第29話 器用じゃなくてもバカでいたい

 決戦当日。私はお母さんの部屋を訪ねていた。


 決戦なのかどうかはさておいて、そのほうがかっこいい。


 ドアを開けると、お母さんがなにやら小さい箱に付いた取っ手のようなものを一生懸命回していた。少ししてコーヒー豆の香りが鼻を撫でた。あぁ、と私は最近お母さんがドリップコーヒ-にハマっていることを思い出した。


 最初はスティックタイプだったのに、インスタント、次には自分でドリップするようになっていた。今では豆にまでこだわっているようで、あと何日持つかなとお父さんと話した記憶がある。


「なによ、あんたも飲みたいの?」

「ミルクあるなら」

「はぁ~、わかってないわねぇ~」


 ため息をつかれた。なぜに。


「で、なんの用よ」


 ごりごり。


 私を見ないまま豆を挽くのに夢中のようだった。


「髪切ってほしいんだけど」


 あんまりハッキリとした声にはならなかったけど、お母さんは手を止めて私を見た。


「いつ」

「今」

「洗面所で待ってなさい」


 ごりごり。


 コーヒーは分けてくれないようだった。


 洗面所付近でふらふらしていると思ったよりも早くお母さんがやってきた。手にハサミを持ってチャカチャカ鳴らしている。


 リビングから椅子を持ってきてそれに座る。


 下に新聞紙を敷くのは昔から変わらない。霧吹きで髪を少し濡らされて頭が重くなった。


「恋でもしたんなら美容室に行ったほうが懸命だと思うわよ」

「美容室だと話しかけられるし」

「コミュ障娘め」


 櫛を通されて、途中で引っかかる。引っかかるのに、お母さんが力尽くでやるものだから首ごと持っていかれた。・・・・・・美容室のほうがよかったかも。


 素人のハサミ裁きは、画用紙を切るようなものとさほど変わらなかった。髪の流れに沿う気など更々ないようで、横にぶった切られる。お母さん曰く、時短らしい。


「お母さんのシャンプー使ってるんだからもっとさらさらになりなさいよ」

「無茶言わないでよ・・・・・・」


 お母さんはどうにも物にこだわる人だった。似たものが店頭に二つ並んでいたら、値段の高いほうを買う。裕福な家庭でもないのに、そういう面が昔からある。


「後ろはどこまで切るの?」

「肩まで」

「ふーん」


 言いながら、バサリと髪が落ちる音がした。


「横は? ちょっと持たせとく? あ、そういえばさくちゃんは前来たとき横に結んでたわよね。可愛かったわ~、たしかこんな感じで」


 横の髪をもふぁっと持ち上げられる。咲良のものとはほど遠かった。


「いいや」


 私の意見など聞かずに、横の髪もポテポテ落ちていく。


 ハサミで宙を切って、満足気に頷くお母さん。もう終わりにする気のようだった。


「あ、お母さん」

「なによ」 

「前も、切っていいよ」


 すると、ずっと面倒くさそうにしていたお母さんが驚いたように目を開ける。


「切っていいの?」

「いいよ」

「え? いいの?」

「いいんだってう゛ぁ!」


 舌を巻いて主張した。何度も言わせないでよ。私だって、恥ずかしいのだ。


 改まったお願いを肉親にするのに、どうして勇気がいるのだろう。近すぎる距離は、影を生むのかもしれなかった。


 お母さんは鏡に映った私をじっと見て、別のハサミを取り出した。


 中腰になったお母さんは、いつものように乱雑なものではなく、髪の流れに沿うようなハサミ捌きを見せた。少量の束にして、ゆっくり切っていく。


 お母さんは、何を思っているのだろう。親は子の異変にいち早く気付くとはいうけど、私のお母さんは例外な気がした。だって、そんなオーラどこにもない。佇まいだけでぐうたらだとわかる。


 徐々に開けていく視界で、お母さんの顔を見る。瞼は重そうで、ほら、あくびまでしている。こっちの気も知らないで。


 黒いカーテンが外され、床に落ちていく。


 痛い。


 光が射すような痛み。


 わかっていたけど、やっぱり我慢できないものがあり私は顔をしかめる。


 景色を明瞭に捉えてしまえば、目に映るすべてを受け入れなければならなくなる。気のせい、幻覚。そんなものは通用しないのだ。


 選択するべき道、乗り越えなければならない困難、憂鬱な明日。


  悩み、立ち上がり、必死に生きる。そんなことを、余儀なくされるのだ。


 でも、もう後ろ向きには歩かないと決めた。私の後ろに、咲良はいないから。


 咲良はいつだって私の隣にいる。手を繋いで、歩く先に道があって。転ばないようしっかりと前を向いていないといけない。


 世界を捉えるのは怖いけど、痛いけど、ずっとこのままじゃきっと世界なんて救えない。救えたとしても、その世界は色彩を失って朽ちていく。


 だから、私は――。


「はい、終わり。こんなもんでしょ」

「え?」


 肩をポンと叩かれて、お母さんがハサミをしまう。櫛で前髪を整えられると、水面から覗くような鏡面が私を映した。


「ねぇ、お母さん。もうちょっと切ってよ、これじゃあんまり変わらないよ」


 切った、というよりは梳いただけだった。


「バカね、あんたは昔から極端なのよ。ダイエットはじめたときだって、一日目で体壊れるまで筋トレして。昆虫博士になるとか言った日には山で遭難して」

「あ、あー。そんなこともあったようななかったような」

「最初はちょっとずつでいいのよあんたは。いきなりできるほど器用じゃないんだから」


 タオルで頭をわしゃわしゃと撫でられて、残った毛がつま先に落ちてくすぐったい。くすぐったいのは、つま先だけだろうか。鏡を見ることはできなかった。


「できないことでもやるようなバカな子は。それでいいのよ」


 タオルをどけると、ぼさぼさ髪の私がいた。せっかく整えたのに、がさつだ。けど、その大雑把なところが、ときどき助けてくれる。


 親というのは子に対してどんな思いを馳せるのだろうか。


 朝、目を擦りながら降りてきた私に、何を望むのだろうか。


 今日を楽しんでほしい。明日も無事に、生きていてほしい。そんな風には・・・・・・思わないんだろうなぁ。


 だって、誰も未来を疑わない。明日地球が滅びるなんて思いもしないし、家に帰れば娘に会えると思う親の心境はきっと当たり前のものだ。


 言葉と心は繋がっていない。私の倍以上も生きた大人ですらそうなのだ。


 自分の思っていることを素直に相手に伝えるというのはそれほどに難しく、勇気のいることなのだと思う。


「お母さん」

「なによ」

「いつもありがとう」


 明日もお母さんに会えるかどうかわからない。もしかしたら私がいないかもしれないし、お母さんがいないかもしれない。けど、後者のほうが確率的には高い。それは時間の経過に支配された私たち生き物の定めなのだ。


 考えたくない現実だけど、見据えなければいけない。私の視界はすでに、明瞭だから。


「はぁ? なに、急に」

「え、だから、感謝。こういう時じゃないと言えないかと思って」

「まさかあんた・・・・・・」


 私の顔を見て、お母さんは顔を青くする。


「死ぬ気じゃないでしょうね!」

「えっ!? ち、違うよ!?」


 違うけど、よく考えたらお母さんの言い分もわかる。


 私みたいな娘がある日突然「いつもありがとう」なんて言ったらそりゃ深刻な問題が頭に浮かぶだろう。


「お父さーん! 奈々香死ぬってー!」

「いや! お母さん違うから!」


 私の抗議もむなしく、リビングのほうから「なにぃ!?」と怒号が聞こえてきた。この家で一番大きな足跡の主が鏡越しに私を睨む。


「自ら命を断とうなど最も愚かな行為だ! そんな娘に育てた覚えはない! 来い! その腐った性根をもう一度たたき直してやる!」

「へぇっ!? だから違うって――いだだっ!」


 耳を引っ掴まれて、そのまま引きずられる。お母さんは、腹を抱えて笑っていた。


 結局私はお父さんの部屋で説教、それから若き日の武勇伝を2時間ほども聞かされる羽目になった。


 地球の命運をかけた大事な日だっていうのに。


 私の家は、いつも通りだった。

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