第20話 お願い神様
「ゆか、さん・・・・・・」
細い体を突き抜けた爪にわたしの顔が映る。ひどく怯え、とてもじゃないが勇猛果敢とは言えない。這いずるように砂をかきわけ、血をこぼすゆかさんを見上げた。
巨体が揺れ、大きな腕を一振りすると抉れた胸から白く尖ったものが露出する。それが骨だと分かると途端に脳が現状を咀嚼しはじめて、嗚咽のようなものが喉から溢れた。
軋む体を慌てて動かし転げたゆかさんを抱きかかえる。
「ゆかさん!」
「やぁ」
気の抜けたような返事だった。ふざける余裕があるのかとも一瞬思ったが、鼓動すら見える臓器に頭を振る。
「なんでですか! ゆかさん、なんで!」
「な、なにが・・・・・・?」
「わたしを助けようとしないでくださいって、あれだけ約束したじゃないですか!」
「あー、あれか。う、ん」
途切れ途切れの息づかいに抜ける音が混じる。空洞に通ずるものを感じるたびに腕の中のゆかさんが軽くなったような気がした。
「ごめんね。破っちゃった」
「謝らないでください。と、とにかくまだ助かります。すぐに逃げれば――ッ!」
立ち上がろうとすると、体の中身がまるごとせり上がってくるかのような感覚に苛まれる。喉になにかが引っかかって、咳をする力もないまま呼吸が止まる。すると同時に、鼓動も止まる。
どこかが壊れれば、それに不随して他の機能も低下する。人間の体がひどく物のように思えた。
「だめっぽい?」
「だめじゃないです、まだ・・・・・・動け、ます・・・・・・っ!」
足を引きずると、置いていくものがあった。血だとか肉だとか皮だとか、色だけじゃ判別できないものが砂に呑まれていく。けれどゆかさんだけは置いていきたくなどなかった。
「あづ」
ゆかさんが呻く。濁音混じりのそれは水分以外のものを含んでいるように聞こえた。
「あ、あああ! 足が、ゆかさん、足が!!」
話なんて待っていられないとエクノンがゆかさんの足を切り刻んでいく。悲痛な表情がやがて血の気を失い青ざめていくのは見るに耐えないものだった。
どうしてこんなことになったのだろう。さっきまであれほど楽しい時間を過ごしていたのに、わたしは幸せだったはずなのに。
抱き合い、背中に傷を作り、絶望に目を曇らせる。その光景は、ああなるほど。見たことがあった。
どうしてあんなに大勢広間で死んでいたのか疑問だったが、ようやくわかった。きっとあの人たちは、幸せに溺れていたのだ。大切な人や愛する人は、きっと明日もそばにいると信じて盲目となった視界に焼かれて死んだのだ。
それはきっとわたしたちも同じなのだろう。戦いから逃げるように背中に傷をつくりうつ伏せとなって息絶える。
――そんなの、嫌だ。
「ねぇ、下川ちゃん」
「なん、ですか」
「・・・・・・逃げて」
自信の無さそうな、小さな声だった。
「私、やっと分かったんだ・・・・・・」
グチャ、グチャ。血しぶきが散る。わたしには分からないことばかりだ。
どうしてエクノンが突然現れたのか、どうして見えないはずのゆかさんを攻撃しているのか。見えないからこそ不完全な殺戮となっているのか、疑問は苦痛と共に消えていく。
「そっか、そういうことだったんだ・・・・・・」
「ゆかさん、ゆかさん! しっかりしてください!」
空箱を揺らしているように、カラカラと音が鳴った。
「ゴホッ、ゴホッ・・・・・・ああ、なんだ・・・・・・私、そっか」
「なにを言ってるんですか! ゆかさん、早く!」
うわごとのように呟くゆかさんの瞳に輝きはない。熱が失われていく中、ぐったりと垂れる腕に心臓が跳ねる。
「こ、こっちです!」
ごろごろと砂の上を転がって、四つん這いで駆ける。体中が悲鳴をあげて、手をつくごとに肩の傷が横に裂けていく。
「ば、ばけもの! わたしはこっちだ、ゆかさんから離れろ!」
言葉が通じるのか、そもそも音が聞こえるのかは定かではないが呼応するように足下が揺らいだ。無数に穴が開いて、そこから腕が生えてくる。
群れ? エクノンは群れるのか、ここにきて新たな発見。もしかしたら、隠していたのかもしれない。人は予想の上を物事が走ると思考も動作も停止する。そこまで考えたのだとしたら、エクノンの知能はそうとうなものだ。・・・・・・そんなことどうでもいい。
現れた何体ものエクノンが姿を現し、砂上に明確な殺意が並び立つ。
「こい、こい! こっちだ!」
後のことなど考えてはいなかった。わたしがただの肉塊になるまで時間はさほどかからないだろうが、少しの時間稼ぎになればいいのだ。
それなのに。
「なん・・・・・・で・・・・・・」
エクノンはわたしの声に反応しない。そもそもわたしを見てすらいない。その突起した眼は、血だまりに横たわるゆかさんに向けられていた。
おかしい。ゆかさんはエクノンに視認されないはずだ。それは間違いない。何度も確認してきたことだ。なら、何故。ゆかさんはエクノンに囲われ。
切り刻まれているのか。
「・・・・・・っ、ぅ」
苦痛を目的とするかのような殺戮にゆかさんは声を出さない。出せない、のほうが正しいのかもしれなかった。
「や、やめてください! やめ、やめろ! このばけもの!」
どうしてそんな惨いことをするのか。貴様らは何故わたしたち人間を狙うのか。疑問をぶつけるように、後ろから巨体に飛びかかる。
「離せ! ゆかさんを離せ!」
引っ張っても、叫んでも、その巨体は動きを止めない。わたしを無視するかのように視線は一点に注がれる。胴体だけが残されたゆかさんに、わたしは泣いた。この涙が意味するものは、なんなのだろうか。
何も出来ない自分が悲しいのか、もう助けられないことが悲しいのか、感情をぐちゃぐちゃにかき混ぜて出来たものかもしれない。
「やだ・・・・・・やだやだ! いやだこんなの! ゆかさん、ゆかさん・・・・・・!」
「下川、ちゃ、ん・・・・・・」
紫色の唇が、小さく閉じたまま音を捉える。視線はすでに虚空に向けられていて、もうわたしのことは見えていないようだった。
「逃げて・・・・・・逃げ、続けて・・・・・・」
こんなので、終わりなのだろうか。
「幸せに、なって・・・・・・」
「・・・・・・ッ!」
「はやく逃げてっ!!」
ゆかさんの大きな声に弾き出されたように戦場に背を向けた。
追う者はいない。風だけが体に纏わり付いて、嫌な臭いを運ぶ。
何度も砂に足を取られて、体勢を整えようとすると血が飛び散った。痛みに耐えると足りない血液が視界をおぼろげにする。眠気のようなそれが、死に向かうものなのか。
「はぁ・・・・・・はぁ・・・・・・!」
走って、走って。走り続けた。
足下に、ボトボト。色々なものが飛んできた。遺跡の破片か、それとも別の破片か。怖くて見ることができなかった。
限界を迎え、走る足が命令に従わなくなった頃。すでにわたしは誰もいない場所にいた。誰もいなければ、物もない。
「ゆか、さん・・・・・・」
わたしを助けて、ゆかさんはエクノンに殺されてしまった。
ゆかさんが殺されて、わたしは生きてしまった。
順序が変わっても、現実は変わらない。わたしは独り、佇む。
――幸せに、なって。
「そんなの・・・・・・むりです」
わたしはウソをついていた。
世界とか人類とか、そんなのはどうだっていい。わたしはゆかさんと一緒にいられたら、それでよかったのだ。
「こんな世界で、ゆかさんのいないこの場所で、幸せになんて・・・・・・」
溶けたような笑顔。にへらと笑うと愛嬌のあるえくぼが浮かんで、前髪から覗く瞳は美しく、見ると恥ずかしそうに伏せてしまう。たどたどしい会話は変だったけど、頑張って繋げようとする様子がおかしくて、どこか見守るような面持ちになってしまう。
思い出が駆け巡る。走馬灯とはわたしが死ぬときではなく、その人が死んでしまったときに流れるのかもしれない。
わたしにとってのバッドエンド。それは人類滅亡でもなんでもなく、ゆかさんを失ってしまうことだった。
こんなのあんまりだ。
さっきまでわたしはゆかさんと一緒にいたはずだ。手を繋いで、お城を作って、アジトの名前を考えて、楽しく過ごしていたはずなのに。
彼女はもう、どこにもいない。
「ああ、ああああ・・・・・・!」
膝から崩れ落ちて、天を仰いで、泣いた。
「うあああああ!! ああああああああああああ!!」
年甲斐もなく泣いた。叫ぶように、泣いた。
流した涙が口に還る。
夜空に浮かぶ星たちは昔のように美しくない。あれほど頼もしかった光は今はただの不気味なものでしかなく、頼るものは更に高く、遠いものだった。
これが絶望。そう呼ぶのだと理解した時にはもう体は動かなくなっていた。
ついには立っていることもできず、倒れて黄色い砂を噛む。
味はしない。乾ききった、この世界のような結晶を顎で砕く。
飲み込むことはできずに、吐瀉物と共に口から流れた。
「・・・・・・誰か」
お願い。
誰でもいいから。
どんなことでもするから。
どうか。
「神様・・・・・・」
祈りは遠い遠い暗闇に消えていく。
――。
「あれ? おかしいなぁ、この辺でお姉さんの気配がしたんだけど」
突然。
頭のすぐ上で声がした。
驚き顔をあげると、夜空に浮かぶ星たちよりももっと、もっと不気味に湾曲した口元がわたしの前で歪に笑った。
「あ、そこの倒れてるお姉さん。コロッケ持ってないですか?」
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