第65話 果てなく広がる日菜子ちゃんの世界
暗闇を穿つハロゲンライトが、直径4.55mの神聖な土俵を照らす。
獣のような目で見合う2人。
間に入る女性が彼らに尋ねた。
「日菜子、お父さん、準備はいい?」
2人が頷くと、母は叫んだ。
「はっけよい、のこった!」
激しくぶつかり合う父娘。
その見事な立ち会いに、観客たちは「おぉ!」と唸り声をあげた。
「クッソじじいぃぃ!くたばれぇぇぇ!」
「誰がくたばるかこのバカ娘ぇぇぇ!」
家に近くの空き地で、父親とがっぷり四つ。
花野日菜子、高2の夏である。
イマジナリー乃亜(以下イマ乃亜)『いやだからイントロから激しいって!なんでいきなり父娘で相撲してるの!?』
日菜子『整体外科医のご近所さんも晩酌しながら観戦してるから、心配ないよ』
イマ乃亜『そういう問題じゃないし、晩酌してるんじゃダメじゃない!?』
「んんんどらあぁぁぁぁ!!!」
魂のかけ声が上がった直後、この日一番の歓声が湧く。
決まり手は下手投げ。
この夜は日菜子が勝ち星をあげた。
後ろでまとめた髪をほどくと、夜の闇に燃えるような赤が広がる。日菜子は、息を切らしながらもドヤ顔だ。
「最初の頃は日菜子ちゃんが負けっぱなしだったのに、もう五分五分じゃないか!」
「今日なんて小技もなく力でねじ伏せたぞ!」
「我々はとんでもない力士の成長を目の当たりにしているのかもしれない……」
取組が終わればご近所たちは酒を酌み交わし、大盛り上がりで感想を述べ合う。
一種の地域コミュニティとなっている花野家相撲である。
「それで、今日の喧嘩のきっかけは何だったんだ?」
ご近所さんの1人が尋ねると、日菜子の母親は呆れたように答えた。
「最近日菜子が夜遅くまで出かけてるから、お父さんが問いただしてね。そしたらすぐこの有様よ」
「だから学校に行ってるっつってんだろうが!」
「そんなウソを誰が信じるんだ!正直に言えっ、男ができたんだろう!?」
「違うわボケェェェ!!!」
ムキになり再度父親に襲いかからんとする狼少女・日菜子。
彼女はウソをついていない。
両親がそれに気づくのは、それから数週間後のことだ。
「……花野さん、本当にあなた1人でコレ、描いたの?」
「だからそう言ってんじゃん」
日菜子に看板制作を頼んだ張本人である美術教師は、完成品を見て目を見張った。
そこへ、日菜子の赤髪を発見した運動部の女子たちが、窓の外から美術室を覗き込んでくる。
「おーいヒナミチー!また呼び出しか……え、何このカッコいい絵」
「もしかしてこれ、ヒナミチが描いたの!?すげー!」
「よく分かんないけど、赤色の使い方がイカしてるね!」
迎えた文化祭当日。
校門に立てかけられたその看板に、多くの人が釘付けになった。
普段なら顔を合わせただけで小言を言う教師たちも、手放しで日菜子を褒めた。
そして、母親さえも。
「…………」
「な、なんだよ……」
「いや……良かったわね」
看板と、看板を前にした人々の様子を見て、母親は何を言うでもなく日菜子の肩をポンと叩いた。
その瞳は、少し潤んでいるように見えた。
日菜子は困惑した。
ただ自由に、自分勝手に描いただけなのに、なんだその反応は。
悪童として扱われてきた日菜子にとって初めてと言っていい、称賛の声。
それは、自分でも驚くほど心地が良かった。
それからの流れは怒涛のようだった。
美術教師が招待していた画家がその絵を見て絶賛。日菜子を美術予備校へ薦めた。
予備校にて、基本が疎かだったため初めは苦労したが、持ち前のセンスと根性であっという間に成長。
そうして1年半後、日菜子は東京の私立美大に合格。
家族や同級生や教師たちからは祝福され、日菜子は初めて自分の価値を理解することができたのだった。
イマ乃亜『絵に描いたような元ヤン成功譚じゃん。シンデレラストーリーじゃん』
日菜子『残念だけどね、この物語の先にいるのはシンデレラでなく、私なんだよ』
イマ乃亜『あれ、確かに……まるで有名画家のサクセスストーリーを見ている気分だったけど……』
そう、この物語はシンデレラストーリーなどではない。
これは、何者にもなれなかった人間の物語だ。
◇◆◇◆
花野日菜子、大学1年生の春。
上京し、初めての1人暮らし。
不安がないと言えばウソになるが、それ以上に期待が大きかった。
自分の人生を変えた、絵の勉強が好きなだけできる。
自分の可能性は際限なく広がっている。
東京という地で、誰よりも自由に自分を表現できる。
そんな勘違いをしていた。
「君の『押しつけ』に付き合っていられるほど、美大というのは寛大でないよ」
春学期の中頃、講評会で講師に告げられた言葉。
あまりに突然のことに、日菜子は言葉を失う。
「前回指摘したこと、何も反映していないよね。なんで?」
「……言われた通りにすると、私の描きたいテーマとかけ離れるから……」
講師は見定めるような目で、日菜子を見つめる。
「ここに来れば、自分の好きなテーマで、自由に絵を描けると思ってた?」
「……え」
「残念だけど、それができるだけの才能を持っている人はごくわずかで、少なくとも君はそうじゃないよ」
「…………」
「睨まれても講評は変わらない。花野さんは現役だよね。意固地でいるのは勝手だけど、このままじゃ何も手にしないまま卒業することになるよ」
去り際、講師は熱くも冷たくもない口調で、告げた。
「それと、君は赤を好んで使っているようだけど、それも個人的にはあまり特別なものは感じないな」
つづく
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