第42話 乃亜の願い

「大切な人だって、言われました」


 カランッと、アイスカフェラテのグラスの中で、氷が音を立てる。


「アタシは、カジさんの大切な人です。どうぞよろしく」

「「…………」」

「これもう結婚じゃね?嫁じゃね?」


 日菜子も神楽坂も「またか……」といった表情を浮かべるだけ。

 特にコメントは無い。


 若い女子らで賑わう休日のカフェ。

 このテーブルだけ、異様な沈黙に包まれていた。


「ちょっとちょっと〜〜、なんで2人とも無反応の民なの〜〜?」

「大切な人って、乃亜ちゃんが言わせたようなものでしょ。事前に梶野さんに仕込んで」

「ちょっと卑怯ですよねー」

「な、何故それを知っている……!」


 実は数日前、吉水騒動の起りや顛末について、花野が梶野を捕まえて事細かに聴取していたのだった。


「梶野さん、よほど濃い体験だったのか、ちょっと飲ませただけで全部話したよ」

「私はその日菜子さんに聞いたー」

「くそーカジさんめー!アタシとのメモリーをベラベラと余所の女にー!」

「余所の女て」


 日菜子に羨ましがられ、神楽坂に祝福される計画が、すべて頓挫。

 地団駄を踏む乃亜であった。


「アタシが一番分かってますよ!自作自演・オン・ザ・プラネットってことくらい!」

「お、初めて聞く乃亜語だ」

「これたまーにしか出ないSSRな乃亜語ですよ、日菜子さん」

「それでも『大切な人』って言われたことに変わりはないからね!Tポイント爆増ですよ!ポイント女王ですよアタシ!」

「Tポイント?何言ってるの?」

「T(大切にされている)ポイントじゃい!」

「また変な言葉作ってる……」


 乃亜の中ではよほど重要なポイントらしい。興奮気味に語る。


「カジさんに大切にされてるなーってエピソードの数だけ、ポイントは貯まります」

「基準が曖昧……」

「30ポイントで首筋を1嗅ぎ 、50ポイントで耳の裏を1嗅ぎできます」

「嗅ぐしかねえのかよレート」

「そもそもこのポイントのこと、梶野さんは知ってるの……?」

「知ってる訳ないでしょ、今考えたんだから。アホだなぁ神楽坂は」

「すごいねこのポイントシステム。乃亜ちゃんの欲望とエゴイズムだけで構築されてる」


 乃亜は「うへへ」と笑いながら、ポイントの使い道に考えを巡らせる。

 長期間にわたり首筋を嗅ぎ続けるか。

 ドカンと一発、あんなところを……!


「でもじゃあ、私も30ポイントくらいなら貯まってるかも」

「んなっ?」


 神楽坂の一言に、乃亜はわなわなする。


「この前タクトくんの散歩に行く時、暑いからって冷たいお茶のペットボトル持たせてくれたし。戻ってくるまでに冷やしタオル作ってくれてたし」

「貴様そこになおれ……カジさんのお茶もタオルも、全部アタシのなんだぞ!」

「がめついポイント女王だな」


 その流れに、日菜子も嬉々として乗る。


「そんなこと言ったら私なんて、去年からずっと貯めてるからね、Tポイント。例えば2人でランチとか飲みに行ったら、だいたい奢ってくれるし」

「あぁ〜2人で飲みに行くの良いな〜〜ポイント云々関係なく羨ましい〜〜〜!!」


 自分で作った自分本位なシステムで、自分の首を絞める乃亜であった。


「私、梶野さんの首筋なら嗅げるんだ?」

「ふざけんな神楽坂!まだカジさんの前だと噛みまくってるくせに!」

「私なんてもう、梶野さんが泣いて許しを乞うまで嗅ぎまくりよ」

「どこをどれだけ嗅ぐつもりなの、日菜子さん!?」


 休日よく顔をあわせるようになった乃亜、日菜子、神楽坂。

 しかし後半はいつでも、うら若き女子とは思えない話題へ帰着するのであった。


 ◇◆◇◆


 女子会では結局日菜子と神楽坂から反撃を喰らったが、帰路につく頃には乃亜も女王のプライドを取り戻していた。


「(アタシがポイント女王であることに変わりはない……ひとまず今日は20ポイントでうなじ嗅ぎと洒落込みましょうか)」


 恐ろしいのは、存在しないポイントと嗅ぎとの交換というシステムが、乃亜の中ではもう当然のものとして機能している点である。


 嗅ぎを正当化するために、彼女は無意識に秩序を焼き払ったのである。


「…………」


 フロアに到着すると、乃亜は流れるように自宅をスルー。

 お隣さんの家の鍵を開ける。


 当たり前になった梶野家での時間。

 それでも当たり前にしたくない、彼との時間、彼との会話、彼とのすべて。


 だから乃亜はいつでも、梶野のそばで、告げられない愛を行動に紐づけるのだ。


 正真正銘の、彼にとっての大切な人、特別な存在になりたくて。


「カジさん、ただい……」


 そこに広がっていたのは、驚きの光景。

 梶野がえみりを、おんぶしていた。


「おっとっと、乃亜ちゃんおかえりー」

「ちょっと了くん揺らさないでー。あーダメだ、届かないー」


 そんな2人の周囲をウロウロするタクトは「楽しそう!次は僕もお願いします!」といった顔をしている。


 どうやらえみりはリビングの蛍光灯を取り外そうとしているらしい。

 だがおんぶされながら手を伸ばしても届かず、無念そうに梶野の頭に顔を埋める。


 その行為が、乃亜の心を激しく揺さぶる。


「(あ、あれは……1嗅ぎ100ポイントの、頭皮……っ!)」


 首筋や耳の裏より高級部位らしい。


「やっぱ無理かー。肩車にする?」

「やだよー肩車は流石に怖いって。素直に椅子持ってきた方がいいよ」

「そうするかー。ボロい椅子だから危ない気もするけど……」


 梶野はしぶしぶと寝室に向かった。

 乃亜は何やらぷるぷる震えながら、えみりに近寄る。


「え、えみり先生……なんで……?」

「なんでって、ライトの調子悪いから、取り替えようって話になって……」

「Tポイントいくつ貯まってるの……?」

「何言ってるの?」

「そうか……えみり先生は生まれた時からカジさんに大切にされている姪という特別な存在。生まれてこの方、貯め込み人生。本物のポイント女王は、えみり先生だったんだ!」

「ずっと何言ってるの?」


 乃亜が得意の独り相撲を披露する中、梶野がデスクの椅子を転がしてきた。


「ごめん、乃亜ちゃんがやってくれるかな?体重軽い人の方が安全だろうし、えみりじゃ届かないからさ」

「どうせちっちゃいですよー」


 その時「ハッ!」と乃亜が勘づいた。


「カジさん……もしかしてTポイントなんて、存在しない……?」

「いやあるけど。便利だよね」


 T(大切にされている)ポイントなんて存在しない。嗅ぎと交換なんて出来ない。

 乃亜は気づいた。


 乃亜は自由になったのだ。

 

「乃亜ちゃん、早くやってよ」

「あ、はい」


 言われた通り乃亜は椅子に登り、シーリングライトから蛍光灯を外す。

 そうして新たなモノを取り付ける。

 

 蛍光灯がカチッとはまった、次の瞬間。


 ガクンッ!

「うわッ!」


 デスクチェアの昇降機構が突如破損。

 急な縦揺れに乃亜はバランスを崩し、椅子から落ちかける。


 その刹那、彼女は大きくて温かい、何かに包まれるような感覚を得た。


 乃亜は梶野に、真正面から強く、抱きしめられていた。


「…………」


 至近距離にある梶野の顔。

 普段とは違う、ちょっとだけ怖い、精悍なオスの顔。


 乃亜はこの感情を知っている。


 これはあの日、この恋が始まった時と、まったく同じ気持ちだ。


「……うわわ、ごめん!」


 あの日と同じように、慌てて離れる梶野は耳まで真っ赤。

 乃亜も同じく、紅潮している。


 それでも、あの日からもう一歩先へ――。


「……助けてくれるって、信じてましたよ、カジさん」


 告げると、梶野は照れ臭そうに笑い「……うん」と呟いた。


「……了くん、顔がホコリまみれだよ。洗ってくれば?」


 えみりがジト目で告げる。

 梶野は「そ、そうだな!」と洗面所へバタバタ向かって行った。


 えみりは、その場でへたり込む乃亜を肩でつつく。


「見せつけてくれますねぇ」

「ふあっ……もう死んじゃいそう……」


 心臓を押さえる乃亜は、先ほどまでの余裕そうな雰囲気から一変、呼吸をするのも辛そうになっていた。


「なんかよく分からないけどさ〜」


 えみりは、深くため息をついて一言。


「乃亜ちゃんも十分、了くんにとって特別な存在じゃないかなぁ」


「ねぇ、タクト?」とえみりが同意を求めると、タクトは異論無しとばかりにワフッと小さく吠える。


「……うひぃ〜」


 情けない声を漏らす乃亜。

 その表情に浮かぶのは、なんの飾り気もない、心のままの笑みだ。


 人間社会を嘲笑し、孤独に身を焦がしていた在りし日のギャルJK。


 彼女は今、恋する少女になっていた。

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