第2話

 風呂から出た勇作と孝子がきちんと顔を合わせたのは、夕食の準備の時であった。青木家は一風変わった家風を持っている。それは女中、奉公人、主人皆が箱膳を囲んで食べるというものであった。その家風は明治のころより始まった。城と扶持を失った青木家は質素倹約を掲げ、家政改革に踏み切った。その際に、少ない給金で残った女中たちは家族と同様と思う風習が生まれたらしい。また、青木家にとって食事は女中たちから様々な意見が忌憚なく聞こえる大切な役割があったのだ。

 孝子は夕食担当の女中である春奈から各々の箱膳を受け取り、運ぶ役割があった。青木家は一番大きな広間で食事をする。部屋の奥側に主人たちの夕食を配膳していると、座布団を敷く音が聞こえた。孝子は別の女中が準備を手伝ってくれているのかと思い、振り向くとそこには満面の笑顔の勇作がいた。

「坊ちゃま。何をなさっていらっしゃるのですか」

「えっと、手伝い、かな」

「坊ちゃまにそんなことさせるわけにはいきませぬ。さあ、お部屋にお戻りくださいませ」

 孝子は勇作を部屋から追い出そうと、立ち上がった。

「おっと、僕は一応この家の主人の息子だ。好きにやらせてくれよ。孝子ちゃん」

 勇作は困ったように頭を豊かな艶々した髪を掻いた。孝子は勇作のことを見上げる。男性にはもったいない長いまつげが困ったようにしばたいた。廊下から孝子を呼ぶ彼女の父の声が聞こえる。孝子ははっとして、腕をぱたぱたさせた。父にこの状況が見つかったら自分が怒られると思ったのだ。父の声はどんどんと近くなってくる。孝子は目を固くつむった。その刹那、勇作は孝子を軽々と抱き上げ、隣の部屋へ連れ込んだ。孝子はびっくりして目を見開き、もがいた。勇作は優雅に微笑み、唇に指をあてた。

「静かにしていないと、お父さんに見つかっちゃうよ」

 孝子の父の足音はだんだんと近づいてくる。孝子は口に手をやり、息を潜める。勇作は楽し気な様子で孝子を見守っていた。からりと先ほどまで孝子と勇作がいた部屋のふすまが開く音がする。孝子の心臓はばくばくしていた。やがて少しの間を置き、すとんとふすまが閉まる音がした。孝子はそろそろと息を吐く。勇作は鹿笛のような口笛を吹いた。

「楽しい逃避行だったね。孝子ちゃん」

「全然楽しくないですよ、坊ちゃま。まだ私、仕事が残っているので、失礼しますね」

 勇作の手を振りほどき、孝子は部屋を出た。孝子の胸には未だ勇作の腕のぬくもりが残っていた。廊下に出ると家令が孝子のことを探しているようにあちらこちらの部屋をのぞいているようであった。孝子は父に声をかけた。

「お父様」

「おお、どこに行っていた。もうすぐ夕食の時間だ。配膳は終わったのか。終わったなら、坊ちゃまを呼びに行ってくれないか」

 家令は時計を取り出し、孝子に見せる。孝子は配膳のことをすっかり忘れていた。

「申し訳ございません。ただちに行って参ります」

 孝子は広い廊下を駆け出した。孝子が向かう先は台所だ。台所に息を弾ませ、駆け込むと中には勇作と春奈がいた。配膳はすでにだれかが済ませてくれていたようで、箱膳はすでに台所にはなかった。勇作は鍋から今日の夕飯であるしぐれ煮をつまみ食いしていた。春奈が台所に駆け込んできた孝子に暢気に声をかける。

「ああ、孝子さん。坊ちゃま、これ以上のつまみ食いはダメですよ。孝子さんは坊ちゃまと初対面でしたね。こちらが殿のご子息の勇作様です。坊ちゃまが台所に来たことを内緒にしといてくださいね。」

「は、はい。あの、それで配膳の方は」

「僕がやったよ」

 勇作がしぐれ煮をもそもそと食べながら調子よく言う。孝子はその場にがっくりと膝をついた。

「そんな、坊ちゃまにやらせるなんて、私女中失格です」

「そんなことないさ。僕は君のお手伝いをしたかっただけなんだから。今日のことは内緒にしておこう」

 勇作は再び孝子の唇にそっと指をあてる。孝子は勇作の顔を見た。勇作は優しく顔をほころばせている。その笑顔を見ると孝子は少し元気が出たようで、首を縦に振った。一方春奈は「若いとはいいものですね」と一言呟き、白い歯をこぼしていた。

「ああ、坊ちゃま。そういえば夕食の時間ですね。そろそろ行かないと。さあ春奈さまも」

「そうか、もうそんな時間かあ。さあ、春奈も孝子ちゃんも行こう」

「一緒に行ったら台所にいたことが疑われるのではないでしょうか」

 孝子の進言に勇作はちょっと考えた様子で自らの顎に指をあてた。

「そうだね。じゃあ、春奈はちょっとしてから来なさい。孝子ちゃんは僕と一緒に。エスコートして進ぜよう」

「結構です。私はひとかどの女中ですから。さあ、参りましょう」

 勇作の前を孝子は音もなく歩き始める。勇作は一瞬春奈の方を見る。春奈は手を振り、二人を見送る姿勢に入ったようだ。勇作は孝子の後を急いで追った。

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