4章 乃亜の夏休み

第43話 香月乃亜はとにかく嗅ぎたい 嗅げればいいってもんじゃない編

 乃亜とえみりは夏休みに入ってからも、梶野家のリビングにて宿題に取り組むことが多くなっていた。


 乃亜にとっては家や学校の机より、梶野家のテーブルの方が集中できるのだ。


 空気を察してかタクトもこの時間だけは、甘えることなくソファで寝息を立てている。


「……あれ、定規がない」


 ふと、乃亜が自身の筆箱を覗いて呟く。


「じゃあ私の貸そうか……あ、今日は持ってきてないや」

「うーん……あ、そういやカジさんのデスクにあったな。借りちゃおーっと」


 そう言って乃亜は寝室へ向かう。

 デスクのペン立てから定規を抜き取ると、さっさと戻ってきた。


 が、その様子をえみりは、まるで囚人に対する看守のように凝視していた。


「どったの、えみり先生」

「いや、またベッドで変なことするのかと思ったけど……私の思い過ごしだったね」


 申し訳なさそうに笑うえみり。

 だが乃亜はその言葉に、キョトンとした。


 澄み切った水晶のような目が、えみりの顔、そして寝室のベッドを交互に捉える。


 そうして乃亜は、自らの両手のひらを見つめながら、わなわなと呟いた。


「もしかしてアタシ――強くなってる?」


 突然の強キャラ発言。

 えみりは「え、なに、怖っ」と思いつつ、ちゃんと反応してあげる。


「何言ってるの?」

「確かに1〜2ヶ月前のアタシだったら、カジさんのベッドで"嗅ぎ"を発動してた」

「特殊スキルみたいに言うな」

「でも今は、それじゃ満足できなくなっている。そんな幼稚な"嗅ぎ"じゃ……」


 ではどんな"嗅ぎ"なら良いのか。

 えみりはあえて聞かなかったが、乃亜が勝手に説明し始める。


「まずはカジさんを直接嗅ぐ、これが一番。密着することでしか味わえない、体温が感じられる極上の"嗅ぎ"、すなわち宇宙セカイ


 乃亜は自分に言い聞かせるように続ける。


「そしてカジさんの所有物。これは嗅げばいいってもんじゃない。ベッドにしろシャツにしろ、カジさんの目の前で嗅ぐ。カジさんが恥ずかしがる姿を見ながら嗅ぐ。これぞ無上の"嗅ぎ"、すなわち混沌アタシ


 ひとまず乃亜が落ち着いたところで、えみりは漢字ドリルをこなしながら応える。


「要は『今からおまえのベッドを嗅ぐぞ、どうだ恥ずかしいだろう?』ってシチュエーションじゃなきゃ興奮しない、ということね」

「そういうこと!」

「サイコだよ、もうそれは」


 乃亜の変態レベルは1上がった。

 えみりはもう、乃亜の未来を諦めた。




「おかえんなさーい♪」


 乃亜が出迎えると、梶野はわざとらしく疲れた表情をしてみせる。


「ただいま。いやー暑かったぁ」

「お疲れマインドっすねぇ、カジさん」

「あちあちマインドの民だよ。乃亜ちゃんは宿題どう?」

「それがなんと、数学と英語の宿題を今日、殲滅しちゃった!」

「おぉーそれはすごい。まだ7月なのに」

「でしょでしょ!褒めてください!褒めておく方が身のためっすよ!」

「はいはい、よしよし」


 梶野に頭を撫でられると、乃亜は「むふー!」と満足げに笑っていた。


「まぁえみり先生のおかげだけどね」

「えみりもいたの?」

「うん。でも気付いたらいなくなってた」

「ふーん。乃亜ちゃん1人になって、変なことしてないだろうね?ベッド嗅いだり」

「カジさん、もうそんな甘ちゃんな"嗅ぎ"はね、卒業したのアタシ」

「そ、そうか……よく分からないけど、卒業おめでとう」


 梶野はひとまず汗を洗い流したいと、シャワーを浴びることに。

 

 乃亜はリビングでひとり待機。

 かすかに聞こえるシャワーの音。そして部屋に残る、わずかな梶野の匂い。


 ムズッ。

 乃亜は異変に気付いた。


「(あれ、どうしよう……嗅ぎたいな)」


 もう幼稚な"嗅ぎ"はやらない。

 そう決めたはずが、乃亜は何故だか無性に、ベッドを嗅ぎたくなっていた。


 梶野とベッドを嗅ぐうんぬんの話をしてしまったからか。もしくはわずかに梶野を嗅いでしまったからか。


 理由は定かでない。

 もしくは"嗅ぎ"に理由なんてないのかもしれない。


 乃亜は無意識のうちに、寝室のベッドに潜り込んでいた。


「はぁぁぁコレコレ!やっぱこれだよねぇ!卒業なんてできましぇぇぇん!!!」

 

 ひとり悦に浸っていた、その時だ。


「乃亜ちゃん……」

「えっ、か、カジさん……!」


 裸で腰にタオルを巻く梶野が、ベッドでトリップ中の乃亜を見下ろす。

 怖いほどの無表情だ。


「乃亜ちゃん……我慢できなかったんだね」

「い、いやこれは……!」

「言っておくけどね……我慢しているのは、乃亜ちゃんだけじゃないんだよ?」

「え……あっ、ちょ!」


 梶野は突然、乃亜が着ているカーディガンをスポーンッと脱がす。

 そして次の瞬間。


「すぅぅぅ、くんかくんか」

「え!や、やだカジさん何やってるの!」


 自身のカーディガンを嗅ぎ散らかす梶野に、乃亜は赤面。

 しかし梶野は冷静に返す。


「何を慌ててるの?これは乃亜ちゃんがいつもやってることでしょ?くんかくんか」

「だけど、やるのとやられるのじゃ……」

「嗅いでいいのは、嗅がれる覚悟のあるヤツだけだ」

「!?」


 その時、乃亜の瞳に炎が宿る。

 

「じゃ、じゃあ……アタシも嗅ぐからね」

「いいよ、おいで」


 正面から思いきり梶野に抱きつくと、乃亜は親の仇のように嗅ぎ始める。


「くんかくんかくんかっ……あっ、ちょっとカジさん、そこは……っ!」


 乃亜を受け止めた梶野は、今度は彼女の頭頂部に鼻を擦り付ける。

 頭皮を嗅がれ乃亜は悶絶。それでもお返しとばかりに、胸元や脇を嗅ぎ続ける。


「そうだ乃亜ちゃん。一緒にお互いのうなじを嗅ごうか」


 突如、梶野がこんな提案をする。


「え、いや一緒には嗅げないでしょ」

「なんで?」

「だって鼻が届かないし」

「いや遠隔ノーズで良いじゃん」


 そう言うと、梶野はスポッと自身の鼻を取り外した。


「え、カジさんって鼻取れるの?」

「え、乃亜ちゃん取れないの?」

「え?」

 

 試しにやってみると、乃亜もスポッと簡単に鼻を取り外せた。


「あれ、取れたな」

「でしょ。ほら、一緒に嗅ごう、うなじを」


 そうして抱き合うように、お互い手に持った鼻を相手のうなじに近づける。


「あぁすごいっ!こんな便利な機能がついてたんだ、鼻って!これであらゆる"嗅ぎ"にも対応でき……」

「乃亜ちゃん!!!起きて!!!」


 えみりの大声で目を覚ました乃亜。


「定規を取りに行ったきり戻ってこないと思ったら……まさか寝てるなんて!」

「あ、あれ……?」


 そこで乃亜は初めて、梶野のベッドで眠っていたことに気づいた。


「えみり先生、カジさんは……?」

「何寝ぼけてるの?まだ帰ってきてないよ」

「あれ、夢……?」

「了くんが夢に出てきて良かったねぇ。ほら早く、ベッドから出て」


 引きずり出される乃亜は、いまだぼんやりとしている。 


「……ねぇ、えみり先生」

「なに?」

「えみり先生って、鼻取れる?」

「いやどんな夢見たの!?」


 そうして勉強の卓に戻された乃亜。

 ふと、不思議そうに呟く。


「あれ、数学の宿題は終わったんじゃ……」

「残念ながら、それも夢だね」

「あれーーー??」


 余白の目立つノートを見た直後、はっきりと目を覚ました乃亜であった。

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