第63話 難儀だねぇ日菜子さん!

「――さん、花野さん」

「……え、あっ」


 梶野さんの声にハッとしました。

 何度か呼びかけられていたようです。


「池袋の店にリマインド送った?朝言ったヤツ……」

「あぁっ、すみません忘れていました……すぐ送ります」


 改めて皆さん、おはようございます。

 花野日菜子、24歳です。


 出張2日目。

 福岡は今日も晴れでございます。

 

 しかし私はというと、自他共に認める心ここに在らず状態でした。


「花野さん大丈夫?なんか朝からボーッとしてるみたいだけど……体調悪い?」


 梶野の心配そうな瞳が、余計に心を揺さぶります。

 頭の中がテレビ裏のコードのようにごちゃついている私には、無理やり笑顔を作るほかありません。


「いやぁ昨日のお酒がまだ効いてるみたいでー、すみませんシャキッとします!」

「あぁそうだよね。僕も朝から頭痛がすごいよ……」


 梶野は最後に一言「無理はしないでね」と添えて、福岡支社の仮デスクへと戻っていきました。


 私はリマインドを送ると、一度席を離れて自販機コーナーへ。流し込んだエナジードリンクで、喉や食道が焼けつきそうです。


 こういう時、冷たい水で顔をバシャバシャ洗えたら。世界中のみんな一斉に化粧をやめないだろうか。


「日菜子、おっす」


 ふと、エマ先輩が自販機からひょっこり顔を出します。

 彼女はコーヒーを買うそぶりを見せますが、きっと本当の目的は私なのでしょう。


「今日、一緒にランチどうだ?2人で博多ランチ」

「……いいですよ」


 正直、誘う手間が省けました。

 私はエマ先輩に聞かなければいけないことがあります。


 思い出すのは、昨晩のこと。


『ありがとう……キョーコ……』


 梶野さんは確かにエマ先輩に向け、呟いていました。


 乃亜ちゃんたちによれば、梶野さんの元カノの名前、とのこと。


 ちなみに梶野さん本人は昨晩の記憶が途中から曖昧らしいので、その発言は覚えていないと思われます。


 だからこそ今日の昼、エマ先輩へ斬り込む必要があるのです。


 エマ先輩、あなたは梶野さんの元カノなのですかと。


 ◇◆◇◆


「そうだよ」


 すんっ、と答えが返ってきました。

 私は箸でつまんでいたハマチの刺身を、ポテっと白米の上に落としてしまいます。


「いや、そんなあっさり……」

「そりゃ聞かれると思ってたからね」


 エマ先輩は平然とそう言ってお味噌汁をすすります。


 会社近く、お魚料理が有名な定食屋にて。

 私は新鮮なお刺身を前にしつつ、エマ先輩に恐る恐る尋ねました。『キョーコ問題』について。


 その回答が、前述の通りです。

 私の午前中の緊張を返してほしいです。

 ひらひらとかわしそうなエマ先輩をどう陥落させるか、理論武装を固めてきたというのに。


「大方、梶野の姪っ子ちゃんから聞いたんでしょ。えみりちゃんだっけ?」

「えぇ、キョーコって名前だけですけど……ていうかなんでキョーコなんですか?」


 エマ先輩は懐かしさを噛み締めるように目を細めます。


「私は会社でもどこでも『京田』じゃなく『エマ』って呼ばれることが多いからさ。彼氏には別の名前で呼んでほしいじゃん。スパイみたいに」


 エマ先輩は「恥ずかしいなこれ、改めて考えると……」と照れ笑いを浮かべます。


 スパイかどうかは分かりませんが、言わんとしていることは理解できました。

 確かに、エマ先輩を京田と呼ぶ人は、会社にはほとんどいません。


「それで、京田からキョーコ、ってことですか?」

「そうそう。苗字とかに子をつける流行あったじゃん。渋野なら『しぶ子』、ベッキーなら『ベキ子』みたいな」

「それをえみりちゃんが名前と勘違いしたわけですね」


 話しにくい話題かと思いきや、エマ先輩はスラスラと答えます。


「そもそも社内恋愛で、しかも同棲までして、よくバレませんでしたね」

「まぁそこは相当気をつけたよ、私も梶野も。でも正確には同棲はしていないよ」

「え、でもえみりちゃんは同棲って……」

「半同棲ってヤツだよ。その頃私は隣の駅、歩いて20分くらいのところに住んでたから。ほぼ梶野の家で寝泊まりして、逆に私の家は梶野の仕事部屋、私の読書部屋みたいになってたよ」


 同じ住所に住んでいたら人事にバレるからなぁ、と言ってエマ先輩は中トロを口に運びます。


 元カレの話をするエマ先輩の表情には、一切の陰りもありません。

 別れて1年以上。

 もうスッキリしている、ということでしょうか。


「別れた後、気まずくなかったんですか?毎日会社で顔を合わせて」

「それも別れる時、一番に約束したよ。絶対に、会社では普通にしようって。まぁなんとかなったよ」

「なんとかって……正直考えられないんですけど」

「別にドロドロのぐちゃぐちゃな別れ方でも無かったからな。何より2人とも、オトナだからさ」


 オトナだから。

 まるでそれを理解できない私は子供、とでも言いたげですね。


「なんか、怒ってるね」


 ふとエマ先輩がこんなことを言います。

「そんなことないです」と反射的に答えると、彼女はやけに優しく微笑みました。


 その笑顔が、むしろ頭にきます。


「さて、そろそろ戻ろうか」

「あの、最後にひとつ……梶野さんとエマ先輩は、ただの同期に戻れたんですか?半同棲までしたのに……」


 エマ先輩は一も二もなく答えました。


「戻ったさ。いまはもうただの同期で、ただの友達だよ」

「……そうですか」

「日菜子だって分かるだろ。元カレには、良い元カレと悪い元カレがいる。梶野は私にとって良い元カレってだけだ」


 そう言ってエマ先輩は席を立ちます。

 私よりも少し高いその背中を追いかけながら、心の中で思います。


 エマ先輩、私の元カレには良い元カレも悪い元カレもいませんよ。


 何故なら私は、過去を振り返らない人間なのですから。

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