第801話 夜の世界の星よ

 そこは夜の世界だった。

 闇が支配し、音すらすぐさま暗闇に呑まれてしまう。


 己の両手があるはずの位置も真っ暗で何も見えない。否、そこには何もないのだ。両腕どころか胴体も足もなく、目玉だけがその場に浮いているのではないかと錯覚する。その目玉すら存在しないかもしれないというのに。

 ニルヴァーレは「ここに僕の両腕がある」と強く念じた。

 千年以上付き合ってきた体だ。一度作り直されたとはいえ魂が形を覚えている。


 すると指先の感覚が明瞭になり、感覚を得た部分から形として見えるようになっていった。それを起点に足の先までイメージを広げていく。

 その姿は少年のものではなく、朱色のマントを羽織ったニルヴァーレ本来の姿だった。


「……さて、こんなものか。時間がないから急がないとね」


 ここはニルヴァーレにとって来慣れた場所であり、久方ぶりに訪れる場所でもある。

 随分と様子は変わってしまったが、伊織の強い魂がニルヴァーレを存在ごと侵食し焼き尽くそうとするのは変わっていなかった。こんなにも闇に覆われているというのに常に傍で肌を炙る黒い炎でもあるかのようだ。

 そんな闇の中を迷いなくすたすたと進んだニルヴァーレは遠い地平線の彼方に座り込んだ影を見つけた。

 まさに影だ。

 シルエットは伊織だが真っ黒で目鼻口すらわからない。

 その隣にしゃがむとニルヴァーレは声をかけた。


「やあ、イオリ。……いや、イオリの封じられてしまった部分かな。随分と酷い姿じゃないか」


 返事はない。影の伊織は身じろぎ一つしなかった。

 ニルヴァーレは肩を揺らして笑うとその背に触れる。影の黒さ生き物のように手の平から這い上がり、あっという間に肘まで浸食しようとしたが――ニルヴァーレは「こら」と逆の手でぽんぽんと叩く。

 すると影はするすると戻っていった。

「シェミリザの魔法の影響か……僕のイオリにまとわりつくなんて良い度胸じゃないか。まとわりついていいのは僕だけだぞ!」

 そう宣言しながらニルヴァーレは引っ込んだ影を追って伊織の頭、首、肩、背中を払っていく。一瞬本来の伊織が垣間見えたが、すぐに見えなくなってしまった。

 ニルヴァーレは「少し強引にいくよ」と影の伊織の背中に両手を差し込み、左右へと割り開く。霜柱を踏むような音が辺りに響き、真っ黒だった伊織の背中から漏れ出たのは――目が潰れんばかりの眩い光だった。


 伊織の魂を視覚化したものだ。

 目を細めたニルヴァーレは凄まじい光の奔流によろめきながらもそれを凝視する。


「……こうして捨て身で見れば僕にもわかるな。たしかに傷跡がある。……酷い目に遭ったね、イオリ」


 やはり答えはなかったが、ニルヴァーレは伊織の顔があると思しき部分から液体がぽたりと落ちたのを見逃さなかった。

「君が本来の美しさを取り戻せるように……いや、これはエゴなんだよね。僕が取り戻してほしいんだ。そのために君から悪いものを直接引き剥がすよ」

 これから大仕事だな、と呟きながらニルヴァーレは再び魂を見た。概念的な世界でこう見えるよう存在しているだけで、本来の魂は太陽の間近に行ったような威圧感がある。それがこの小さく見える光から発されていた。


 そんな光の表面に時折黒いものが走る。

 糸でも、鎖でも、縄でも、腕でもない。

 それは黒い血管だった。


 まるで伊織の一部だと主張しているかのようだが、とんだ間違いだ。

 そう呟くとニルヴァーレは躊躇うことなく両腕を伸ばして黒い血管を掴む。魂は燃えるように熱いというのに、血管は恐ろしく冷たかった。

 手の平が一瞬で凍結し、周囲の皮が収縮することで突っ張る感覚が襲う。

 ぶちぶちと引きちぎると掴まれた血管は溶け消えたが、魂に残った部分は再び再生していった。ニルヴァーレは手の平から血を――魔力を滴らせながら黒い血管を追い、掴んでは引き抜きを繰り返していく。

 どこかで叫び声のようなものが聞こえた気がしたが、血管のものか伊織のものかはたまた自分のものかニルヴァーレには判断がつかなかった。


 魂に手を近づけるたび、黒い血管を掴むたび、伸ばした手が使い物にならなくなっていく。

 そうしている間についに右腕が肘から掻き消えた。

 新たに生やすことは出来ない。そんなことに余力を使うくらいなら黒い血管を追い払うことの方が大切だ、とニルヴァーレは残った左手を伸ばし続ける。

 爪が割れ、剥がれ、疑似的とはいえ同等の痛みが伝わる中、それでも血管を駆逐することでその数はゆっくりと減っていった。


 代わりにニルヴァーレ自身の魂を覆う魔力が薄くなった影響で、伊織の魂が直接ニルヴァーレを焼き始める。


「――空の星に手を伸ばしたとしたら、こんな感じなのかもしれないね」


 掠れた声で語り掛けた先に現実の伊織がいるかのようにニルヴァーレは続けた。

「かつて願ったことがあるよ、美しい星を手にしてみたいって。普通は叶わないことだ。けれど……こういう形で叶ったんだから、人生何があるかわからないな」

 左手も手首から弾け飛ぶ。

 それは割り開いた伊織の中に広がる広大な空間に消えていった。

 黒い血管はあとわずか。ニルヴァーレは両膝をつくと前のめりになる。相変わらず影の伊織は涙を流し続けていた。

「君の人生もまだ何があるかわからないんだよ、イオリ。それを自分の足で歩んでみるといい。僕は――」

 恐ろしい熱さと光を感じながらニルヴァーレは口角を上げる。


「――その姿を、美しく思う」


 そして、黒い血管の最後の一欠片に噛みついた。

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