第12話 壁の向こうの声、電話の向こうの涙

 まだ外が明るいうちに帰宅。

 太陽が落ちるまでタクトの散歩。

 ひとりで夕飯。

 数時間ほど仕事。

 1杯だけお酒を飲み、就寝。


 日常であったはずのアフター6。

 どうしてこんなに違和感を覚えるのか。


「おかえんなさーい♪」


 玄関の扉を開くたび、乃亜のこの声が脳内で反芻される。


「(謹慎3日目……いや、もう来ないか。めちゃくちゃ怒ってたし)」


 ◇◆◇◆


「梶野ー、データ共有サイトのURL、別の案件の送ったでしょー。クライアントから連絡きたよ」


 エマの指摘に、梶野は肩を震わせる。


「ウソッ……うわ、ほんとだ……」

「パスが違っていたから良かったけど、あやうく情報流出するところだったよ。しっかりしーやー」

「ごめん、送り直すわ……」


 エマと隣の席の花野は、そろって梶野の顔を覗き込む。


「なんかテンション低いなぁ」

「どうしたんですか梶野さん。体調悪いとか?」

「アレか?あのJKにフラれたんか?」

「エマさんは一度コンプラ講習を受け直したらいいと思います」


 ヘラヘラ笑うエマと、咎める花野。

 ただ事実として、当たらずとも遠からずではある。


「大丈夫だよ、なんでもないから」


 笑顔を作ってみせる梶野に、それでも2人は納得いってない様子。


「梶野さん、このチョコ食べてください。美味しいですから」

「え、ありがとう花野さん」

「じゃあ私もあげよう。特別だぞ」

「ありが……おまえこれ、引くほど甘いヤツだろ。前にもらったわ」

「ファッジだよ。ママの国の味をバカにすると許さないよ。黙って食べな」

「うっわ甘っ!エマさんのお母さんの国、舌バグってるんじゃないですか?」

「日菜子、住所教えな。致死量ほどのファッジ送ってやる」


 イングランドと日本のハーフ、京田エマは英国淑女としての誇りも持ち合わせていた。




「こんばんは」


 マンションのエントランスでエレベーターを待っていた時だ。

 隣にやってきた女性を見て、梶野は思わず背筋を伸ばす。


「香月さん、こんばんは」


 乃亜の母親だ。

 短髪で目鼻立ちがハッキリしている顔立ち。高校生の娘がいる女性として相応のシワが刻まれている一方で、快活とした雰囲気は若々しさを感じさせる。

 梶野に向ける表情は柔らかだが、気の強さが瞳から滲み出ていた。


「梶野さんは、いつもこれくらいの時間に帰宅されるんですか?」

「ええ、そうですね。香月さんは?」

「こんな早い時間に帰るのは数ヶ月ぶりですよ」

「それはお疲れ様です。何をされてるんですか?」

「中学校の教員です。剣道も教えているので、放課後や土日も忙しくてね」


 エレベーター内で妙に弾む会話。

 会話するのは引っ越しの時の挨拶以来だ。乃亜が嫌っていることから梶野も少し構えたが、杞憂だった。


 そこでひとつ、梶野は踏み込む。


「それだけ忙しいと、娘さんと触れ合う時間もないんじゃないですか?」


 ほんの0コンマ数秒。

 少しだけ不自然な間を挟み、乃亜の母親は答える。


「ウチはずっと放任主義なので、すでに自立した考えを持っていると思いますよ。なのであまり心配はしてません」

「……そうですか」


 お互いの家の前に着く直前、彼女はこう言い残した。


「でも今の時代、未成年が期せずして犯罪に巻き込まれることも多いので、そこは少し不安ですけどね」

「……そうですよね」


 そうして2人は、壁一枚隔てた自宅へ入っていく。


「……うーん」

 猛烈な勢いで出迎えるタクトを撫でながら、梶野は難しい表情だ。


 その後、タクトの散歩を終えたのち、夕食をとる。

 何となく流しているテレビでは、未成年の犯罪被害について識者が論じていた。


「SNSの普及により、未成年が犯罪に巻き込まれるケースが急増しています。平穏を脅かす存在は自身の生活圏内、すぐ隣にもいるのだと、親は子供に教えなければいけない時代なのです」


「…………」

 なぜゴールデンタイムで、こんなシビアな内容を取り上げているのか。

 

 その時、タクトが突然妙な動きをする。

 なぜか部屋の端に近づいていき、壁をじっと見つめている。

 

 耳をすますと、かすかに人の声のようなものが聞こえた。テレビの音量をオフにすると、すぐに判明した。


 お隣、香月家から聞こえてくるのは、2人分の怒声。

 内容は聞き取れないが、女性2人が喧嘩しているのは伝わる。乃亜と母親だろう。


 1分間ほど続いたのち、強く扉が閉まる音を合図に親子喧嘩は止まった。


 すると次の瞬間、梶野のスマホが鳴る。

 着信の相手は、乃亜だ。


 梶野は、ためらってしまった。


『未成年が、犯罪に巻き込まれることも多いので……』

『平穏を脅かす存在は、すぐ隣にもいるのだと……』


 乃亜の母親やテレビの識者の声が、頭の中で再生される。


 鳴り続けるスマホ。

 タクトは心配そうに、壁の前でウロウロしている。

 

 梶野が選択したのは、『ひとまず』の優しさだった。


「……もしもし?」

「もしもしっ……カジさん?」

「どうしたの、乃亜ちゃん」

「すみませんっ……ちょっと、声が聞きたくて……」


 電話越しでも伝わる、鼻が詰まったような乃亜の声。

 その声が聞こえたのか、タクトはトコトコとスマホに寄ってくる。


「すみません……迷惑ですよね、こんな電話……しかも謹慎中なのに……」

「……いいよ」

「え……?」

「別に、電話したらいけないとは言ってないしね」

「っ……ありがとうございます……」

「うん。あ、そういやさ、乃亜ちゃんファッジって知ってる?イギリスのクッソ甘いお菓子なんだけどさ……」


 それから2人は小1時間、取るに足らない、明日になったら忘れるような話題で会話を続けた。


 乃亜の心は、この時間で多少なりとも晴れたかもしれない。


 だが梶野の心にはずっと、電話に出てもなお、小さなトゲが刺さり続けていた。

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