第8話 香月乃亜はとにかく嗅ぎたい
梶野が出先から会社のデスクに戻ると、隣の席の後輩・花野日菜子が迎えた。
「おかえりなさーい。向こうさんの反応どうでした?」
「なかなか好感触だったよ。ひとまず安心」
「おーよかった。はい、ご褒美あげます」
ニコニコと花野はアーモンドチョコの箱を差し出す。梶野は「かたじけない」と1粒つまんで口に放り込んだ。
「…………」
「ん、どうしたの花野さん」
「あ、いや……梶野さんのスーツ姿、貴重だなぁと」
内勤グラフィックデザイナーの梶野は、基本オフィスカジュアルで出勤する。
ただし今日のようにクライアントと直接やりとりをする際は、スーツを着るようにしていた。
「スーツ似合いますよ、梶野さん。内勤でも着てくればいいじゃないですか」
「やだよー。スーツ着るのが嫌だからこの仕事してるんだし」
冗談交じりに言うと、花野は「もったいないなぁ」とわざとらしく頬を膨らませ、笑っていた。
電車から降りた瞬間、梶野は感じ取った。
「(あ、雨の匂い)」
その通りとばかりに、プラットホームの屋根にポツポツ打ち付ける音が聞こえ始める。改札を出る頃には大雨となっていた。
梅雨入りしたこともあり、カバンには折りたたみ傘を忍ばせている。
雨の音を聴きながら、梶野はコンビニで弁当を購入したのち帰宅した。
出迎えたのはタクトだけ。
だが玄関には乃亜のローファーがあった。
「(乃亜ちゃんはトイレかな)」
梶野はそう解釈すると、濡れた肩や足元を拭くため洗面所に向かう。
そこに付いてくるタクト。
「(あれ、タクトなんか濡れてる?)」
小さな疑問を抱きつつ、梶野は洗面所の扉を開く。
下着姿の乃亜がいた。
「…………」
「…………」
声を上げるでも、何らかの動きを見せるでもない。
2人はただ2〜3秒、停止していた。
そうして梶野は静かに、扉を閉めた。
リビングに戻りソファに座り、流れるように頭を抱える梶野。
見た。見てしまった。
つるんとした白い肌。すらりと細く長い足。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけポニッとしたお腹。ピンクのショーツに黒のブラ。思いのほか膨らんでいた双丘。
『女子高生の着替えを覗いたとして29歳会社員を以下略』
優しさの欠片もない未来予想図が、脳内でハジけていた。
リビングにやってきた乃亜は、学校の体操服姿。
無言で、ほんのり紅潮した顔で、梶野を見つめている。
「すみませんでした」
平に、ただ平に。梶野は土下座する。
体操服姿のJKに、スーツ姿のアラサー男が土下座。
これは、孤独な少女と男の交流を描いた、心温まるラブストーリーである。
事情はこうだ。
乃亜がタクトの散歩中、天気が急変。濡れネズミになりながら帰宅した。
まず乃亜はタクトの体を拭き、運よく学校の体操服があったので自身もそれに着替えることに。
そこへ、梶野がやってきたというわけだ。
「カジさん、ノックしましょうよ」
「……はい、すみません」
乃亜の声色には、怒気が含有されている。
それもそうだ。はっきりくっきり半裸を見られたのだから。
どんな非難も受けよう。梶野は覚悟する。
「カジさん……アタシ今、鬼ギレ5秒前の民なんすよ」
「はい……」
「なんでっ……なんでよりによってっ……2軍の下着の時に見るんすか!!!」
え、そこ?
乃亜は地団駄を踏みながら感情を吐き出す。
「まったく気合入ってない2軍のベンチの球拾いのブラとショーツ!しかも色違い!なんでそんな鬼鬼鬼ダサい下着姿を見ちゃうんですかーーー!!!」
多少のズレはあるものの、憤っていることに変わりはない。
梶野はひたすら謝るも、乃亜は収まらず。
「どうしてくれるんすか!ひどいっす!あんまりっす!」
「本当ごめん!何でもするから許して!」
「何でもですって!何でもって……え、ちょっと待って」
「な、なに?」
「ていうかカジさん、スーツじゃないすか」
え、今?
「うん、今日はね」
「ていうかカジさん、スーツじゃないすか」
「え、うん、だから今日だけ……」
「ていうかカジさん、スーツじゃないすか」
「バグった!乃亜ちゃんがバグった!」
次の瞬間、乃亜はスマホ片手に梶野の周囲を駆け回る。
「ちょっとやだなんで!?なんでカジさんスーツなの!?やだやだカッコいい!ひゅーポンポーンッ!イケメーン!メンイケー!」
カシャカシャカシャと撮影しまくる乃亜。
よほどスーツ姿がお気に召したらしい。
死ぬほど恥ずかしい梶野だが、これも乃亜の怒りを鎮めるため。
黙って撮られ続けるのだった。
スマホに100枚ほど梶野のスーツ写真が収まったところで、乃亜も落ち着く。
そこでおずおずこんなことを言い出した。
「カジさん、何でもするって言ったよね?」
「まあ、僕にできることなら何でも」
「それじゃあ……」
乃亜は恥じらいながら、告げた。
「嗅いでいいすか?」
「……え、何を?」
「カジさんを」
数秒考えたのち、梶野は猛烈に後ずさる。
「ダ、ダダダメだよそんなの!」
「やだー嗅ぎたい嗅ぎたい!スーツ姿の梶野さん嗅ぎたいー!何でもするって言ったじゃん!言ったよね、タクト!?」
ワンッ!
「ほら!」
良いタイミングで鳴くな。
「分かったよ……で、どこを嗅ぐの?」
そこで乃亜は長考に入る。
ポツポツと声が漏れてきた。
「足……頭皮……耳の裏……」
梶野は聞かなかったことにした。
数分後、答えは出たようだ。
「では今日は、首筋でお願いします」
「分かったよ、どうぞ(今日は……?)」
了解を得ると、乃亜は緊張の面持ちで実行に移す。
梶野の正面に立ち、両肩に手を置いた。
「えっ、ちょっと待って!前からなの!?」
「え、え、前からじゃないの!?」
両者、大パニックである。
ひとまず互いの認識を共有することに。
「僕はてっきり後ろから来るのかと……」
「ああ、バンパイアスタイルっすね」
「そんな名前なの?」
「でも、それだと……」
「どうかした?」
「カジさんの背中に、おっぱいが……」
「やめよう!バンパイアスタイルやめ!」
「それじゃあカジさんに寝てもらって、そこを嗅ぎにいく白雪姫スタイルとか」
「色々なスタイルがあるのね」
「でもそれだと……ぶっ、すみませんっ……絶対笑っちゃうから無理〜」
「…………」
結局、前からの正攻法スタイルでまとまるのだった。
梶野は前かがみになり、その両肩に乃亜は手を置く。
乃亜の顔が、梶野の首に、ゆっくり近づいていく。
そこで、2人の思考がリンクする。
「(やっぱダメだろ……だってこれ――)」
「(あ、どうしよう。これやばいかもっ……なんかこれ――)」
「「(キスするみたい……!)」」
ドクンドクンと、互いの鼓動の音が聞こえるほどの距離。
それはまるで、唇を重ねるかのように。
乃亜の鼻先が、梶野の首筋に触れる――。
くん。
ワフッ!
「「!!!!?」」
ズザザザザーッと、乃亜と梶野は一斉に距離を取る。
互いに視線はタクトの方へ。とんでもないタイミングでくしゃみをした罪な犬は、「え、何ですか?ごはんですか?」といった顔をしていた。
「……満足した?」
「……はい。でも、アレっすね。こういうこと、あんまりしない方が良いかも……」
「……うん、僕もそう思う」
顔を背けていた2人だが、不意に、目線がかち合う。
「(あ、乃亜ちゃん――)」
「(あ、カジさん――)」
そうして再び、思考はリンクした。
「「(耳まで真っ赤……)」」
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