第66話 脱色されていく世界

 日菜子が大学に行かなくなって、1ヶ月近く経とうとしていた。

 毎日彼女は家に籠るか、同じ大学の学生が寄り付かない住宅街や工業地帯などを散歩するのみ。


 原因は、講評会での講師の言葉。


『君の『押しつけ』に付き合っていられるほど、美大は寛大でないよ』

『それができるだけの才能を持っている人はごくわずかで、少なくとも君はそうじゃないよ』


 高校時代の彼女なら、講師の鼻っ柱に一発かましていたところだ。

 しかしそれすらできないほど、ショックだったのだ。


 彼女の心に傷をつけた要因はもうひとつ。


 これまではあまり注目していなかった、他の学生の作品を観察した。そこで日菜子の心は、完全に折れた。


 講師の言う通り、自分は人に何かを『押しつけ』られるだけの実力もセンスもないと気づいてしまった。


 自分はただ田舎で褒められおだてられ、世界を知らぬまま調子に乗っていただけの愚か者だと、痛感した。


 もう辞めてしまおうか。

 今からでも別の道を選んだ方がいいだろうか。


 そう思っていたときだ。

 連絡してきたのは、田舎の母だ。


「元気?大学はどう?」

「……まあまあ。で、どうしたの?」

「あんたがお世話になった美術の先生、いたでしょ?あの人、病気で退職したらしいわ」

「え……」

「しばらく入院するんだって。お歳だから仕方ないけどね。あんた、今度帰ってきたときにでも会いに行ってあげたら?」


『それじゃあ花野さんには、文化祭の看板作りをやってもらおうかしらね』


 自分を絵の世界に引き込んだ張本人だ。

 日菜子は言葉を失った。


「あの先生、いつも気にしていたみたいよ?上京したあんたのこと。だから頑張りなさいよ」

「…………」

「私はよくわからないけど、やっとあんたが見つけた好きなことなんでしょ?お母さんも応援してるわ。言葉じゃ言わないけど、お父さんもね」


 通話を終えると、日菜子の足は外へ向かった。


 真夜中の東京。

 郊外とはいえ、地元よりもずっと眩しく、詫びしい。


「…………」


 歩きながら彼女は、心を固く定めた。

 それは、悲壮な覚悟。


『君は赤を好んで使っているようだけど、それも個人的にはあまり特別なものは感じないな』


 日菜子はスマホを取り出すと、この時間でも開いている薬局を調べ始めた。


 ◇◆◇◆



「あれ、花野さんだ。久々だね」

「ていうか髪色ガラッと変えたね。今の茶髪の方がいいよー、親しみやすくて」

「……まぁ、ちょっと気分転換でね。それより学期末の課題っていつまでだっけ」

 

 赤髪から茶髪に変えると、同級生がよく声をかけてくれるようになった。


 男性から声をかけられる回数も増えた。

 いつまでも男嫌いなどと言っていたら社会でやっていけない。比較的無害で優しそうな男子と話すようになった。


 言うことを素直に聞けば、講師の印象も良くなり成績も上がっていった。


 花野日菜子は、どこにでもいる普通の大学生になった。


 広告代理店の内定も取れた。

 大きくはないが、地に足のついた良い会社だ。


 その報告なども兼ねてお盆休みに帰省したとき、仲間内で同窓会をした。


「まさかあのヒナミチが東京の広告代理店とはねー」

「何、そんなに変?」

「変っていうか……美大に行くって聞いた時は、もっと人とは違う仕事をするのかと思ってたよ。画家とか、イラストレーターとか」

「それがいざ帰ってきたら茶髪のごく普通の大学生。そんで今度は普通の会社員になるんだもんね。丸くなったねぇ」

「何よ、悪い?」


 同級生は「悪いわけじゃないよー」と前置きしつつ、語り出す。


「高校の時のヒナミチは、私らから見たら『自由の象徴』だったんだよ。好きなことを言って、好きなように生きて」

「だからヒナミチはいつまでもそのまま、特別な道を歩むんだろうなって思っていたから、今のヒナミチには少し驚いてるんだよ」

「……そっか」

 

イマ乃亜『ヒナミチが完全に、日菜子に戻った瞬間だね』

日菜子『戻るも何も、最初からただの日菜子だよ、私は』

イマ乃亜『まるで魔法が解けたみたいだ』

日菜子『乃亜ちゃんのくせに、ずいぶん詩的な表現をするね』

イマ乃亜『何言ってんの。私はイマジナリー乃亜ちゃんだよ。日菜子さんの想像力が生んだ乃亜ちゃん。つまり私も、いわば日菜子さんなんだよ』

日菜子『何それ怖〜』


 そうして花野日菜子は、美大を卒業。広告代理店に入社する。


 そしてその日――彼と出会うのだった。


「花野さん、初めまして。これから色々教えることになる、梶野了です。よろしく」


イマ乃亜『きゃーー1年前のカジさんだーーー!髪型違うーーっ、ちょっと肉付いてるーー!ひゅーーー!』

日菜子『いや、まごうことなき乃亜ちゃんだよ、君は』


 めでたしめでたし。


 ◇◆◇◆



「花野さん」


 福岡支社では私と梶野さんは隣同士ではありません。

 なので梶野さんはわざわざ私の席までやってきました。


「ちょっとお茶しない?カフェテラスで」

「へ?いいですけど……」


 エマ先輩から元カレ元カノ話を聞いて2〜3時間ほど経った頃、梶野さんから珍しいお誘い。


 ワクワクしたいところですが、どちらかというとドキドキが強いです。


 一体、どういう風の吹き回しなのでしょうか。



 つづく

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