第33話 スーツ梶野、再び

 PCがスリープ状態になったことを確認し、梶野は席を立つ。


「それじゃ、お先ね」

「はーい……あ、梶野さんちょっと」


 呼び止めると、日菜子は熱の入った口調で進言する。


「梶野さん、今日は帰ったらすぐに着替えてくださいね」

「え、何で?」

「決まってるでしょう。スーツだからです」


 冗談を言っている表情ではなかった。


 本日の梶野は取引先と打ち合わせをするため、スーツで出勤していた。


「もしも梶野さんのスーツ姿を乃亜ちゃんと愉快な仲間たちが見たら、きっとただでは済まないでしょうから」

「そんな大げさな……」


 笑い飛ばそうとしたが、梶野の脳裏をある記憶がかすめる。


『ちょっとやだなんで!?なんでカジさんスーツなの!?やだやだカッコいい!ひゅーポンポーンッ!イケメーン!メンイケー!』


 先月、梶野のスーツ姿に正気の沙汰とは思えないほど興奮していた乃亜。

 日菜子の言うことは、あながち間違いでは無いのかもしれない。


「でも愉快な仲間たちは別に……」

「いえ、スーツパワーをナメてはいけません。梶野さんは普段あまり着ないから、ギャップまで駆使しているんです。非常に危険な状態です」

「そんなバカな……」


 かくいう私も現在、太ももを強烈につねることで何とか会話ができている、とは言えない日菜子であった。


「そうだ、これを」


 日菜子が手渡したのは、手のひらサイズの薄い箱。名刺入れのようにも見える。


「もしも本当に大変な時は開けてください。きっと梶野さんを助けてくれます」

「ド○えもん……?」


 ◇◆◇◆


 玄関には、女性モノの靴が一足。


 リビングにいたのは、えみりだ。

 勉強中のようで、こちらに目を向けないまま「おかえりー」と告げる。


「(チャンスだ。乃亜ちゃんがいない間に着替えちゃおう……)」


 えみりの背後を通ろうとした、その時だ。

 

「そうだ了くん、お父さんが……」


 振り向いた瞬間、えみりは握っていたシャーペンを落とす。


「ど、どうした?」

「いや、別に」


 じーーーっ。

 曖昧な返答の代わりに、熱い視線を向けるえみり。


「(すっごい見てる……)」


 梶野は「の、喉乾いたなぁ」と言って、逃げるようにキッチンへ。

 

「(まさか花野さんの言う通り……いやえみりに限ってそんな……)」


 心を落ち着けようと、麦茶を口に傾ける。


 その時、視界の端に何かが映った。

 ゆっくり顔を向けると……。


 じーーーーーーっ。

 えみりが物陰から半身を出して、梶野を覗いていた。


「……えみり、どうした?」

「……いや、スーツ、どうしたの?」

「今日だけ、ちょっとな」

「ふーん」


 会話を終えても、リビングに戻っても、えみりは無表情で梶野を見つめている。

 今度こそ、と思って何度もえみりの方を見るが、絶対に目が合う。


「(いや怖っ……姪っ子が怖っ……どういう感情……?)」


「そういえばタクトは?」

「乃亜ちゃんと神楽坂ちゃんと散歩。もうすぐ帰ってくると思う」


 まさにその時、帰ってきたのは神楽坂とタクト。


「えみりちゃーん、タクトくんの足拭くの手伝ってー」


 言う通りえみりは、最後まで梶野から視線を外さないまま神楽坂の元へ向かった。

 玄関から2人の会話が聞こえてくる。


「乃亜ちゃんは?」

「1回、自分ちに行ったよ。なんか映画のBD取ってくるって」


 タクトを先頭に、えみり、そして神楽坂がリビングにやってきた。


「梶野しゃん、おじゃジャマしてます」


 相変わらず梶野に対しては噛みまくる神楽坂。もう何度も会っているが、まだ緊張しているらしい。


「あ、スーツにゃんですね」


 神楽坂も気づいたが、えみりほどの異変は見られない。

 えみりはその間もずっと、何をすることもなく、無言で、梶野を見つめていた。


「あ、あの梶野しゃん……せっかくにゃんで、写真撮ってもいいでしか?」


 おずおずと言って頬を染める神楽坂。

 神楽坂にしては珍しいお願いだが、写真くらいなら何の問題もない。


「それじゃ、あの……見下すような感じで、こっちを見てもらっていいでしゅか?」

「……ん?見下す?」

「はい。私のことを、役立たずの新米使用人だと思って……」


 おっと、雲行きが怪しくなってきたぞ。


「こ、こう?」

「あ、良い……しゅごく良いです。メガネ……メガネかけてもらって良いですか?」


 神楽坂は自前の黒縁メガネを取り出す。

 言われた通り装着するも、神楽坂は何故か不満げだ。


「あ、ブルーライトカットで変に反射して……すみませんちょっと貸してください」


 再び梶野からメガネを受け取ると、神楽坂はおもむろに……。

 ペキッペキッ!


「ええぇ!!」


 なんと親指でレンズを強引に押し外す。

 思わぬ行動に梶野は仰天。


「え、ちょっ……メガネ、良いの……?」

「また買うんで。ほんとは度なしレンズの方がリアリティがあって良いんですけどね」

「リアリティって、何の……?」


 再び撮影開始。

 神楽坂から指示が飛ぶ。


「心底憎らしそうに私を見てください。私にお仕置きする数秒前みたいな感じで」

「神楽坂ちゃん……なんか急に噛まなくなったね……?」

「はぁ、はぁ……舌なめずりとか、してみましょうか、梶野さん……私の〇〇を想像するかのように……」

「いや小学生いるから!言葉選んで!」


 男嫌いの神楽坂だが、別のではそうでもないらしい。

 彼女までスーツ姿にやられてしまった。

 

 この状況は非常にマズい。

 もしここに乃亜が加われば……。


「いやー暑いね暑いねー!」


 玄関から陽気な乃亜の声が響く。

 

「この映画マジで鬼ったけ面白いんだよ〜。だからカジさんが帰ってきたら、みんなで一緒に観ぶひぃぃぃぃぃ!!!!!」

「わあぁぁぁ!」


 梶野に襲いかかるギャルの形をした邪鬼。

 それを見て神楽坂が「そうか」と呟く。


「乃亜、嗅ぎ自粛中だったから……嗅ぎ欲求が溜まった状態でスーツ姿なんて見たら、バーサーカー化するのも無理ないです」

「ずっと何言ってるの!?」


 梶野は3人から距離を取りつつ、一言。


「そ、そろそろ着替えようかなぁ……」

「ダメだよ了くん!!」

「許しません!!」

「ガッ……グォ……ダ……メ……」


 えみりと神楽坂と人の形をしていない何かは、すぐさま制止。

 じりじりと梶野との距離と詰めていく。


「ひ、ひぃ……なんでこんなことに……」


 スーツを着ているからである。 


 絶体絶命の状況。

 その時、日菜子との会話を思い出す。


『もしも本当に大変な時は開けてください。きっと梶野さんを助けてくれます』


 藁にもすがる思いで、梶野はポケットから箱を取り出し、開く。

 そこに入っていたものは――。


 GirlsBarボルボックス HINA(また来てね♡)


 ピンク色のケバケバしい紙。

 どうみても、ガールズバーの女の子からの名刺である。


「「「…………」」」


 それを見た3人の少女は、あっという間に正気に戻る。

 それどころか梶野へ蔑視の目を向けていた。


「……了くんも、こういうところ行くんだ」

「男なんて、やっぱり現実の男なんて……」

「……いや、アタシは別に男の人がこういう店に行くのは……まぁ、うん」


 物理的なだけでなく、心の距離も離れていく3人であった。




「効いたでしょう?100年の恋も冷める『いかがわし名刺バリアー』。ふざけて作ったヤツがこんなところで役に立つとは〜」


 電話の向こうの日菜子は愉快そうだ。


「効きすぎだよ……あの時の3人の目は、一生忘れられないよ……」

「私から3人にネタバラシしておくんで、安心してください」


 最後に、日菜子はいたずらっぽく告げるのだった。


「もし本当にガールズバー行くときは、私も連れて行ってくださいね」

「行かないよ、絶対……」

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