第802話 僕にとっての彼の名を
懐かしいと感じたのは何故だろうか。
ニルヴァーレの腕が己の胸の内に消えたのを見ても、伊織に恐怖心はなかった。
代わりに湧いたのがいくつもの疑問だったが――なぜこんなことをと問おうにもニルヴァーレは虚空を見ており答えられる状態ではなく、なぜ懐かしく感じるのか自問自答しようにもまったく当てがなく、恐怖心がない理由もよくわからない。
ただ大切な弟だからかな、とそんな予想だけはできた。
家族なら信頼しているからこそ怖くもなんともないのだ、と。
(でも姉さんは……、……姉さん?)
ぶちりと何かを引きちぎられる感覚があった。胸の奥の奥、伊織では到底手の届かない場所からだ。
慌てて目を凝らしたが、やはり自分自身の魂が眩しすぎて何も見えない。
代わりにニルヴァーレの中に何もない――魂がないと気づいてぎょっとする。目の前にあったのは脱ぎ捨てられた肉体だけだったのだ。
「ニル、どうし……っ、……」
伊織は目を数度瞬く。
すると泣くほど取り乱しているわけでもないというのに、温かな涙だぽたぽたと零れ落ちた。
奥からは相変わらず何かをちぎり取り払う音がする。耳には聞こえないが頭に直接伝わってくるのだ。伊織はここで初めてゾッとした。
このままだとニルヴァーレが死んでしまうのではないかという、そんな漠然とした恐怖だ。
思わず弟の名前を呼んで引き剥がそうとしたが、どうしても腕が動かない。それどころか名前を呼ぶことすら躊躇ってしまう。何かに黙ることを強制されているわけではない。ニルと呼ぶことに違和感を感じたのだ。
自分が付けた弟の名前。
普段ならいい。しかし今は、今だけはそれが相応しくないと――ここまでしてくれている彼の名前を呼んであげたいと、そんな気持ちが胸の中に渦巻いている。
「ニ……ニル、ヴァーレ……さん」
口を衝いて出た名前だった。
喉に、舌に馴染む音だ。無意識に付けた敬称にすらそう感じる。目を丸くした伊織の脳裏にある光景が浮かんだ。
元の、前世の故郷である日本で大きなニルヴァーレとヨルシャミの三人で過ごしている記憶だった。
二人とも楽しそうだったと知らないはずの光景なのに知っている。
その記憶の中でニルヴァーレとヨルシャミは言ったのだ。
「……種族、生き方が随分と違う私たちだが――そんな些事に関わらず、これからも同じ時を歩むと約束しよう」
「今後も隣に君たちがいることを望み、僕も共にゆくと約束しよう」
そんな契約という名の約束を。
伊織はそっと目だけで自分の腰元を見下ろす。懐中時計はあるが、あの時のものではない。そんな気がした。
(あの時のって何だ……? 僕はこんな記憶、でも、でも僕……)
混乱が湧いたところで伊織はあることに気がついた。いつもこうなった時に邪魔をしてくる感覚が一切ない。
そう感じながらニルヴァーレ越しに空を見上げると、そこには大きく禍々しい穴が開いていた。自分が開けたものだ、とわかっているが、なぜそんなものがここに、という気持ちにもなる。
胸の奥では何かを引きちぎられ続けている。
滲んだ視界を拭えもしないまま伊織は空を、世界の穴を見続けた。知っている記憶と知らない記憶が入り混じり、どれが本物かわからなくなったところで「どれも本物だ」という答えに辿り着く。
それは伊織にとって信じたくない答えだった。
憎んでいた母は伊織に酷く当たってはいなかった。しかし奪われたものはあった。それを静夏は悔いていた。
そんな静夏に伊織は言ってはならないことを言った。
ヨルシャミはこれからを共に歩もうと、彼より先に死ぬであろう分残りの人生をすべてあげようと思えた人物だった。
そんなヨルシャミとは何度もぶつかった。
リータもサルサムもネロもミュゲイラも仲間だったというのに、何度傷つけただろうか。
バルドは仲間であり――かつて生きていた世界の父親だった。その事実を否定し拒絶し、父親の織人としても仲間のバルドとしても接してこなかった。
そしてニルヴァーレは敵対していたことを踏まえた上での師匠であり、家族だった。今も昔も家族であり続けてくれていた。
そんなニルヴァーレは目の前で血に見える魔力を流し続けている。
「……ッニ、ニルヴァーレさん!」
今度こそ自分の意思で名前を呼んだ伊織はニルヴァーレの肩を掴む。同時に胸の奥で一際大きな衝撃があり、伊織は数秒の間呼吸することを忘れた。
さっきまで混ざっていた記憶はほんの少しずつだったのだと思い知るほど、今まで生きてきた記憶が濁流のように溢れ、しっかりと目が見えているというのに視覚が意味を成さなくなる。
しばらくどこを見ているのかもわからないまま過ごし、ようやく体の力を抜いた伊織を抱きとめたのはニルヴァーレだった。
「やあ、イオリ。もう大丈夫だよ」
「……、……ニルヴァーレさん、何を……」
「憑依さ。魔力の肉体だとこういう形になるとは思わなかったけれど……やろうと思ったらすぐできた」
ニルヴァーレは一瞬苦しげな顔をしてから微笑む。
「君は洗脳されていた。シェミリザの魔法は魂にまとわりつき、血管のように根を張り君から大切なものを奪っていたんだ」
伊織はオルバートとシェミリザが並び立ち、こちらに銃口を向けている光景を思い出す。久しく思い出していなかったどころか、経験してから一度もはっきりとは思い出せなかった光景だった。
そう、経験したことだ。
伊織は眉根を寄せて泣き続ける。
そんな伊織の頭を撫でてニルヴァーレは言った。
「本当ならすぐにでも出来ることだった。なのに楽にしてあげられなくて……今の今まで苦しい思いをさせてごめんよ」
「そんな、だって……だって、憑依してそんなことをしたら」
ニルヴァーレはそこにいる。
しかしその向こうの景色もよく見えた。存在しているのに居ないものとして扱われているようで伊織は涙を止められなくなる。
洗脳魔法が魂に直接作用しているとするなら、それを取り除くには魂に接近することになる。万全のニルヴァーレでも距離を取りながら時間制限付きで憑依していたというのに。
しかも今のニルヴァーレには魔力が足りていなかった。
そんな状態で無理をすればどうなるか伊織にもわかる。
「そうだね、それも他の方法を模索していた理由の一つだ。約束は守りたかった。君がこれから先苦しむだろうということはわかっていたから」
「……っなら守ってくださいよ! 僕の魔力で体を再構築します、だから――」
「君は洗脳されててもされてなくても同じことを言うんだなぁ」
肩を揺らして笑いながらニルヴァーレは「失敗しちゃうよ」と確定していることのように話した。
「それより僅かな確率に賭けてみる方が良いとは思わないかい」
「僅かな……確率……? っ!」
ニルヴァーレの姿が風に揺れる。
引き攣った声を出した伊織はそれを掴んで止めようとしたが、手がすり抜けてしまった。
ニルヴァーレはもう声も出ないのかもう一度だけ微笑むと、伊織の額に口付けてから体を離して口だけを動かす。
「また会おう、僕の大切な――美しい星よ」
そう言っているのだと伊織が理解したのと、ニルヴァーレの姿が掻き消え魔石の破片だけが地面に転がったのは同時だった。
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