第804話 だから逃げることなんか
シェミリザの向かう方向に迷いはなかった。
気を抜けばすぐに白む意識を繋ぎ止め、ヨルシャミはその背中を見つめていた。
伊織を攫われた時は今まで経験したことのないほどの怒りを感じ激昂したが、今は彼女に対する疑問を頭の中で整理できる程度には落ち着いていた。
何度も激突してわかったが、やはり今まで相当出し惜しみしていたらしい。そんな状態のシェミリザにすら勝てなかった。
そんなヨルシャミたちも成長し、シェミリザは今はすべてを投げ打ってでも止めようとしている。今しがた開けられた世界の穴のために。
(ナレッジメカニクスが穴を開けたがるのはわかる。向こう側が気になるのだろう。しかし……シェミリザのこの執着はなんだ?)
シェミリザ個人の目的としては違和感があるのは何故か。意識を途切れさせないためにもヨルシャミは考え続けた。
違和感が強いのは恐らくそれを目的とした理由がわからないからだ。きっとシェミリザにとってメリットのあることなのだろうが、どうにも思い浮かばない。
世界の穴を、しかもあんなにも大きなものを作り出すなど世界の寿命を縮めるだけだ。いくら地獄のような世界で生き延びる自信があっても世界ごと壊れてしまっては元も子もないだろう。
シェミリザなら危険性くらいは熟知しているはず。
(奴らがずっと狙っていた世界の神に会う方法も危険ではある。しかし綱渡りではあるが無傷で終わる可能性もある方法だ。私の時よように)
つまりそのレベルまでなら納得はできたのだ。しかしこの穴は常軌を逸している。そうヨルシャミが考えている背後で新たな魔獣がどさりと生まれ落ちる音がした。
先ほどから何度も。
いくら穴の傍だからといってもやたらと間隔が短い。それとも穴を一ヶ所に固定してしまうとこうなるのだろうか。本物の世界の穴が一ヶ所に留まったことなど恐らくないためヨルシャミには予想しか出来なかった。
その様子を見たのか静夏がそっと口を開く。
「……シェミリザはあの穴を世界を壊すためのものだと言った」
「秘密組織なら大人しく世界征服や滅亡でも企んでいろと思ったことはあるが――本当に世界を壊すつもりだったのか?」
「そうなのかもしれない。だとすれば……その目的はナレッジメカニクスではなく彼女個人のものではないだろうか」
静夏も違和感を感じていたらしい。
ヨルシャミは乾き始めた鼻血を拭って頷く。
「自暴自棄になるような輩には見えんが――いや、私にそこまで奴の奥底、深淵を覗くような繋がりはないか」
血の繋がりはあれど絆めいたものなどありはしない。
そう思った時、昔ペルシュシュカが言っていたことをヨルシャミは思い出した。
思い詰めた様子のシェミリザがペルシュシュカの元を訪ねたという話だ。その話の中のシェミリザはヨルシャミが記憶する彼女と大分異なっていた。
ということは、やはりヨルシャミの知らない面がシェミリザにはあるのだ。
その時静夏が足を止めた。見ればシェミリザも静止している。状況の把握のために一旦足を止めたといった様子だ。
背後からでもわかるほどの視線を追うと、その先には伊織がおり――今まさに、ニルヴァーレが消え去って魔石の破片が地面に落ちたところだった。
目を見開いた伊織が両手を震わせ前へと伸ばしたが、そこに手を握ってくれる相手はもういない。
もちろん落ちた魔石の中も空っぽだった。
呆然としている伊織にシェミリザがゆっくりと近寄り、その両手に大鎌を作り出しながら微笑みを向ける。
「いけない子。どうやったのかはわからないけれど……危険度が上がっちゃったわ」
穴を閉じられちゃ困るのよ、と呟いたシェミリザは地面を蹴って伊織に斬りかかる。
しかし間に入った静夏がそれを防いだ。逞しい腕に大鎌の刃が食い込んだが、筋肉の圧に抑え込まれそれ以上奥へ行かない。筋肉真剣白刃取りである。
ぽたぽたと落ちる鮮血を見て我に返った伊織は逆光を浴びた母の背中を見上げた。
「か、母さん、僕、あの」
「逃げろ、伊織」
「――ぼ、僕のせいで母さんを傷つけた! 皆のことも! ニルヴァーレさんも! だから逃げることなんかできない!」
歯を食いしばりながら立ち上がった伊織は浅い呼吸を繰り返しながら風の鎌を四対生やし、同じように風で作り出したマントを纏った。だがこれだけでは足りない。
伊織の魔法の出力はイメージが固まっていればいるほど再現が容易になる。夢路魔法の世界での再現と同じだ。伊織の中には『守ってくれるもの』の明確なイメージがあった。
赤々とした炎が風に混ざり込む。
それは魔法弓術のように術者本人に害を成すことはないものであり、風で炎が大きくなるという相性の良さからコントロールを他の属性よりも容易にしたものだった。炎は背中の鎌だけでなくマントにも伝い、組み込まれていく。
それはまるでニルヴァーレの朱色のマントのようだった。
「伊織……もしや洗脳が……」
「そう、解けてるのよ。どうやって解いたのか不思議で堪らなかったけれど……ニルはニルヴァーレだったのね? 彼が何かしたのかしら」
シェミリザは刃を滑らせることで静夏の筋肉から逃れながら微笑む。
「変な子だったけれどまさかニルヴァーレとは思わなかったわ。ふふ、今思えば名前もそのままね。顔も面影はあったけど元からあまり興味がなかったから。でも」
シェミリザはついさっきニルヴァーレが消えた場所を見つめる。
残滓も何もかも残っていない場所を。
「……今はもうどこにも居ないようだから、気にするだけ無駄ね」
気にするよりも先に伊織を処分する方が優先だ、とシェミリザは目で語った。伊織は炎を燃え上がらせると静夏の脇を抜けてシェミリザに炎と風の鎌を振り下ろす。
「うるさい! ニルヴァーレさんのことを語るな!!」
シェミリザはその鎌を悠々と避けた――が、目と鼻の先で風が炎を指揮し切っ先が伸びた。
予想よりも斬撃の範囲が広い。首の根本を切ったシェミリザは素早く影の手で止血しながら斬り返す。
伊織はその刃ごと器用に風で包み込むとシェミリザを天高く放り投げた。
しかし魔導師は空中で身動きが取れなくなるわけではない。続けて放たれた炎の槍をふわりと避けたシェミリザは風を駆使して宙を走り、少し離れた場所へ着地する。その位置を予想し走り出していた静夏の一撃が飛んだがシェミリザはすんでのところで避けた。
びしりと地面にクレーターが出来る。
伊織は続けて炎の槍を作り出そうとしたが、暴発の気配を感じ手の平で打ち消した。出力は集中力があればどこまでも可能だが、今は心乱されすぎている。過呼吸になりかける胸を押さえている間にシェミリザと静夏が接近戦を開始した。
「イオリ、大丈夫か。あれはお前を消そうと企んでいる。逃げる余力を残しておけ」
「ヨルシャミ……、僕」
「謝るのも後だ。……後で嫌というほど聞いてやる」
ヨルシャミは伊織の目を見つめ、戦場で浮かべるにはあまりにも優しい笑みを浮かべる。
鼻を啜って頷いた伊織の肩にヨルシャミが手を置いた。
「さっきの炎の槍は良いものだったぞ。風も混ぜられるのならば面白い使い方が出来そうだ」
「面白い使い方……?」
「そう、通常の魔法では至極難度が高いが――お前は異なる使い方をしているだろう」
よく見ればわかる、と言いながらヨルシャミはやり方を伊織の耳元で説いた。
シェミリザは静夏に気を取られている。その動きを目で追いながら、耳でしっかりとヨルシャミの指示を聞いた伊織はもう一度頷いた。
「何が起こったのかはわからんが――酷く不安だろう。しかし集中すれば出来る。今のお前はそれだけ成長しているぞ、イオリよ」
「……うん」
「どのような過程であれ、お前が成長することは私にとって悪しきことではない」
それだけは忘れるなとヨルシャミは伊織の背中を叩いて体を離す。
(――不安、か)
伊織を鼓舞し、いざという時に動けるよう様々な準備をしておきながらヨルシャミは視線を落とした。
恐らく伊織と同種の不安が己にもある。
風に吹かれるように消えてしまったニルヴァーレの姿を思い返しながら、ヨルシャミはほんの僅かな間だけ目を伏せた。
ニルヴァーレがヨルシャミに繋げていった命綱。
彼の近くにいないと見えないそれは、消えかけたニルヴァーレの傍でもしっかりと目に映っていたが――彼が消えると同時に、ヨルシャミの元からも消え去っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます