第5話

 孝子は女中たちに囲まれて化粧を施されていた。とある女中は一番良い着物を用意し、またとある女中は柘植の櫛で孝子の髪を梳いていた。青木家の女中たちは優しい主人のことも、美青年な主人の息子も愛していた。しかし、新人でも気が回り、よく働く孝子のことを何よりも好いていたのだ。恋愛に憧れる女中たちは孝子に助言を送っていた。しかし、孝子は恋というものが何だか分らなかった。

 女中部屋のふすまが、するりと開く。そこには茶色い着物を着こなし、カンカン帽子をかぶった勇作が微笑みをたずさえ立っていた。

「孝子ちゃん、迎えに来たよ。なんだか、朝会ったときよりも綺麗だね」

「ええ。皆さんがお化粧してくれましたから。さあ、参りましょう」

 孝子は立ち上がり、女中たちにお辞儀をした。孝子と勇作が並び立つところを見た女中たちの声は色めき立った。

 孝子と勇作は車に乗った。青木家御自慢の黒いフォード車だ。運転するのは孝子の父であった。孝子の父は後ろを見る。後ろでは行儀よく真顔で座った孝子と優美な笑みを浮かべた勇作が座る。車というものに初めて乗るうえ、勇作から「デエト」と言われた孝子は緊張していた。

「出発しますが、坊ちゃま。どこに車をつけましょう」

「あ、うん。とりあえず僕の下宿まで」

「下宿、ですか」

「僕のおいてきた荷物をじいやに運んでもらいたいんだ。お願いできるよね」

「失礼ですが、孝子とは何を」

 勇作は孝子の肩を引き寄せた。

「それは秘密だけど」

 そのときの父の口惜しそうな表情を孝子は生涯忘れることはないであろう。

「坊ちゃま、孝子にはくれぐれも手を出さないでいただきたく。我々と坊ちゃまでは身分が違うのですから。坊ちゃまには家格の良い華族のお嬢様が嫁いでまいります」

 その言葉に孝子は華やいでいた心がしぼんでいくことを感じていた。しかし、なぜ彼女は父の一言に心がざわつくのか、自分でもわからなかった。勇作は家令の見えないところで孝子の右手を強く握った。

「僕は、自由恋愛推進派でね。自分の結婚相手は自分で決めるさ」

「まあ、いいでしょう。それでは出発いたします」

 家令は車を出発させた。その速度は孝子にとって心地の良いものであった。三十分もすれば、景色が緑色をしたのどかな雰囲気からレンガ造りのビルなど建物が多い場所へと次々と変わり、目を楽しませてくれる。

「気持ちの良いものでしょう」

 勇作は車の窓際に頬杖をつきながら言う。孝子はしっかりと頷いた。勇作の左手は孝子の右手をしっかりと握ったままだ。孝子が手をほどこうとすればするほど、勇作の左手は柔らかく力を込めてくる。勇作が孝子の耳元でささやいた。

「もう少し、このままでいさせて。じいやに気づかれるまで」

 孝子は空いている左の手で自らの胸を抑え、高鳴る胸の鼓動を抑えようとした。その様子を勇作はにこやかな表情で見守っている。孝子の父がからぜきをした。勇作があまり、近くに寄らないように牽制をしたのであろう。孝子は父のせきに驚いた様子で、自らの右手を引き、再び行儀よく座りなおした。やがて、青木邸より一回り小さな文化住宅に到着した。

「さあ、坊ちゃま、着きましたよ」

「ああ。ありがとう。少し君たちは待っていてくれたまえ」

 車のドアを開け、勇作は文化住宅の敷地の中へと入っていく。孝子の父はため息をついた。

「孝子、わかっているとは思うが、坊ちゃまに恋なんてしてはならないぞ。あの人は仕えるべき方でありそもそもの身分が違うのだから」

 孝子は胸に手を当て、勇作に握られていた手をきゅっと結んだ。

「お父様。私、恋というものがわかりません。だから大丈夫だと思います」

「そうか。なら安心だ」

 勇作が文化住宅から出てきた。荷物を両手いっぱいに持ち、友人であろう書生を従えていた。

「うん、じいや。まだ荷物あるから。僕の友達が手伝ってくれるらしいから、荷物よろしくね」

「任されるのはよいのですが、何時くらいにこちらにお戻りになられますか」

「そうだね。今が十時だから、四時にしようかな。」

「かしこまりました」

「さあ、孝子ちゃん。行こう」

 勇作は孝子の腕をとる。孝子の心拍数はいつになく上がっていた。

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