第800話 僕はいつだって君の味方だよ
よく見ればシェミリザはそこかしこに傷を負っていた。
がむしゃらに逃げてきたというのは本当らしい。負傷覚悟でくぐり抜けてきたのだ。
それだけこの穴に対して向けられる感情が大きいということを伊織はここでようやく感じ取った。伊織たちにとっては目的のための手段だったが――シェミリザにとっては穴を開くことこそが目的だったのである。
「姉さん……?」
「あなたにはわからないでしょうね、イオリ。何もわかっていない哀れな子供。そんな貴方に対して酷い仕打ちだけれど――」
シェミリザは伊織へ影の手をするりと伸ばすと、頬を撫でてから手先を鋭い刃に変じさせた。
首を狙っている。
伊織はそう察したが、体が固まって動かなかった。大切な家族に対して警戒することはあるまい、と肉体ごと信頼していたからだ。それだけの信頼を寄せていた。
だからこそ察しても信じられず動けない。
「伊織!」
いち早く飛び出した静夏がシェミリザの闇のローブを掴んで引く。引き倒すほどの勢いだったというのにシェミリザはほんの少し揺らめいただけだった。
影の手の切っ先は伊織の首の薄皮を切り、浅いながらも血の流れ出した首を押さえて伊織は目を白黒させる。
「え、な、なんで……姉さん……」
「穴を固定できるってことは、あなたの魔力で穴を閉じることも可能かもしれないということよ」
「……」
「ふふ、経験不足で失敗するでしょうけど、危険分子は早めに処分しておかないと」
穴の固定に使っている魔力の鎖はもはや伊織の手から離れており、提供元が死んだからといって消えはしない。
シェミリザにとって今の伊織はただリスクだけを振り撒く存在ということらしい。――が、伊織は理解したくないと首を横に振る。
「伊織を利用するだけ利用して捨てるなど……言語道断だ」
そこへ響いた怒りの声は静夏のものだった。
地響きと勘違いするほどの怒気にシェミリザは小さく笑う。
「あら怖い。邪魔してほしくないから……わたしも出し惜しみせず贅沢に使おうかしら」
シェミリザの闇のローブから飛び出したのは真っ黒な蛇たちだった。頭が数千に分かれ、それぞれが長く伸びて静夏の体に巻きつく。
それでも静夏が力を込めれば消し飛んでしまいそうだったが、なぜかぎちりと音を立てて堪えた。恐ろしい強度だ。
静夏は息を大きく吸い込み再度力を込めたが、ほんの少しずつちぎれる音がしただけだった。
「ずっとは無理だけれど少しの間くらいなら保つでしょう。……さあ、イオリ、逃げずに待っていたなんていい子ね」
伊織は膝が震えその場に座り込んでいた。
尻もちをついた状態でシェミリザを見上げる。何度見ても彼女はシェミリザであり、偽者ではない。つまりすべてはシェミリザが行ない、シェミリザが発言したことだ。
そう理解はしたが、伊織はそれでも嘘か本当か問いたかった。
冗談だと言ってくれれば許す準備は出来ている。
だからこそ問おうと、覚悟もなく口を開いたが震えてしまい声が出ない。代わりに溢れた涙が地面に落ちる前に、シェミリザは影の長剣を作り出し自らの手で伊織を仕留めようと振り下ろした。
「まったく――君は一才合切美しくないな!」
割り込んだのは金色の髪の少年。
それを伊織とシェミリザの双方が把握する間に、少年――ニルヴァーレは風の鎌で影の長剣を弾くと地面を蹴って後退し、その途中で伊織を掻っ攫った。
足は相変わらず無いが風の鎌を上手く足の代わりに使っているのだ。ニルヴァーレは伊織を強く抱き寄せたままシェミリザと頭上の穴を見る。
「とんでもない状況じゃないか……逃げるよ、イオリ」
「ニ、ニル……」
伊織は鼻を啜りながらニルヴァーレを見上げた。
「ニルは僕の味方?」
「なんだって?」
ニルヴァーレは風の障壁を作り、枯れ葉を舞い上げ目眩しにしながら笑う。その笑みはいつも通りだった。
「なんて愚問だ、イオリ。僕はいつだって君の味方だよ」
「……!」
風の障壁をくぐり抜けてシェミリザの影の手と炎の球が襲い掛かる。ニルヴァーレは器用にそれを風で逸らすと伊織を抱えて木々の間に飛び込んだ。
「シェミリザ、頭上注意だよ!」
そうニルヴァーレが言うなり穴の中から大きな人間の目を一つだけ持った巨大な猿が落ちてきた。
それに次いで人間の目と耳を持ち空中を泳ぐ深海魚、角が人間の指で形作られた牡鹿が産み落とされる。
シェミリザはそれらを笑みで迎えた。
まるで歓迎しているように。
――ただ、落ちてきた彼らに視線を遮られている間に伊織たちに逃げられてしまったことには残念そうな顔をする。
「懸念は取り払っておきたかったのだけれど……ああ、でもまだ痕跡は追えるわね」
シェミリザの目には伊織とニルヴァーレのオーラの痕跡がありありと見えていた。
そして、先ほど魂そのものも目にしている。
魔力の消耗が激しいのか、伊織の魔力に覆い隠されていたニルヴァーレの魂が露わになっていた。人間でいえば心臓が露出しているようなものだ。
そんな状態でもなお伊織を守ろうとしていた彼は、シェミリザから見ればまだナレッジメカニクスの幹部であるはずのニルヴァーレだった。
(何をしたのか大分変質していたけれど……あれはニルヴァーレだわ。随分変なことになってるのね)
シェミリザにニルヴァーレの考えの機微はわからない。
しかし今彼が伊織の味方をしている、それだけわかればいいかとすぐに心の中で切り替えた。追いついて伊織もろとも殺す、それだけである。
そこへ生まれたばかりの魔獣を踏み越えて近づく人影があった。
緑の髪をなびかせ、シェミリザの心臓を狙い何の躊躇いもなく影の針を打ち出す姿。それを見てシェミリザはにっこりと笑う。
針を叩き落とされたヨルシャミはそれでも戦意を欠片も失わない様子で構え直す。その隣にネロが降り立ち、二人とも魔獣よりもシェミリザを優先し睨みつけた。
「シェミリザよ、お前……イオリに世界の穴を作らせたな?」
「ふふ、そうね。大成功よ」
「イオリはどこだ!」
シェミリザは自分の頬に手の平を当てながら目を細める。
「残念ね、入れ違いだわ。折角だから一緒に探す?」
「戯言を……!」
バツンッ!
――と、そんな音がしたのはシェミリザの真後ろだった。
静夏が影の蛇の頭をすべて引きちぎったのだ。影の蛇は悔しげに体をくねらせると消えながら崩れ落ち、最後には何も残らなかった。
「伊織は利用され、そして殺されそうになった。このようなことが許されるはずがない」
「あらあら……ならわたしを裁く?」
静夏に微笑みかけたシェミリザにヨルシャミが鋭い視線を向ける。
「裁くならば私も全力を出そう。血族の後始末は血族がせねばならない」
「古臭い考えね。いいわ、わたし……今ね」
シェミリザはうっとりとした笑みのまま眉根を寄せると影の長剣を大鎌に変化させた。それをくるりと半円を描くように回しながらヨルシャミ、ネロ、静夏たちに言い放つ。
「とてもとても前向きな気持ちなの。三人まとめて相手してあげるわ」
***
静夏か、もしくは助っ人――自分の片割れの気配から察するにヨルシャミが足止めしてくれているらしい。
そう確認し、無くなった足の代わりに風の鎌を走らせていたニルヴァーレは伊織の下になる形で地面に崩れ落ちた。
「いてて、まあここまで来れば少しは時間を稼げるか……」
「ニル、大丈夫!? もう体を維持するのもやっとじゃんか!」
ニルヴァーレの状態を両目でしっかりと見た伊織は戸惑いの声を上げる。
それを「損傷部から魔力が漏れ出ちゃってね」とニルヴァーレは笑って返した。
「その状態であんなに魔法を使ったの!?」
「シェミリザ相手じゃ仕方ない。しかし血の代わりに魔力が流れるなんて面白い生き物になったものだよ。いや、生き物と言えるかわからないが……」
「――魔力は生き物だ。だからニルは僕らと同じだよ」
伊織はそうはっきりと言う。
誰からの影響なんて気づきもしていないのだろう。
しかし伊織の中に幼馴染の、弟弟子の、ライバルの、仲間の欠片を見たニルヴァーレは口角を上げた。この欠片をもっと掬い上げなくてはならない。
世界の穴は伊織の手で開かれてしまった。
止めることはできなかったが、このまま放っておいても伊織はシェミリザに命を狙われるだけだ。
オルバートがどういうつもりかはわからないが、もはやナレッジメカニクスに安全な場所はない。
「そばに聖女たちも居る。……もうこれがラストチャンスか」
「ニル……?」
「イオリ、長い間救ってあげられなくてごめんよ」
ニルヴァーレは伊織の胸元に手の平を押し当てた。
心臓はいつものように動いている。それを確認し、安心した表情を見せたニルヴァーレは静かに言った。
「君は魂の傷跡を狙われ、呪いよりも厄介なものに魂を縛られてしまった。内側に渦巻く嫌な気配はあの女……シェミリザのものだね」
「ど、どういうこと?」
「今まで沢山おかしなことがあったろう? 理解できないことも山ほどあったはずだ。その原因がこれだよ」
でも、とニルヴァーレは表情を歪ませる。
「共に過ごしてきてわかった。どれだけ歪まされても君は君だし、過ぎ去った時間も経験も不可逆だ。洗脳されていた間のことがすべて嘘でした、以前の君だけが本物です、なんてことには――ならない」
きっとヨルシャミも同じ考えだろう。そうニルヴァーレは目を伏せ、そして再び目線を上げると伊織に与えられた金色の瞳で彼を見た。
「けれどそれが歪みっぱなしにしていい理由になるだろうか。僕はそうは思わないね、君には自分の意思で自分の道を、人生を歩んでほしいんだ。その方が美しい」
「……自分の人生……。それ、前に母さんも言ってたけど訳がわからないよ。だって僕はもう自分で自分の人生を歩んで……」
言い終わる前に黙り込んでしまった伊織は視線を落とす。
ニルヴァーレはその頭を撫でると、肉体を形作る魔力を総動員させる。それを察した伊織は止めようと顔を上げたが、すでにニルヴァーレがしようとしていることのトリガーは引かれた後だった。
「美しくない不純物だ。今から君の魂に絡んだそれを僕の手で取ってあげる」
大丈夫、成功するさ。
そう言ってニルヴァーレは伊織の内側へと腕を差し入れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます