3章 乃亜の願い

第32話 香月乃亜はとにかく嗅ぎたい 嗅ぎ自粛編

「カジさんに、変態だと思われたかも……」


 夏休みに入り数日。

 神楽坂とファミレスでランチを共にする乃亜は、ひどく深刻そうに吐露した。


「……今更じゃない?」

「そんなことねえしフザケんなし神楽坂」


 神楽坂はひとまず話を聞いてみることに。

 乃亜が語り出したのは、昨晩の出来事だ。


 食後の乃亜は、梶野のパンツを片手に頭を悩ませていた。


「ちょっと待ってイントロからおかしい」

「まぁ待て。聞いていれば分かるから」


 実は夕食前、梶野はベランダから取り込んだ洗濯物を一旦ソファへ放っていた。

 食後、タオルなどを畳むと、まとめて脱衣所へ持っていく。


 そこで問題は起きる。

 トランクスを1枚置いていってしまった。

 気づいた乃亜は「あっ」と思い、とっさに自身のポケットにしまった。


「いや盗んでる!『あっ』じゃないよ!」

「聞けって神楽坂。論点そこじゃないから」

「現時点ですでに変態なんだよなぁ……」


 ただ、流石に下着ドロはマズいと改心。

 ポケットから取り出したトランクスを、一度嗅いだのち、返すことに。


「嗅いだ!やっぱり嗅いだ!」

「でも洗濯の後で柔軟剤の匂いしかしなかったから、ノーカンだよね」

「そんなルールないよ!パンツ嗅いだ時点で人としてアウトだよ!」

 

 だがここで、乃亜は重大なミスを犯す。

 手が滑り、トランクスが食卓に落下。

 あろうことか、お刺身用に並んでいた醤油皿に落としてしまった。


 乃亜は慌てて箸でパンツを掴み、救出。


「なんで箸で……?」

「そこは育ちが出たよね。皿のものを手で掴んじゃいけないって、とっさに思って」

「いや普通にマナー悪いし、パンツ盗もうとした段階で育ちも何も無いと思う……」


 被害を最小限にとどめ、一安心の乃亜。

 しかし……ふと感じた視線。


 戻っていた梶野が、ゾッとした表情で乃亜を見つめていた。


 彼が見たのは、JKが醤油の染み込んだパンツを箸で掴んでいる、そんな光景。

 それはまるで――。


「絶対、パンツを醤油につけて食べようとしていると思われたぁ〜〜〜!!」


 泣きわめく乃亜。

 それが冒頭の「変態だと思われた」発言に繋がる訳だ。

 対する神楽坂は、冷ややかだ。


「そこに至るまでにもう十分、どこに出しても恥ずかしくない変態だったよ」

「レベルが違うよ!だって醤油でいくんだよ?そのまま食べるよりも更に先にいっちゃってるじゃん!パンツで白飯いこうとしてるじゃん!」

「知らないよ、変態食パンの世界……」


 ただ乃亜が困っているのに変わりはない。

 神楽坂はひとつ助言する。


「イメージを払拭したいなら、当分は大人しくしていれば?」

「大人しく?」

「向こう1週間は嗅がない、とか」


 乃亜は「むぅ……」と口を尖らせる。

 熟考したのち、声を震わせながら尋ねた。


「……3日間でもいいかな?」

「好きにしなよ」


 ◇◆◇◆


 嗅がない。

 それは乃亜にとって、アイデンティティの揺らぎに他ならない。


 我嗅ぐ、ゆえに我あり。

 嗅げない乃亜はただの豚だ。ぶひぃ。

 安○先生……嗅ぎたいです……。


 だがこのままでは、一生梶野に変態食パン(醤油味)だと思われてしまう。


 そこで当面の『嗅ぎ自粛宣言』を発令。

 その日から乃亜は『嗅ぎ』を求めないことを、心に誓った。


「ぶ、ぶひぃぃ……!」


 だが早速、最難関の局面を迎えてしまう。

 目の前にいるのは、VRゴーグルをつけてゲームに夢中の梶野である。


 数十分前、帰宅した梶野は無邪気な顔で家電量販店の紙袋を掲げた。


「VRゴーグル買っちゃった。いいヤツ」


 すぐさま装着し、シューティングゲームをプレイし始める梶野。

「うおーすごい!怖っ!」と興奮しているせいか、彼は気づいていなかった。


 視界を仮想現実に奪われ、音もヘッドホンで遮断。意識が完全にゲームへ向いているこの状態。


 いかに自分が、無防備であるか。


「60分嗅ぎ放題2980円かよ……っ!」


 乃亜の謎のツッコミに、タクトは「何言ってんだこいつ」といった顔をするが、梶野は一切気づかない。

 

 いつもの乃亜なら、気づかれるかどうかのスリルを存分に楽しみながら嗅ぎ倒し、梶野の財布にこっそり3000円入れて20円回収しているところだ。


「クッ……クゥッ……!」


 しかし今は嗅ぎ自粛宣言が発令中。

 乃亜は目を血走らせながら、唇を噛み締めながら、我慢していた。


「ふー暑い暑い」


 すると梶野が期せずして、更なる追撃。

 半袖ジャケットを脱ぐと、ポーンッと無造作に放った。


「……ッ!!!」


 1日中着ていたであろう、梶野の匂いが染み込んだジャケット。

 それが今、どうぞ拾ってくださいとばかりに落ちている。


 普段なら暴走した初○機のように四つん這いになりながらジャケットに這い寄り、嗅ぎ散らかしていた。


 しかし今は嗅ぎ自粛宣言が発令中。


「ぶひぃぃぃ!!!」


 それはもはや悲鳴だ。魂の叫びだ。

 

 乃亜は耐えた。耐え続けた。

 欲望をごまかすためにタクトを抱きしめ、タクトを嗅ぎ続けた。


「いや怖いっす!なんか怖いっす!」と異変を察知したタクトは逃げようとするも、乃亜はけして離さなかった。


 そうして何とか、山は越えた。

 梶野がゴーグルを外し、充実感でいっぱいの顔で乃亜に告げる。


「ふ〜すごかった。乃亜ちゃんもやる……」


 不自然に言葉を止めた梶野。

 昨日に続き、ゾッとした表情を浮かべる。


 それもそのはず。

 仮想現実から戻った彼の視界には今、目を血走らせ、ヨダレを垂らしながら、逃げないよう必死に犬を捕まえているJKがいた。


 それはまるで――。


 ◇◆◇◆


「絶対、タクトを食べようとしていると思われた……」

「…………」


 深く憐れむ神楽坂であった。

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