第799話 群れが見ている
一瞬とはいえヨルシャミの意識をすべて持っていくほど不可解なものだった。
空に広がった真っ黒な穴。
奥は見えないがたしかにそこに存在しており、島の端々から伸びた長く頑丈な鎖がふちに掛かり無理矢理こじ開けていた。
「まさか――あれが世界の穴か」
装置を持って逃げた伊織がやり遂げてしまったのだろう。ということはあの穴の下に伊織がいるのだろうか。
すぐにそう思い至ったヨルシャミはパトレアたちを負傷覚悟で振り切ってでも駆けつけようと考えたが、その思考をセトラスの呟きが覆す。
「なんですかあの規模は……」
「お前たちの意図したものではないのか?」
「実際に携わっていたのはオルバートとシェミリザなので私は技術提供だけです。しかしあれが大きすぎることくらいはわかる」
出血で真っ青な顔になったパトレアが両耳を穴の方角に向けながら不安げな顔をした。
「中から妙な音が聞こえます……セトラス博士、あれは我々が逃げるために作った囮ではないのでありますか?」
「そのつもりでしょうが、……」
セトラスはヨルシャミとネロを一瞥し、眉根を寄せてから穴を指した。
「――行くなら行きなさい。私はオルバートに意図を訊いてきます」
「お前たちを潰してから行く、などと言えば抵抗され余計に時間を食いそうだな」
ヨルシャミが大技を連発すれば倒し切ることが可能かもしれないが、魔力は温存しておいた方がいいと本能が警鐘を鳴らしている。
ここは双方見逃す形にしよう、とヨルシャミはネロを見る。
「嫌な予感がする。あの穴の元へ急ぐぞ」
「わかった、イオリが居るかもしれないもんな」
飛び出しかけたネロの背中に張りのある声がかかった。パトレアである。
足止めのためではなく、今後機会があるかわからないからこそ、ここでずっと気になっていたことを言っておいてやろうということらしい。
「私に嫌なことを言ったあなた!」
「お、俺か? 一戦交えた時のことなら真実を言っただけだぞ」
「それですそれ! バイク様の伸び代を奪ったとおっしゃいましたが……私は……それを否定しきれませんでした、ですが!」
パトレアは床をばしばしと蹴りながら言う。
「万一そうであったとしても、共に走る者として私がより速くなり先導致します! 速さを奪われたなら違う形で得るまででありますよ!」
「ほ、本心でそれか、洗脳の有無より速さ優先なんてすげーなハイトホース……」
しかしネロはなんとなく納得がいった。
パトレアがナレッジメカニクスでも明るく過ごし、それでいてしっかり倫理観が壊れているように見えたのは文化の違いと常識が異なるせいだ。
実際のハイトホースは住む土地や時代により多少異なるが、パトレアは特に顕著にスピード信仰の側面が出ているらしい。
ならば否定は逆効果なのだろう。
「あのさ、なら一言だけ言ってくぞ」
「な、なんでありますか」
「お前さ、速さを追い求めることに付加価値を付けたらもっと伸びるんじゃないか?」
「付加価値……?」
「お前もバイクも心から楽しみながら走るとかさ」
得るスピードはそのままに、そこに感情が伴っていたら更に良いものになるのではないか。ネロがそう言っていると理解したパトレアは怪訝な顔をした。
ハイトホースにとって最高速度を出せること、そしてそれを更新できることは至上の喜びだ。
つまりその段階で楽しい。
そもそも走れるだけで楽しさを得られるのだ。初めから付いてくる副産物である。それなのに何を今更――と思ったが、ならばバイクはどうなのかと愛すべき存在に意識が向いた。
(バイク様もきっと楽しいはず。けれど……)
バイクの気持ちは伊織を経由し聞かせてもらったものばかり。
かつてネロにバイクの速くなれる可能性を潰しただろと言われた時、パトレアは伊織からバイクの気持ちを聞いた。
それでも走り続ける、早く走るのは好きだけど急いてるわけじゃないから。
それが彼の答えだ。
好きなことをしているとはっきりしている。好きなら楽しいだろう、そうパトレアは思うが、幼少期と異なり「感じ方は千差万別だ」と少なからず知っているのだ。
しかもバイクは昔ほど饒舌ではないという。
それはきっと、洗脳の影響だろう。
「……」
つまり、今のバイクの本音を聞くには洗脳という不純物を取り払った上で直接話せる方法を模索しなくてはならないということだ。
そんなことをしなくてもバイク様の気持ちくらいわかる! とパトレアは心の奥底で叫んだが、なぜか口に出すことはできなかった。
本当に心から楽しんでいる好きな相手と共に、自分も楽しみながら走る。
最高速度で切磋琢磨する走り方だけでなく、それもまた魅力的なことだった。
あの時バイクに跨り走った経験も、思い返せば自分の足で並走しているわけではなかったというのに楽しかった。パトレアの知らない「楽しい走り」があるのだ。
ネロはひしゃげた柵を乗り越えながら言う。
「誰かと好きなことを共有したり分かち合ったりする、そんな気持ちを伴った走りも良いと思うけどな。まあよく考えとけよ」
「む、むむむ……拒絶しきれないということは一考の価値ありでしょうか。ええいわかりました、わかりましたからもうどこへなりとでも行きなさい!」
「パトレア、叫ぶと余計出血するからやめなさい」
嫌そうに傷口を白衣越しに押さえながらセトラスが言う。そして目線で早く行けと追い立てた。
ネロはヨルシャミと並んで飛び出し、穴のある方角へと飛んでいく。その背を見送ったセトラスはパトレアの肩を押した。
「……あなたみたいに命懸けで阻止するのは私には無理です。なのでこういう形にさせてもらいましたよ」
「不満はありますが我慢するでありますよ。それより早く降りましょう、オルバート様に質問する前に簡易的な処置くらいはしないと――あ、あれ?」
パトレアは目をぱちくりさせながら空の穴を見上げた。異音が大きくなり、穴の奥の闇が蠢く。
それは黒い闇のように固まった魔獣たちだった。
気づくなりぞわりと心臓を撫でるような感覚に襲われ、パトレアは一歩後退する。
それすらも、穴の向こうの魔獣の群れが見ているかのようだった。
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