第3話 青田買い

 男は30歳から。

 これが、乃亜の座右の銘だ。


 座右の銘とは何なのか、正直よく分かっていないが、とにかくそうなのだ。


 特に好みなのは、ひたすら優しくて、何なら弱々しいけど、絶対に曲げない信念みたいなものがあるおじさん。

 でもそれでいて、女の子に迫られるとあわあわしちゃうおじさん。


 30歳未満には興味ないが、30歳以上だからといって誰でもいいわけではない。

 乃亜のストライクゾーンは狭く、深いのである。


「なあ香月」


 放課後、乃亜が帰り支度をしていると、チャラついた男子3人が声をかけてきた。


「この後、俺らと遊びに行かね?」

「渋谷とかさ。一緒に行こ、な?」


 だらしないネクタイ、ダサいロールアップ、命かけて作ってそうな前髪。

 そのすべて、乃亜の心を動かさない。

「(加齢臭を匂わせてから来いや)」


「香月ってまだ友達いないっしょ?なら俺らが……」

「あーすみません、用あるんで」


 彼らへ目もくれず、乃亜は教室から去ろうとする。

 すると今度は女子グループから気持ちの良くない目を向けられる。


「香月って調子乗ってるよね」

「大して可愛くないくせに」

「マジ何様?」


 男子をテキトーにあしらえば、女子がカンシャクを起こす。ほんとに乳臭い場所。


 彼女らとすれ違う瞬間、乃亜は呟く。

「クソガキマインド、お疲れっす」


 キャンキャンと反発する彼女らなど意にも介さず、颯爽と立ち去る乃亜。


 そんな彼女の、用とは何か。

 犬活である。


 ◇◆◇◆


「えっと、どこ行けばいいん?」

「オシッコは、この水かけるんだっけ」

「ぎょわっ、ウンチあったけぇ……」


 人生初の犬の散歩。

 乃亜にとっては初体験ばかりで大いに狼狽えていた。教室でのクールな姿とは大違いである。


 そんな彼女をリードするように、タクトは「こっちこっち!」と散歩コースを先導する。やってきたのは河川敷だ。


 派手なギャルJKが犬を連れて歩く姿は、あまりにも河川敷に似つかわしくなく、乃亜はかなり目立っていた。


「可愛いわね、キャバリア?」


 そんな中、突如話しかけてきたのはチワワを連れたおばあさんだ。

 乃亜は思わず狼狽する。


「(え、なに、キャバリ……なんて?)」

「キャバリアでしょ、この子」


 何だかよく分からないが、たぶん犬種のことだ。乃亜はひとまず肯定した。


「偉いわね、学校終わった後に散歩なんて」

「え、いや……」

「はい、あげる」とおばあさんが手渡したのは、オレンジ味のアメだ。


「あ、ありがとうございます!」

 

 乃亜は口の中でアメを転がしながら、河川敷から住宅街へ戻る。


 パパ活をすれば、万札がもらえる。

 犬活をすれば、アメちゃんがもらえる。


「(いやまあ、比べるようなもんでもないけどさ)」


 乃亜にとってパパ活は、極上の暇潰しだ。

 大人の男とお話して、ごはんを一緒に食べるだけ。しかもお小遣いまでもらえる。

 

 パパ活をしているアタシは、アタシらしくいられる気がする。

 何故なら求められているから。


 だからパパ活を続けるためにも、今は大人しく犬活をしているのだ。


 梶野家に戻ると、先程は無かった男物の靴が玄関にあった。

 梶野が帰宅しているらしい。


「お邪魔しまーす」


 乃亜がリビングを覗くも、いない。

 間取りは香月家と同じ。となれば残るはあと一部屋。


 その部屋の扉を開くと、いた。

 デスクにつき、ディスプレイに向かっている梶野。働く男の背中だ。


「梶野さーん、おつかれっす」


 ワンテンポ遅れて振り返った梶野。

 集中していたせいか瞳がやけに鋭く、乃亜はついドキリとする。


「ああ、おかえり」


 だが、すぐ穏やかな表情に戻った。

 耳栓を外し、歯を見せて笑う。


「昨日の今日でもう行ってくれたんだ。ありがとうね」

「まあ、今日はヒマだったんで」


 自然と寄せられた感謝に、違和感。

 この人、自分が脅迫していること忘れてるんじゃね?


「仕事って何やってんすか?」

「グラフィックデザイナーだよ。広告とか作ってるんだ」

「ああ、広告代理店ってヤツだ。知ってますよ、〇〇とか〇〇ですよね」

「……ウン、ソウダネ」


 口に出すのもはばかられる超大手企業を引き合いに出され、鼻血が出そうになった梶野である。


「忙しいらしいっすね、広告代理店って。犬の散歩もできないくらいですもんね」

「……うん、タクトには申し訳ないよ」


 何やら梶野は、勝手にシュンとする。


「3月までは姪っ子がたまに来てくれてたんだけどね。その子も今年は受験だから、気が引けちゃって」


 それでもタクトのため、無理やり時間を作って散歩していたのだろう。

 梶野の目の下のクマを見つめ、ため息をつく乃亜。


「(この人はたぶん、ほんとに優しい人なんだろうなぁ)」


 そもそもパパ活を目撃して優位な立場なのに、変にマウントを取らずにいるのだから当然である。


「(まぁだからって、惚れないけど)」

 冷静に、乃亜は分析する。


「(お隣さんとそういう関係って、ベタすぎじゃね。そもそも見た目、まだちょっと若いしね)」


 ここは寝室でもあるようで、ベッドにはジャケットが無造作に放られていた。乃亜はそこに腰かける。

 そしてジャケットを手に取ると、鼻に近づけた。


「でもタクト良い子っすよ。全然吠えないし、大人しく留守番してるし」

「まぁしつけも頑張ったから……えぇっ!」


 ジャケットを嗅ぐ乃亜を見て、梶野は仰天である。


「え、あぁ、すみません。つい手グセで」

「どんな手グセ!?いやソレ、さっきまで着てたヤツだから……」

「でしょうね。香水と汗の匂いが……」

「か、返しなさい!」


 なんだその可愛い反応は。

 意地悪な乃亜は梶野の手をさらりと避け、「んふふ」と笑いながら逃げる。


 期せずしてダンスタイム。

 ジャケットをめぐり繰り広げられる乃亜と梶野の攻防。


 その楽しそうな状況を、彼が黙って見ているわけがない。「混ぜてー!」とばかりにタクトが参戦してきた。


「うわわっ、ちょっと……」

 予想外の事態に、乃亜も思いがけず狼狽していた、その時だ。


「(やば、タクトの足踏んじゃう……!)」

 乃亜はとっさにタクトをよけたせいでバランスを崩し、転びかける。


 その刹那、彼女は大きくて温かい、何かに包まれるような感覚を得た。


 乃亜は梶野に、抱きとめられていた。


「……っ!」

 至近距離にある梶野の顔。

 先程までとは違う、真摯で、たくましくて、ちょっとだけ怖い、


 精悍な、オスの顔。


「……うわっ、ごめん……!」

「……いえ、アタシもチョーシ乗りすぎました。すみません」


 沈黙が2人を包む。

 居心地悪い空気の中、乃亜が告げた。


「アタシ、そろそろ帰りますね」

「あ、うん。散歩ありがとうね」


 早足で玄関へ向かう乃亜。

 だが、一度だけ足を止めた。


「あの、梶野さんって何歳ですか?」


 あまりに唐突な質問。

 疑問符を浮かべつつ、梶野は答える。


「29歳だよ。今年で30歳になる」

「……そうですか。それじゃ」


 そうして乃亜はお隣へ帰っていった。


 薄暗い、人気のない自宅。

 乃亜は自分の部屋に直行し、鏡台の前に座る。


「いや、赤っ……」

 情けなく染まる、自らの頰。

 

 29歳、今年で30歳。

 まぁでも、いやむしろ逆に。


 長い脳内会議を終え、まとまった思考。

 こういうの、何て言うんだっけ。


「あ、そうだ。『青田買い』だ」

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