第13話 湖の底の世界
「私、ここに来たことがあるわ」
相変わらず分けの分からない言葉のすぐ後に、七白さんを呼ぶ声が聞こえた。
「七白様、七白様。お久しぶりです」
遠くから、少女の姿をした者が滑るようにもの凄いスピードで迫ってきた。
近くまで来ると、地表の氷の上を本当に滑っている事が分かった。見た目は、まだあどけない少女で、七白さんに会えたことがよほど嬉しいのか握った手を大きく振った。
「そうか、ここは雪乃の世界か?」
「まあ、ご自分で創られたのにお忘れになったのですか?」
大きな目をクリクリさせながら話すところは、全くの少女の様だ。
「この方は、どなたですか?」
雪乃と呼ばれた少女は、あからさまに不信感のこもった目で僕の方を見た。
「まあ、そう嫌うな。彼は風野はじめという人間だ」
「人間にしては、変わった雰囲気を持っていますね」
雪乃は僕から目を離さない。
「彼は、人でありながら跳び越える者だ。そして、風の竜が最後に選んだ者だ」
「風の竜は、やはり消えたのですか?冬の風が教えてはくれましたが、信じられませんでした。それにしても風の竜が、人間を選ぶなんて」
この少女は、風の竜の事を知っているのか?
どうもこの少女は、見た目通りではないそうだ。
七白さんの知り合いは、全て普通ではないと考えておいた方が良い。
何の飾り気もない水色のワンピース。色の違いがあるが、七白さんに似ている。いや、似せているのか?やや、幼い印象があるだけだ。
「風野はじめです」
まとっていた風をはずすと、冷気が襲ってきた。
七白が説明をしてくれた彼女の生い立ちは、涙を誘う物だった。
昔、この湖の氷を冬の間に切り出し、夏でも涼しい洞穴で保存して、夏場にその氷を売って生活している夫婦がいた。
まだ、冷蔵庫も無かった時代だったので、みんなにたいそうありがたがれて、商売は順調だったが、子供には恵まれなかった。
ある冬の寒い日、氷がたくさん取れたので余った氷で女の子の姿を作ってみた。
とても美しく削り出せた少女の氷像は、今にも動き出しそうだった。
氷の少女の事を本当の娘の様に思えてきた夫婦は、このまま夏になって、彼女を失う事が怖くなった。
ある夜、空に浮かんでいる月に願った。
(どうか、氷の娘を私たちの本当の娘にしてください)
その願いは、七白さんに届いた。しかし、七白さんに出来ることは、氷の少女にたくさんの月の光を届ける事だけだった。
大量の月の光を浴びて、ただの氷から人間に姿を変えた。しかし、まだ動く事は無く、しかたなく七白は、月の欠けらを彼女の左胸に埋め込んだ。
光が彼女の瞳に宿り、ゆっくり立ち上がった。
こうして彼女は、氷屋夫婦の娘になったが、暑さには、弱かった。
そこで、七白さんが、夏でも涼しい、この湖の下に広がっていた洞窟をさらに広げて、娘の生活の場にしてやった。
人の姿をしていたが、氷の娘は、人間ではなかったので、少しも歳をとらなかった。
しかし、氷屋の夫婦の寿命には限りがあって、夫婦は最後に七白さんにこの洞窟で、娘を幸せに暮らせる様にしてやってくださいとお願いした。
そこで、七白さんは、この洞窟をさらに広げて、ひとつの世界にした。氷の森や氷の川。さらには、氷の街を創った。
誰も住み着かないと思っていたが、北風や、雪娘たちが、喜んで住みだした。
娘にたくさんの友達が出来たので、安心した夫婦が、天国へ旅立つと、頻繁に様子を見に来ていた七白さんの足も遠のいた。
「ご自分で創られたのに忘れたのですね」
僕も雪乃さんと同じ事を七白さんに言った。
「まあ、そういじめるな。私もいろいろと忙しくしていたのだ」
七白さんは、苦笑していた。
「ところで、雪乃。この世界に、お前の心臓以外に月の欠けらがまぎれ込んでいないか、知らないか?」
「欠けらですか?特にそんな話は、聞いていませんが」
雪乃さんは、振り返ると、何も見え無いところに話しかけた。
「北風さん。そんな話を聞いていますか?」
すると、突然何も無かったところに、つむじ風が生まれて、風が消えると一匹の犬が現れた。
クリクリした毛が特徴のその犬は、ベアデッドコリーにそっくりだったが、自分の事を北風だと主張した。
「いいえ、そんな話は聞いていません。この世界で、あの美しい金色の光を放つのは、雪乃さんだけです」
「ありがとう。北風さん」
雪乃さんは北風に礼を言った。
僕も礼を言うと、北風のベアデッドコリーは、地面にペタンと伏せた。
「風の竜。もったいないお言葉です。お役に立て無くて申し訳ありません」
「僕は、風の竜では無いよ。彼の風が、最後に吹き込まれただけで、ただの人間だよ」
まだ何か、言おうとした、北風を遮って雪乃さんは、七白さんに言った。
「せっかく来てくださったのだから、ゆっくりしていけるのだしょう。ご馳走を用意しますので、私の屋敷においで下さい」
「急いでいるので、食事は遠慮するわ。でも喉が渇いたので、何か飲み物を頂けるかしら」
七白さんは、雪乃さんの世界をすっかり忘れていた事に済まないと思ったのか、少しここで時間を使っていくことにしたようだ。
では、と雪乃さんが手を振ると、氷で出来たソリが瞬時に現れた。
椅子は付いていたので、僕と七白さんが並んで座り、向かい合って雪乃さんが、座った。
ソリには、特に紐が付いているわけではなかったが、ベアデッドコリーが前で走るとソリも引かれるように動き出した。
雪乃さんの屋敷は、とても大きくて立派だった。しかし、全て氷で出来ていた。
本当は、ホットコーヒーが欲しいところだったが、もちろんアイスコーヒーとシャーベットがで出来た。
シャーベットは美味しかった。
この世界には、命の樹があり、氷でコーヒーの木や、柚子の木を形作った物に、命の樹の果実を埋めてやると、それは、この洞窟でも育つ本物の命を宿す。
シャーベットの果汁もコーヒーの豆もそうして作られた物だということだ。
この世界で、いちばん貴重なものは、熱を持つ物だ。温かい物や、炎といったものは、特別な施設でしか扱えない。
この世界には、火娘〈ひむすめ〉と呼ばれる者たちがいる。熱を使う時は、火娘にお願いするそうだ。
雪乃さんにこの世界の事をいろいろと教えてもらっていた時、ひとりの雪娘が、駆け込んできた。
「雪乃、雪乃。命の樹の実が暴走しています」
命の樹は、この世界のほぼ中央にある、大きな樹だ。詳しく聞くと、普段はサクランボぐらいしか無い命の樹になる実が、どんどん大きくなってリンゴ大になり、落下して、破裂している。
破裂した実の果汁が触れた氷は、自ら集まると、虹色の魚になった。
命の木の実は、暴走しているので、この魚は、口から炎を吹く。
虹色の魚は炎を吹き、氷を溶かして、自分たちが泳げる場所を広げていった。
その魚のために、水である部分が増えて、今では、小さな池が出来ているそうだ。
雪娘が、言うには、火を吹く虹色の魚は10尾しかいないが、これ以上増えていけば、この世界の氷がどんどん溶けて、気温が高くなってしまう。
この氷の世界の温暖化は、即、住人の命の危機だ。
「やはり欠けらは、この世界に来ていたようね」
七白さんは、唇を噛んだ。
「命の樹に侵入したようですね」
僕は、すでに立ち上がっていた。
「雪乃さんは、ここにいて下さい」
僕は、この時もっと強く言うべきだった。
雪娘に案内されて命の樹に駆けつけた時は、樹の周囲がすでに湖の様になっていた。
「虹色の魚は、どうします?」
魚には気の毒だが、湖の水全てを風で吹き飛ばす事も出来たが、温かい水を吹き飛ばすと、周囲の気温が上昇すると困る。
何よりせっかく生まれた命をこちらの都合だけで、奪うのは良くない。
観察の結果、そんなに虹色の魚が産み出されるスピードが速くないので、七白さんと相談して、虹色の魚を釣りきってしまう事にした。
釣り竿を用意したが、何をエサにするかが困った。
まず雪娘が雪の大きな結晶を用意してくれた。しかし、全く見向きもされなかった。
次に考えたのは、火娘たちに協力してもらって、小さな火の粉を針に刺した。
これは、当たりエサだったらしくて、入れ食い状態になり、すぐに12匹が釣れた。
この魚たちは、低水温の小さなプールに放して、冬眠状態にした。
「この魚たちは、火の谷へ連れて行き、あそこの湖に放流しましょう」
止めたはずなのに、何故か付いてきた雪乃さんがそっと息を吹きかけると魚たちが、作った湖は、あっという間に氷った。
湖の下の湖だったところを渡り、命の樹まで来ると、短剣を抜き柄を解放した。
リンゴ大の果実たちは、すぐに小さくなり、木の最も太いところの小さな洞から、月の欠けらが抜け出て、無事短剣に吸い込まれていった。
こんなところにある樹にしては、大きいとみていると、背後でバサッと音がした。
振り返ると、何故か雪乃さんが倒れていた。
「雪乃さん。雪乃さん大丈夫ですか?」
元々白かった雪乃さんの頬が、もっと青白くなっているのを見て、僕は慌てて抱き起こした。
「大丈夫」
七白さんが確認するように、雪乃さんの頬に触れた。
「短剣を使ってしまったので、彼女の中で、心臓の役割をしていた月の欠けらまで取り出してしまったようだ」
「彼女は、大丈夫ですか?」
「心臓の代わりの欠けらを、24時間月の光にさらして、もう一度胸に入れれば大丈夫なのだけど」
「天界へ持って行くのですか?」
「短剣の光を使うという方法もあるわよ。でも短剣が光るのは、持ち主の手にある時だけよ」
つまり、自分で1日中持っていなければならないようだ。
だから、来るなと言ったのに、仕方ないお嬢さんだ。
雪乃さんを氷のベッドに寝かせ、月の欠けらを胸に置き、傍らのイスに座って短剣を抜いた。
短剣が、放つ光を吸いながら少しずつ雪乃さんの胸の中に吸い込まれていく欠けらを眺めていた。
月の欠けらは、厄介な物だと思始めていたが、こうして誰かを助けられるならうれしい事だ。
しかし、1日中短剣をかざしているだけの行為がこんなに疲れるとは、思わなかった。
半日が過ぎた頃には、ヘトヘトになり、終わった時点で、僕は、意識を失った。
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