第6話

 孝子は勇作にされるがままに腕を組み、帝都を歩く。帝都は青木家のある帝都の郊外と比べものにならないほど賑やかで人の活気にあふれている。路面電車が近くを通り、孝子は勇作に少しだけ密着する。勇作は孝子を気遣うようにゆっくりと歩いていた。

「孝子ちゃん、どこかに行きたいところはあるかい。疲れていないかい。おなかは減っていないかい」

「坊ちゃま、大丈夫です。坊ちゃまこそ、どこか行きたいところがあるのでは」

 勇作は軽い調子で口笛を吹き、その場でゆっくりと足を止める。そして、優しく孝子を見つめた。

「今日はね、孝子ちゃんと帝都を一緒に歩きたかっただけなんだ。だから孝子ちゃんの行きたいところ、したいことを僕はさせてあげたいんだよね」

「なら、私、あいすくりんが食べてみたいです」

「じゃあ、喫茶店に入ろうか。喫茶店ならあいすくりんもあるだろうから」

 孝子は勇作に腕をひかれ、二人は喫茶店を探し始める。洋風のレンガ造りの建物が並ぶ中、白い二階建ての建物を孝子は見つけた。そこには、『朝陽堂』と看板が出ていた。

「坊ちゃま、ここ喫茶店のようですよ」

「本当だ。じゃあ、ここに入ろう」

 勇作は優雅なしぐさでドアを開ける。孝子は自分の主人の息子にドアを開けてもらったことに驚いた。

「レディには優しくしないといけないからね。さ、孝子ちゃん入りたまえ」

 孝子は勇作に促されるまま喫茶店に入る。そこでは蓄音機の音が絶え間なくなっており、男女の歓談の声がよく聞こえる。時計が時の変わり目を告げる鐘の音を出す。今は十一時のようだ。孝子と勇作は美しいステンドグラスの近くにある席に座った。勇作と向かい合って座ると、孝子はいやでも勇作の顔が真正面からとらえられる。日本人にしては珍しい彫刻のようなほりの深い顔に凛々しい眉根、切れ長の目に微笑を浮かべた三日月形の唇。勇作の顔をぼうっと眺めていた孝子は女給の注文をとる声に現実に戻された。勇作はあいすくりんとコーヒーを注文した。白い歯をこぼし、勇作は孝子の手をとる。

「坊ちゃま、あの、すいません。ありがとうございます。私は一介の女中ですので粗雑に扱っていただいて構いませんのに」

「何を言っているんだい。雑に扱うなんてできないよ」

 孝子は自分の素直な感情を呟いた。

「それは、女性皆におっしゃっているのですか」

「そんなことないさ。孝子ちゃんだけ。他の女性なんて」

 勇作は片手をひらひらとさせる。日の光がステンドグラスをとおし、勇作にあたる。

「他の女性なんて……何ですか」

 そのとき、先ほどの女給が現れた。盆の上にはコーヒーとあいすくりんが乗っている。女給はまずいところに来たか、というような複雑そうな顔をしていた。

「お、孝子ちゃん。あいすくりんだよ。おたべなさい」

 孝子はスプーンで真白いあいすくりんを掬う。孝子が一口分を口の中に入れるとほろほろと甘いものが溶けていくのを感じた。

「おいしいです、坊ちゃま」

「良かった。ねえ、僕あいすくりんって食べたことないんだよね。一口頂戴」

 孝子はあいすくりんの器を勇作の方に置こうとすると、勇作は笑顔で口を開いた。

「ねえ、僕の口の中にあいすくりん入れてよ」

「坊ちゃま、それはさすがに恥ずかしいです」

 孝子が顔を真っ赤にして恥じらう。

「ふふ、かわいいね。大丈夫。ぽいっと僕の口の中に放り込めばよいのだから」

 孝子は大きめの一口を掬う。勇作がにっこりしながら、口を開く。孝子が震える手で勇作の口の中にあいすくりんを入れると勇作はスプーンの先を口の中に閉じ込めた。勇作がそれをなめとる感触が孝子に伝わってきた。孝子は恥ずかしさのあまり目を固くつむった。時を紡ぐ音が一瞬だけ聞こえる。孝子が目をそろそろ開けると、まぶしいほどの笑顔をした勇作がいた。

「ごちそうさま。甘くておいしいね」

「ええ。よかった……です」

「僕のコーヒーも少し飲んでみない」

「コーヒーですかいただいてもよろしいでしょうか」

「どうぞ」

 勇作がカップを孝子のところにかちんと置く。孝子がコーヒーカップを手でくるむと、じんわり温かい感覚が伝わってくる。黒い液体を飲むのは、孝子にとって初めての経験であった。孝子が思い切って、口の中に入れると苦みが口いっぱいに広がった。

「結構なお点前で」

「あはは。苦かったかい。あいすくりんをおたべ」

 勇作は一口分のあいすくりんを掬い、孝子に食べさせようとする。孝子は苦みのあまり口を開いた。苦みの後の甘味は格別であった。しかし、孝子は勇作に食べさせてもらったことが恥ずかしくて耳まで真っ赤になっていた。

「ありがとうございます。坊ちゃま」

「うーん、坊ちゃまって呼ばないでくれるかなあ。なんか君に坊ちゃまって呼ばれるのはしっくりこないんだよね」

「ではなんとお呼びすれば」

「名前で頼むよ」

 孝子は戸惑った。

「それは致しかねます。お屋敷での皆の目もありますから」

「それでも名前で僕のこと呼んでほしいなあ。ねえ、お願い、帝都にいるときだけでいいから」

「では……勇作……さま」

 二人の間に一瞬の静寂が訪れる。勇作の目は星屑を映した夜空のように輝き、孝子の頬は朝日のように赤らんでいた。孝子は恥ずかしさのあまり下を向く。すると勇作がコーヒーを一口飲み、一言「かわいい」と告げる。その一言が孝子の耳にいつまでも残っていた。

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