第15話 鹿之助(前編)

 俺と高坂いろは。


 偶然、武田神社で出会った二人の物語は、ついに最終局面に向けて加速する。


 3月25日、木曜日。


 春休みが始まった最初の日。


 俺は高坂先輩と、いつもの最寄りのインター近くのコンビニで待ち合わせをしていた。


 時間は午前7時。

 ようやく3月も末に入ってきたとはいえ、まだ冬の名残を残す肌寒い日だったが、幸い空は晴れていた。


 先日、買ったばかりの、真新しいライダースジャケットに身を包み、ジーンズを履いてコンビニに向かうと、彼女はすでに待っていた。


 白のライダースジャケットに、レザーパンツ、ショートブーツに、緑色のフルフェイスヘルメット、そして同じく緑色のカワサキ、ニンジャがその傍らに停まっていた。


「おはようございます、高坂先輩」

 そう声をかけると。


「おはよう、鹿之助くん」

 と笑顔で言ってきたが、


「でも、私はもう君の先輩じゃないって言ってるよね」

 と、不満そうに口を尖らせていた。


 ただ、俺には、彼女を他になんて呼べばいいのか、わからなかったので、ひとまず呼び名はそのままにしておいた。


 これから、ようやく始まる、彼女との長い旅。



 その前に、準備が色々とあった。少し振り返ると。

 まずは、山中鹿之助について。

 今回は、いつも説明をしてくれる彼女に代わって、俺がリードするために、徹底的に調べた。

 県立の大きな図書館に行って、本を読み、インターネットで調べて史跡を探す。


 結果として、俺の中で候補に挙がったのが、上月こうづき城、山中鹿之助の首塚くびづか、同じく墓、そして月山富田がっさんとだ城にある銅像だった。


 いずれも中国地方にあり、甲府からははるかに遠い。恐らく5~600キロは離れている。


 なので、姉には嘘をついた。

「友達とバイクで旅行に行ってくる」


 と、だけ告げた。

 高坂先輩と一緒に二人で行くなど、と言うと、姉は反対するだろうから。


 姉は、

「へえ。バイクで一緒に旅行に行く友達なんていたっけ?」

 と、どこか勘づいているような、素振りを見せていたが。


 意外にも、それ以上は、突っ込んで聞いてこなかった。



 ひとまず、中央高速道路に乗り、京都に行った時と同じようなルートをたどり、その後は大阪付近から、中国自動車道に入り、兵庫県の西にある、上月城を目指すことにした。


 だが、それでもおよそ530キロ以上、時間にして6時間近くはかかる計算になる。


 とりあえず、一応今回の旅の言い出しっぺの俺が先頭を走り、二人のバイク旅が始まった。


 最初は順調だった。


 もちろん、部のみんなと京都に行ったことがあるから、ルートは知っているし、今回はちゃんと、お金もモバイルバッテリーも用意していたし、充電機器も持ってきていた。


 いくつかのPAやSAで休憩し、彼女と話をしながら、旅は順調に進み、昼頃には吹田すいたJCTを抜け、中国自動車道に入った。


 ところが、この辺りから雲行きが一気に怪しくなり、雨が降ってきた。


 バイク乗りに、雨はつき物で、避けられない天敵だが、まだ運転にはそれほど慣れていない俺たちには、雨は危険なものだった。


 雨では路面は滑るし、特に橋の上の継ぎ目や、交差点の白線の上、マンホールの上などは滑りやすくなる。


 慎重に進みながらも、後ろを走る高坂先輩を気遣うと、彼女もツラそうにしているのがわかった。


 俺は、西宮名塩にしのみやなじおSAに入って、休憩を取ることにした。


 バイクを降りると、カッパを脱いで、いそいで二人で雨を避けるように、建物の中に避難した。


「いや、いきなり雨降ってきたねえ。やっぱりバイクで雨って、大変だね」

 少し濡れた髪の毛の先を、手で触りながら、彼女はしかし笑顔だった。


「ですね。とりあえず昼飯も食べたいので、ここでしばらく雨宿りと休憩をしましょう」


 と、提案する俺に彼女は従った。


 幸い、このSAには、ガソリンスタンドも、フードコートや土産物屋もあり、時間を潰すには最適だった。


 昼食のトンカツを食べながら、俺たちは会話をする。

「ところで、鹿之助くん」

「はい」

「今日の宿って、予約取ったの?」


 いきなり、宿の話題をし始めた彼女に、俺は少し面食らったが。

「予約ですか? してません」

 そう答えると。


「ええっ。大丈夫なの?」

 心配そうに彼女は聞いてきた。


「問題ないですよ。今日は平日ですし、どこか適当なところで、入りますから」

 と、何でもないことのように言った俺が、彼女には意外だったのか。

 少し安堵するように、


「そっか。やっぱ、そういうところ、男の子だね」

 と、何故か嬉しそうに微笑んで、こっちを見ていた。


 もっとも、相手は仮にも女の子だ。俺一人なら、野宿でもマンガ喫茶で泊まることでもできたが、さすがにそれはやめようとは思っていた。



 雨は、なかなか止まなかった。天気予報では、曇り時々雨だったが、俺たちは曇りになることを期待して、見切り発車で出かけていたのだ。


 自販機で飲み物を買い、ベンチで座りながら、空を見上げる俺たち。


 だが、一向に止まない雨。

 仕方がないから、小ぶりになったことを見計らって、俺は出発を提案し、彼女は頷いた。


 この西宮名塩SAからは、最初の目的地にしていた、上月城までおよそ1時間半。中国自動車道の、佐用ICで降りて、しばらく進むと、その城に到着した。


 なんだかんだで、もう出発から7時間近くが経ち、午後2時になっていた。


 上月城跡


 こんなどマイナーな城が俺たちの最初の訪問先だった。普通の若者の男女やカップルでは、まずありえない選択だ。

 しかもここには、遊園地などのアトラクションも、観光地のような飲食店も何もない。


 だが、こと山中鹿之助に焦点を当てると、ここはとても重要な意味を持つ。

 だからこそ、俺はここを選んだ。


 実際に行ってみると、そこはせいぜい曲輪くるわの跡と、堀切ほりきりしかなくて、あとは急な坂道を上った先に、上月の小さな町が見下ろせる小高い山だった。


 その道をたどりながら、俺は声をかける。


「高坂先輩みたいに、詳しくはないので、ざっくりとした説明になりますが」

「うん。いいよ、私も勉強になるから」


「山中鹿之助と言えば、主家の尼子あまご家に忠義を尽くし、その尼子家が滅んでも主家再興を目指して、執念のような戦いぶりを示していましたが」

「うんうん」

 彼女は、頷きながら、きちんと聞いてくれるのだった。


「色々と戦いながら、織田信長に会って、織田軍の一員になって、ようやくこの播磨国はりまのくににある上月城を手に入れて、ここを拠点に、尼子一族の尼子勝久かつひさを主君に立てて、尼子家再興を目指しました」


 俺の拙い説明にもしっかりと耳を傾ける彼女。実際、その「主家再興」の部分はかなり端折って説明していたのだが。


「しかし、1578年。尼子家を滅ぼした宿敵、毛利もうり家が毛利元就もうりもとなりの息子の、吉川元春きっかわもとはる小早川隆景こばやかわたかかげらを中心とした3万もの兵で襲いかかり、この上月城を包囲します。一方の尼子軍はわずかに2000~3000の兵しかいなかったらしいです」


「当時、羽柴はしば秀吉、後の豊臣秀吉が中国遠征軍を率いていて、秀吉は味方の尼子再興軍を救いたかったようですが、あろうことか、主君の織田信長は、上月城を見捨てろ、と命令したとか」


「ああ、聞いたことあるな。確か、信長は三木城の方が大事だから、上月城は見捨てたんだよね。ヒドい話。だから私、信長って嫌い」

 などと、彼女は感想を述べていたが。


「毛利軍は、徹底した兵糧攻めで、この城を包囲。ただ、上月城は結局孤立無援のまま、2か月半後、降伏します」


「尼子勝久は城兵の助命を条件に開城、降伏し、切腹。再興軍の中心人物だった、山中鹿之助は捕らえられ、備後国びんごのくにともに送られることになりますが、その途中、備中国びっちゅうのくに阿井あいの渡しで処刑されてしまうのです」


「聞いたことあるな。でも、かわいそうだよね、鹿之助様」

 何故か、ここで「鹿之助様」などと言うから、同じ名を持つ俺は、少しドキッとしたが。


「では、次はその備後国の鞆に向かいましょう」

 俺が言うと、少し意外とでも言うような表情をしたた、すぐに笑顔で応じた。

「いいよ」



 そして、そこからさらに2時間以上かけて向かった先は。


 山中鹿之助首塚


 旧国名では、備後国鞆。現在は、広島県福山市鞆町といい、この辺りを昔は「鞆の浦」と呼んでおり、港町として栄えた古い街だ。


 街自体は、小さいのだが、昔ながらの街並みが今でも残っていて、歴史を感じることができる場所だった。


 そんな、風情のある街並みの中、俺たちが向かったのが、首塚だった。


 「首塚」というのは、昔は合戦で敗れた者、捕らえられた罪人に対し、首を斬って処刑したので、その首を供養するために作られたものだ。


 到底、若い男女が向かうべき場所とは思えない。


 だが、他の若い女の子とは感性が違う、高坂先輩は喜んでくれた。


「へえ。これが鹿之助様の首塚なんだ」

 石畳の道端に不意に現れ、小さな寺の門前に現れたその首塚は、小さな石碑、というか墓のようなものだった。


 だいぶ、日差しが弱くなり、雨も上がり、夕闇が迫る中、俺たちは二人で、その首塚の前で手を合わせた。


「それにしても、キレイなところだね」

 とは言っても、やはり彼女も年頃の女の子。


 首塚から少し離れた先にある、鞆の浦の穏やかな海、そしてその先に映る、美しい昔ながらの街並みを見ながら、感動しているようだった。


「鞆の浦というのは、古代から港町として栄えていたそうですよ。歴史を感じる街並みですよね」

「うん。来た甲斐があったよ」

 夕焼けに染まる彼女の横顔が美しかった。



 1時間半後。

 俺たちは岡山市にあるホテルのロビーにいた。


 結局、夕方になってきていたし、彼女のためにも宿を取った方がいいだろう、と俺は思い、ネットで調べて、電話をして直接向かったのだ。


 少し戻る形にはなったが、明日行こうと思っていた場所には、ここからの方が近かったし、この辺りで一番大きな街が岡山市だったからという理由もあった。


 しかし。

「ええっ。ツインルームしかないんですか?」

 と、ホテルのカウンターでホテルマンの受付の人から説明を聞いて、俺は仰天していた。


 ツインルーム。つまりベッド2つの一室しかない。そこで彼女と一夜を過ごすというのか。

「申し訳ございません。急にシングルのお客様の予約が入り……」

 と、ホテルマンは謝っているが。


 意外にも高坂先輩は、

「いいよ。私のことは気にしなくても。それに、今から別のところを探すのも大変でしょ」

 と、あっさりと受け入れていた。


 いざとなると、女は度胸があるというか、強いというのは本当かもしれない。



 そう思いながらも、渋々了承し、ホテルのルームキーを受け取り、俺たちは部屋へ向かう。


 中は、ツインルームという割には、思いのほか広く、ベッドが二つ、小さな袖机がそれぞれ2つ。

 そして、真ん中に鏡があり、二人が腰かけられる椅子もあった。

 あとは、ホテルによくあるユニットバスの風呂とトイレがあった。


「先にシャワー浴びるね」

 高坂先輩は、あっさりそう言って、ユニットバスに入ってしまった。


 すぐにシャワーの音が聞こえてくる。


 俺は、内心ドキドキしていて、考えをまとめることもできていなかったが。


 何しろ、あの壁の向こうには、裸の高坂先輩がいる。しかも今日はこの部屋で二人きりの夜。思春期の男子なら、何かものすごく期待してしまう。

 つまり、今夜は一線を越えるのか、と。


 ところが。

「ああ、さっぱりした」

 シャワーを浴びて、髪をかき上げて、浴衣姿で出てきた彼女は、そう言って。


「君もシャワー入りなよ」

 と言ってきた。


 どぎまぎしながらも、素直にシャワーに入る俺だったが、内心はもうドキドキしすぎて、気が気でなかった。


 いよいよシャワーを浴び終えて、浴衣に着替え、部屋に戻る。

 今夜が男になる瞬間か。

 そう意気込んでいたが。


 彼女は、飲んでいた。

 それも、いつ、どこで買ったのか、酎ハイの缶を傾けて。おまけに、もう傍らにはもう1缶くらい転がっているし。

「ちょ、高坂先輩。未成年ですよね。何、飲んでるんですか?」


 慌てて、俺が彼女に近づき、その手に持っている缶を取り上げようとすると。


「イヤ。もう固いこと言わないの」

 と、年上のお姉さんが子供をたしなめるように、強い力で決して缶を離そうとしなかった。


 仕方がないので、諦めて、俺は買ってきたジュースを飲み、くつろいでいると。


「鹿之助くんさぁ」

 完全に酔っぱらったような、声が聞こえてきた。と、いうか、見るとかなり出来がっていて、顔を赤らめている。


「は、はい」

 少し緊張しながら答えるが。


「私はもう君の先輩じゃないって言ってるでしょ~。いい加減、呼び方変えなさいよ~」

 思いっきり絡んできた。

 彼女は絡み上戸だと思った。


「では、何と呼べば?」

「名前で呼びなさぁい」


 もう完全に酔っぱらってる、この人。先生みたいな口調でさらに続く。

?」

「だから~。先輩じゃないって言ってんでしょ~」


「じゃあ、?」

? つまんないわねえ」


 意を決して、俺は、一番抵抗のある名前を呼んだ。

?」


 すると。

「ふふふ~。かぁ。まあ、いいっか、それで~」

 と言ったかと思うと、彼女はそのまま椅子に座りながら俯いてしまう。


 見ると、完全に寝ていた。

 酒に弱いのに、無理して飲んだのは明らかだった。


 仕方ない。

 俺は、もう斜めにずり落ちそうになっている、高坂先輩に近づき、その体を慎重に、持ち上げた。

 結果的には、いわゆる「お姫様抱っこ」みたいな形になっているようだが、もう構っていられなかった。

 姉とは違い、彼女の体は思っていたより、ずっと軽かった。


「う~ん……」

 と、酔っ払いの彼女が、少し艶めかしい、うめき声のような声を上げる。


 ゆっくりと、慎重に彼女をベッドに下ろし、布団をかけてあげる。

 すぐに安らかで可愛らしい、子供のような寝息が聞こえてきた。


 ホッと一安心し、俺は買い物に出かけた。

 要は、まだ晩飯すら食べていないのだ。


 もっとも、相方のはずの彼女は、さっさと寝てしまったが。



 翌朝の朝食。

 ホテルのバイキングで取ることになったが。

 その席上。


 と、俺が呼んだら、彼女は露骨に、

「ええっ。今、なんて言ったの?」

 と、心なしか、頬を紅潮させたように、俺を見ていたが。


「いや、昨日、そう呼べって言ってましたよね、先輩」

「うーん。全然覚えてない」

 昨夜の記憶が抜け落ちているのか、彼女は難しい顔をしていた。


 というか、この娘、酒弱すぎだな。2杯くらいしか飲んでないはずなのに。


「じゃあ、先輩のこと、なんて呼べばいいですか?」

 そう問うと、少し考え込み、その後にはにかみんだ笑顔で。

「私が鹿って呼んでるからね。君だけ先輩って呼ぶのは不公平だよね。下の名前ならなんでもいいよ」

「じゃあ、……」

 と、言いかけたが。


「それは、ちょっと恥ずかしいかなぁ。それに、一応私、君より年上だしねぇ」

 下の名前ならなんでもいいと言った割には、妙なところで、こだわる彼女だった。


「じゃあ、

 そう、言うと、彼女は急に照れ臭くなったのか、視線をそらしながらも。

「う、うん」

 と頷いた。

 結局、自分で言い出した割には、彼女は、そう呼ばれるのが恥ずかしいようだった。

 同じホテル、同じ部屋に泊まったのに、結局は何も起きない二人だった。



 高坂先輩、改め「いろはさん」との旅は続く。

 2日目は、山中鹿之助が実際に殺された、悲劇の場所に行くことに。


 岡山市中心部の、宿泊したホテルから、バイクだと下道で約1時間。


 岡山県の山間部、高梁たかはし市にそれはあった。

 高梁川の傍の国道沿い。

 昔は、備中国の「阿井の渡し」と呼ばれた場所だった。


 そこに、思いのほか、大きな石碑のようなものが、石段の上にあり、それが山中鹿之助の墓だった。


「おお、これが鹿之助様の墓か。結構立派だね」

 などと、言っていろはさんは、俺と共に墓の前にしゃがみ込んで、祈りを捧げていた。


 一通り、祈りを捧げると。

「でも、なんで殺されたんだっけ?」

 彼女は振り向いて聞いてきた。


 俺は、自分で調べたことを展開する。

「元々は、上月城で捕らえられた後、鹿之助は備中松山城にいた毛利軍の総大将、毛利輝元てるもとの元に連れていかれる予定だったんです」


「うん。それで?」


「ところが、その途中、この阿井の渡しで、毛利家家臣の福間元明ふくまもとあきという武将によって、謀殺されてしまったってのが、通説ですね。その時、鹿之助はまだ34歳だったんです」


 俺が説明すると。

「34歳は若いよね。無念だっただろうな、鹿之助様」

 やたらと、「鹿之助様」を連発し、彼女は墓を見上げて、再度手を合わせていた。


「でも、元々、鹿之助は毛利に敵対しまくって、恨まれてましたからね。ここで殺されなくても、結局、毛利の手によって、殺されていた気はしますね」


 と、俺が意見を言ったが、彼女は面白いことを言い出した。

「ところで、鹿之助くん。その鹿之助の子供って、どうなったか知ってる?」


「いえ、知らないです」

 残念ながら、俺が調べた書物やネットの情報には、そのことは書いてなかった。


 すると、彼女は非常に興味深いことを話し始めたのだった。

「鹿之助には、何人か子供がいたんだけどね。長男の山中幸元ゆきもとは、山中家の本家にあたる別所べっしょ氏の家臣、黒田幸隆くろだゆきたかという武将に預けられたんだって」


「へえ。それで?」


「ところが、この黒田幸隆も羽柴秀吉によって、滅ぼされ、幸元は9歳で流浪の身になっちゃうの。そこで鹿之助の叔父の山中信直のぶなおという人を頼って、関西の伊丹いたみに身を隠していたんだって」


 彼女の話は、面白い。

 歴史に興味がある人なら、みんなそう思うのかもしれないが、俺は特に彼女の話す、歴史の事象や、知られざる過去の話を聞くのが好きだった。


「でね。幸元はここで酒造業を始めたんだって」


「武士の子が、商売ですか。それで、どうなったんです?」


「ところが。この酒造業が大成功して、事業を拡大。江戸時代の初め頃には、それに加えて、海運業までやって、名前も鴻池直文こうのいけなおふみと改めたの」


「鴻池? って聞いたことありますね」


 すると、彼女は、得意げに、

「そう。江戸時代には鴻池善右衛門ぜんえもんという名前で、有名になった、日本初の財閥と言われるのが、この鴻池財閥。そして、その始祖がこの幸元、鴻池直文なのよ」

 と教えてくれた。


「意外ですね。武士の子なのに、商売で大成功するなんて」


「だよね? 人生、何が起きるかわからないよね。山中鹿之助は無念にもこの地で倒れたけど、まさか息子が、そんな大商人になるなんて、思ってなかったんじゃないかな」


 なかなか、興味深い話だった。

 

 俺の知っている浅い知識では、確か明治維新で敗れた旧士族たちは、維新後に武士の地位を失って、商売を始めたけど「士族の商法」と言われ、ことごとく失敗した、と聞いたことがある。


 つまり、刀を振るうのは得意でも、商売は苦手というイメージが、武士にはある。


 ところが、猛将の鹿之助の息子が、まさか商売で成功するとは。


 本当に、彼女の言う通り、人生とはわからないものだ。


 そして、次に向かったのは、山中鹿之助にとって、最も重要な場所だった。

 この物語も、いよいよ終局に向かっていく。

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