い日ってことで、ファー・フロム・バレンタイン!あ、じゃあ明日はファー・フロム・リバース・バレンタインだ!」

「もう何でもありじゃん」

「アタシは記念日を作る天才だからね!」

「なんだそりゃ」

「いひひー」


 カジさんと過ごせれば毎日が特別。

 とは思ったが、あえて言葉にはしない乃亜であった。

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