第805話 世界はまだ生きているから

 伊織はゆっくりと深呼吸をしてから静夏と戦うシェミリザを見据える。


 黒い髪と褐色の肌の小柄な少女の姿。光の射さない緑の瞳。くるくると巻いた渦のようなツインテール。そのどれもが――記憶のままだった。

 ナレッジメカニクスで家族として過ごした日々は洗脳が解けた後も伊織の頭の中に残り続けている。

 その事実に違和感を持つべきだというのに、自然なこととして受け入れてしまいそうになるのが伊織は恐ろしかった。

 記憶は地続きなものの、考え方は前世で過ごした18年間と今世で洗脳を受けるまでの時間分の記憶が正しく解放されたことで矯正され、何が嘘だったかも正常に判断出来るようになっている。かつては洗脳魔法で抑えつけられていたものだ。


 しかしナレッジメカニクスで過ごしたことそのものは――嘘偽りない記憶である。

 騙されていたとしても、あの期間だけは確実に伊織はナレッジメカニクスの子供として、家族として生きていた。


 そのせいでシェミリザは憎い敵だというのに姉に見えるのだ。

 大人びていて頼り甲斐があり、時々油断した時は可愛い面もある『姉さん』である。

(……でも敵だ)

 一緒に眠った時のぬくもりは家族のものだった。

(でも敵だ)

 魔法の稽古をつけてくれたことも、褒めてくれた声も、撫でてくれた手も覚えている。

(でも、敵だ)

 伊織は瞬きをせずシェミリザを見つめ続けると、彼女の視線が完全に静夏へ向いた瞬間を狙い二本の炎の槍を作り出した。炎の槍は鉄よりも重いが鳥よりも速く飛ばせられるものであり、炎で出来ているが先端は鋭く尖っており貫通性があることを示している。

 足を前後に開いて立ち、伊織は掛け声の代わりに歯を食いしばると胴を捻って炎の槍を二本同時に投げ飛ばした。


 いくら視線を外していてもごうごうと燃える炎の槍が視界の端から飛んで来れば気づくというもの。

 シェミリザは影の手を何本か炎の槍側に回すとそれを防ごうとし――触れる直前、二本のうち一本だけが突然カーブし後ろへ回り込んだことにぎょっとした。


「器用な……風の魔法を組み込んでいたの? ……っ!」


 伊織は炎の槍の後部に風の魔法を潜ませ、直前で大きくカーブし死角を狙うよう仕向けたのである。

 同時使用と異なり、二種類の魔法を混ぜる行為は普段ならおかしな混ざり方をしないよう、そして二つの魔法がお互いの長所を削り合わないよう魔導師が細かく計算しなくてはならない。伊織はその域に達していないが、出力する形式なら比較的容易だったわけだ。

 洗脳時から上手く扱っていたが、炎と風のマントや鎌といい飛躍的に上手くなっている。

 目を見開いたシェミリザは間近に迫った一本目を叩き落し、背後の守りを固めようとした。シェミリザの魔力も枯れつつあり、ダメージも塵のように積もっている。万全なら防御は全面をカバー出来たが、今は一点に集中する他ない。


「私がいることも忘れるな」


 鋭い眼光と共に言い放ったのは静夏だった。

 炎の槍が届くよりも先に筋肉を纏った骨と筋を浮き立たせた大きな拳を繰り出す。

 そちらの対応をせざるをえなくなったシェミリザは受け止めるのではなく受け流そうとしたが――その段階でバンッ! と炸裂音をさせ炎の槍が加速した。

 風に加え、背後で小型の爆発を起こしたのである。

 まず触れたのは三本の影の手だったが、防ぐのに十分な数ではなかった。

 闇色のローブは炎の槍を弾き返そうとしたが、ほんの一点、ふわりと焦げたような煙を立ち上らせた部分から侵入を許す。シェミリザは対抗するように風の魔法をぶつけたが、それはあまりにも至近距離すぎた。


「……ッぁ、ふ……げほッ……!」


 風の魔法をぶつけたことで炎が大きく広がり、周囲に層の厚い温風が吹きすさぶ。

 弾き飛ばされたシェミリザは地面を大きく抉りながら立ったまま止まったが、肋骨と脇腹の一部を失った状態でその場に両膝をついた。

 影の手たちは力なく地面に落ち、そのままシミのように広がって消えていく。

「……なる、ほど……あなたの出力形式の魔法は、イメージ力が大切なもの……。洗脳魔法で、思考が乱されることがなくなったから、それだけ飛躍的に……使い方が、上手くなったのね、イオリ……」

 血を吐きながらシェミリザはか細い声で言った。

 しかし語らっている暇はない。ヨルシャミは準備していた十本以上の影の針を投擲しながら口を開く。


「悪足掻きをせず狙いを反らさなければ即死出来たものを……今楽にしてやる」


 それが親族としての最後の仕事だと。

 そんな想いを込めた影の針を見つめ、シェミリザは微笑む。


「楽になるにはまだ早いの。だって……世界はまだ生きているもの」


 なのにわたしだけ先に死ぬなんて寂しいわ、と。

 そう言い残し、シェミリザは苦悶の表情で転移魔法を発動させると――地面に刺さるなりばきばきと黒く鋭い根を張り、本来なら確実に命を刈り取っていたであろう絡み合ったオブジェを残して、その場から姿を消した。

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