第39話 いぬのきもちと、ひとのきもち

 梶野はタクトを犬用キャリーバッグに入れると、タクシーを捕まえてかかりつけの動物病院を目指す。

 同乗する乃亜は、顔を青ざめさせていた。


「では、レントゲンを撮りましょうか」


 話を聞いた獣医は、梶野に淡々と提案。


「は、はい……」

「首輪は外しますね」


 獣医は外したタクトの首輪を、そばにいた乃亜に手渡した。

 そうして診療室を後にする梶野と乃亜。

 タクトは2人を見つめ「クーン……」と切ない声を漏らしていた。


 タクシー、そしてこの待合室でも、梶野と乃亜はほぼ会話していない。

 気まずいというのもあるが、それ以上に2人ともタクトが心配なのだ。


「……ごめんなさい……アタシが逃げたりしたから……」

「乃亜ちゃんのせいじゃないよ。僕の足が遅かったせいで、バランス崩したのかも」


 口を開いても、不安なことばかり。

 このままでは乃亜がさらに罪悪感を募らせる。そう思い、梶野は笑顔を作る。


「乃亜ちゃん、元気だった?」


 顔を上げて梶野を見つめる乃亜。

 口をぐっとへの字に曲げ、目を潤ませた。


「……はいっ」

「夏休み、神楽坂ちゃんと会ってる?」

「はい、この前は日菜子さんとも」

「花野さんとも?本当に仲良しだねー。宿題はやってるの?」

「それは……ぐぬぬ、っす」

「やっぱりえみり先生がいないとダメかー」


 5日ぶりでも、自然に紡がれる会話。

 いまだ話すべきアレやコレには触れていないが、それでも乃亜は確信した。


「(やっぱり、この人と話している時が、一番落ち着く)」


 現時点でそれだけが、乃亜にとって紛れもない真実だった。


「そういえば、タクトの首輪って思ったより重いんすね」


 乃亜は首輪を入れたトートバッグを持ち上げてみせる。


「あぁ、それはね……」

「梶野さーん、どうぞー」


 再び診療室へ呼ばれ、2人の間にピリッとした不安感が蘇る。

 

 獣医は診断結果を告げるその前に、何点か尋ねた。


「最近タクトくんと、遊んだり散歩したり、できていました?」

「えっと、ここ数日は仕事が忙しくて……散歩も3日ぶりかな……それまでは毎日行ってたんですけど……」


 獣医は「なるほど」と腑に落ちた様子。

 梶野を真正面からじっと見つめ、いやに感情を抑えたトーンで語る。


「梶野さん、落ち着いて聞いてください」

「はい……」

「おそらく、ケガしてるフリです」

「……んん?」

 

 梶野、乃亜はキョトンとする。


「骨など、どこにも異常は無いです。なのでたぶん、わざと大げさに痛いフリをしているだけです。たまにいるんですよねぇ、かまってほしくて仮病を使うワンちゃん。こうすれば自分を見てもらえるって思ってね」


 わっはっは、と笑う獣医。

「でも一応痛み止め出しておきますねー」と軽快に告げるのだった。


「「…………」」


 恥ずかしさに打ちひしがれる梶野と乃亜。

 震える赤面の飼い主たちを前に、タクトは「サーセンw」といった顔をしていた。




「おいこのかまってちゃんっ、聞いてるのか!サーセンwじゃねえよ!おまえの名前は今日から『タクト a.k.a. かまってちゃん』だからな!!」


 大通りでタクシーを待つ間、乃亜はキャリーバッグの中のタクトへちょっかいを出していた。


 診断結果は、まさかの痛いフリ。

 梶野もやれやれと力なく笑うしかない。


 それでも、タクトを強く責められないのも事実である。


「よく考えたら、全然かまってなかったもんなぁ最近。そりゃ寂しいよねタクトも」

「それ言ったら……アタシのせいも……」


 流れるように、話題はシビアな方向へ。

 2人の間をぎこちない空気が支配する。


「乃亜ちゃん、あれから吉水さんとは会った?」


 思いの外ストレートな質問に、乃亜は少し驚いた。


「いや……でも連絡は来てる。ご飯に行こうとも言われてる」


「そう」と応えると、梶野は再び沈黙。


 自分から梶野に踏み込んでみようと計画していた乃亜だが、最後に一度だけ、梶野の次の言葉を待ってみることにした。


 梶野は、意を決したふうに、言い放つ。


「乃亜ちゃん、吉水さんとはもう会わないでほしい」

「…………」

「パパ活はもうやめてくれ。心配なんだ」

 

 乃亜は、ひとつ深呼吸。

 付け放したような冷たい口調で、尋ねた。


「それは、誰の言葉すか?」

「え?」

「ただのご立派な社会人としての言葉?それとも、もっと近くにいる人?」


 梶野は、静かに考えた。

 永い永い思案の果てに、呟く。


「ただのお隣さん……」

「…………」

「ではない、絶対に」

「え……」


 どこか面映ゆそうに、梶野は告げる。


「他人なんかじゃ、もうない」

「……じゃあ、何ですか……」

「でも……ごめん、うまく表現できない」

「えぇ……」


 この期に及んでこの曖昧な答え。

 乃亜は思わず吹き出してしまった。


 この大人は、ほんとにダメですね。


「じゃあ、今日からカジさんはアタシのこと、こう思っておいてください」


 今回はこれくらいで勘弁してあげます。


「大切な人、って」


 梶野はまたも照れ臭そうな顔をする。


「えぇ、それもなんか……うーん」

「拒否権は無しの民です」

「民のヤツ久々に聞いたなぁ」

「それと、アタシからもひとつお願い。アタシがまたウソついたり、また道を外れそうになったら、ちゃんと叱ってください」

「……分かった」


 そうして、まとまった2人の思考。

 乃亜は大きなため息をつくやいなや、即座に梶野の背に抱きつく。


「うわわ、ちょっと乃亜ちゃん」

「はぁ〜マインドが、救済されていく〜〜」

「いや大通りでこんなこと……」

「だいじょぶです、私服ですし」

「そういう問題じゃないよー」

「ふぅぅぅぅ……すぅぅぅぅぅぅ!!!」

「めっちゃ嗅いでる!ていうか吸ってる!」


 久しぶりな、梶野と乃亜のじゃれ合い。

 キャリーバッグの中から覗くタクトは、交ざりたそうにワンッと吠えるのだった。


 ◇◆◇◆


 翌日の夕方のこと。

 乃亜は梶野家に行く前に、コンビニへ買い物に向かった。


 雑誌を立ち読みしている時だ。


「また会えたね、乃亜ちゃん」

「えっ……」


 吉水が、隣に立っていた。


「な、なんで……」


 乃亜は昨晩、丁寧な文章で「もう会わない」との旨を彼に伝えた。

 だからこそ、その変わらない微笑みを前に、怖気が走る。


「連絡して呼び出そうと思っていたんだけど、まさかバッタリ会えるなんて、運命かもね」


 窓の外、駐車場には見覚えのある真っ赤な輸入セダン。


「さあ乃亜ちゃん、ディナーに行こうか」

「い、いや……だから昨日送った通り……」

「乃亜ちゃんって、〇〇高校だよね?」

「……え?」

「校則的にはOKなのかな?これまでのパパ活ってさ」

「…………」


 その目は、今までとは違う。

 わずかに感じ取っていた、得体の知れない何かがハッキリと映っていた。


 吉水とコンビニを後にする最中、乃亜の頭に蘇ったのは、あの日の忠告だ。


『大人っていうのは、怖いんだよ』

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