野辺に咲く花
石燕 鴎
第1話
春告げ鳥が鳴くころ。伯爵青木家の家令の娘である孝子は父に命じられて屋敷の掃除をしていた。孝子の年のころは十七。孝子の父は経費削減といわんばかりに女学校を卒業したばかり孝子を奉公に上がらせたのである。孝子はその運命をすんなりと受け入れた。彼女は取り立てて器量の良い娘であるわけでもないし、特段賢いというわけではないと思っていた。そうなれば、自分も父の跡を継ぎ、青木家に仕える道を選ぶしかないと考えていたからだ。しかし、父親である原孝和はそうは考えていなかった。孝子は古風な美人であり、教養は女学校を出たくらいしかないが、器用ではあると娘のことを評価していた。そのため、将来は良い男と結婚させて婿に家令を継がせ、青木家を支えてもらいたいと思っていた。
孝子が玄関を掃除していると、扉が大きな音をたて、主人の帰宅を告げた。この屋敷の主人、青木匡伯爵だ。
「おかえりなさいませ。殿。」
「ああ、ただいま。孝子さん、今日は息子も下宿から帰ってくるからすまないが、風呂の支度をしてやってくれ」
自分の主人の息子に孝子は会ったことがなかった。将来、自分の主になるのに孝子は名前も顔も知らなかった。ただ一つ知っているのは、現在帝都の大学に通っているため下宿をしているということだけだ。孝子は命ぜられるまま風呂をわかすため、箒を置き、そのまま外に出た。
孝子は薪をぱちぱちとはぜる暖かいオレンジ色の炎の中へと放りこむ。青木家の風呂はタイル張りの五右衛門風呂だ。孝子は風呂の温度を一定に保つため、息を吹きかけたりして温度を調節しているとやがて風呂場に人の入る気配を感じた。孝子はおそらく主人が入ってきたのだろうと思い、そのまま薪をくべる。青木伯爵は熱い風呂を好んでいたからだ。孝子が懸命に息を吹きかけていると内窓が軽やかな音を立てて開いた。孝子が顔を上げるとそこには、西洋の彫刻を想起させるような美青年が居た。髪も目も黒々としており、瞳は切れ長ではっきりとした意思を感じさせる。色は白いが、手は朱色に染まっている。おそらく湯に手をつけたのであろう。細いながら、がっしりとした躯体を青年はしていた。
「君、熱いよ。僕を釜茹でにする気かい」
青年の顔に見惚れていた孝子はほほを赤く染めた。
「も、申し訳ございません」
「いいよ。きっと親父殿の好みの温度にしてたんだろう。女中さん、もうちょっとぬるくなるまで話に付き合ってよ」
「はい。おはなしというとどのような」
「ふうん。付き合ってくれるんだ。ありがとう女中さん。初めて見るヒトだね。もっとよく顔を見せてよ」
孝子は立ち上がり、風呂の灯に照らされた青年の顔をあっけにとられながら見つめた。青年はにっこりと微笑み、風呂の窓から手を出す。孝子がその手を取ると、火がぱちぱちと爆ぜる音が聞こえた。青年と孝子はしばし、見つめあう。青年は形の良い唇をゆがませて微笑んだ。
「うん、君。手が冷たいよ。僕はいいから、風呂に入った方がいいよ」
青年は孝子の手を擦る。孝子は顔を赤らめながら、その手を引こうとしたが、青年の力は思いのほか強く、孝子は容易には手をひっこめることができなかった。
「えっと。私は女中ですから。皆さんが入った後、お湯をいただきますわ」
「そうかい。君、名前は」
「原孝子と申します。あの、あなたは」
「ああ、そうか。初対面だもんね。初めまして。僕は青木匡の息子、勇作です。屋敷に帰ってくるのも久方ぶりだから知らない女中さんが入ってくるのも仕方ないね。原ってことはじいやの娘さんかな」
「そうなるのかしら。この屋敷に原の苗字の方は一人もいらっしゃいませんもんね。坊ちゃま、そろそろぬるくなったのでは」
「そうだね。ぬるくなってきたよ。孝子ちゃん、ありがとうね」
なみなみと張っていた湯が溢れる音がする。孝子は湯に入る勇作の背を見守り、再びしゃがみ込んだ。だんだんと茜色であった空が深い色へと染まっていく中、孝子は何故か熱くなる顔を抑えるのに必死であった。
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