第4話
あくる日。孝子は緊張のあまり、日が昇らないうちに目が覚めた。孝子は他の女中たちを起こさぬよう、そっと立ち上がり、顔を洗いに外に出ようとした。
「孝子さん、今日はデエトね」
囁くような声が足元から聞こえた。孝子が下を向くと、春奈が寝ぼけ眼をこすりながら、孝子の足をつかんでいた。
「デエトだなんて、そんな」
孝子は真顔で言う。
「男女二人が出かけるなんて立派なデエトよ。うらやましいわあ。しかも相手はあの坊ちゃんだもの」
「きっと坊ちゃまにそんな意図はありませんわ。私、ただの女中ですから。そう、ただの女中」
孝子は自分に言い聞かせるように胸に手をやった。春奈は微笑んだ。
「あら、でも昨日は孝子さんのことべた褒めだったわ。あれは一目惚れってやつよ。おばちゃん応援しているから」
孝子は父に厳しく育てられた。近年華族が色恋沙汰で問題を起こすこともあるが、本々は「華族は臣民の模範」にならなければならないものであった。孝子の父も華族に仕えるものとして孝子が問題を起こさぬよう、厳しく育てたのである。それゆえ、孝子はいまだ、恋を知らなかった。
孝子はため息をつき、そのまま女中部屋を出ると屋敷の庭にある井戸へと向かった。井戸のつるべを水の中に落とすと景気の良い音が聞こえた。孝子が縄を引き、つるべを持ち上げる。おけの中には新鮮な水が張っていた、孝子が手を水の中に入れて顔を洗う。早朝の春の水は氷のように冷たかった。孝子は寒さのあまり身震いをすると、背中から外套をふわりとかけられた。
「おはよう。孝子ちゃん。朝早いね」
そこには優雅な微笑みを浮かべた勇作がいた。
「坊ちゃま、おはようございます。私は女中ですから、朝も早いです。坊ちゃまこそまだ日も昇っていない時間にいかがしたのですか」
「いや、なに散歩にでも行こうと思ってね。そしたら君がいたから声をかけたんだ」
「それはそれは、ひとかどの女中に声をかけていただきありがとうございます。お見送りをします」
「いや。見送りはいいよ。それより、一緒に来てくれないかな。帝都デエトの予行演習だと思ってさ」
勇作は拝むように、手を合わせ、片目を瞑った。
「デエトだなんて、坊ちゃま、何をお考えなんですか」
「男女が一緒にお出かけすることをデエトというらしいよ。まあ、とりあえず僕についてきたまえ」
孝子の右手は勇作の左手に絡めとられた。孝子はそのまま、勇作に身をゆだねた。
青木伯爵邸は帝都の郊外にある。そこは閑静な住宅地であり、少し歩けば緑地がある。女中と主人の息子。正反対な二人は日も昇らぬ中、朝の散歩を始めた。真っ暗な闇の中、二人は無言で歩き続ける。ただ、手だけは固く結んだままだ。
「孝子ちゃん、僕の手を振り払うと思ったけど、そんなことしないでいてくれるんだね」
「暗いうえ、坊ちゃまの手が温かいので」
勇作はがっくりと頭を落とす。孝子は顔を綻ばせ、静かに笑い声をあげた。二人だけの静かな行進は続く。やがて二人は公園へと至った。
「真っ暗だから気を付けて。草花は朝露にまみれてるからしゃがんだりしない方がいいかな」
「ええ。ここは、公園ですか。」
「うん。ここなら朝日がよく見えるだろうなって思ったんだ。君には朝日がよく似合う気がして」
孝子は疑問に思っていたことを口にした。
「坊ちゃまは女性を見れば、そのようなことを言うのですか」
勇作は困ったように笑った。固くつないでいた孝子の手に勇作は口づけを落とす。孝子は驚きのあまり、手をひっこめた。
「ふふ。秘密。ほら、空を見上げてごらん。綺麗だよ」
そこにはゆらゆらと朝日が昇ってきて、真っ暗な夜空に茜色がさしこむ空模様が繰り広げられていた。星々は真っ赤な光に追いやられ、輝きを失っていく。
「綺麗ですね、坊ちゃま」
「だろう。これを孝子ちゃんに見せたかったんだ」
孝子はお辞儀をした。将来の自らの主人としてふさわしい人物だと孝子は思った。
「ありがとうございます」
「ううん。強引に連れ出したのは僕だから。僕こそ、朝の散歩に付き合ってくれてありがとう。さて、もうひと眠りして、今日は帝都見物に行こうね」
朝日の中、孝子の心は不思議と華やいでいた。孝子はその気持ちが未だ何かはわからなかった。孝子は勇作をちらりと盗み見る。勇作は機嫌が良さそうに鼻歌を歌っていた。
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