第798話 人工的ワールドホール

 走る母の姿が見える。

 元気に走れるようになって良かったと、そんな奇異な気持ちが湧いてくる。


 憎むべき母になぜそんな気持ちになるのか一向にわからない。

 しかしそれもここまでだ、と伊織は円柱型の装置をひと撫でした。

「やっと溜まった……あとは起動するだけだ」

 静夏の目はしっかりと伊織を捉えている。しかし伊織はそれだけ確認すると自ら視線を切り、西の方角を見遣った。

 逃げている間に再び施設のそばまで来たのか狼たちの唸り声や魔法で地面が抉られる音が響いている。

 聖女一行に近づくのは得策ではないが、今は話が別だ。

 装置で人工的ワールドホールが開けば聖女たちはそちらを優先しなくてはならない。なにせ真の目的のレプリカが目に見える形で存在しているのだ。放っておけるはずがないだろう。

 見られた方が効果的ならなるべく近い位置の方が都合が良かった。


(それに上手くいけば実験の時みたいに魔獣が出てくるかもしれないし)

 

 聖女たちが更に混乱をきたすのは必至。

 そして前線にはシェミリザがいる。混乱を利用してそちらに逃げようと伊織は自分の考えを再確認した。これでいいはず。間違ってはいない。

 戸惑うのも。

 辛いのも。

 苦しいのも、これでおしまいだ。


「――父さん、僕やるよ!」


 亀裂すらなかった装置の表面がカチリと押し込まれる。

 組み込まれたシェミリザの補助魔法により、コントラオール製の装置に溜められた伊織の魔力が渦巻いた。刹那、幾重にも重ねられた様々な魔法が歯車のように噛み合って発動する。

 伊織の腕の中で装置から閃光が放たれ、空の何もない空間をするりと切り裂き――それを見て先に目を丸くしたのは、静夏ではなく伊織だった。


「……え、なんで……」


 あまりにも大きい。

 初めの実験の段階では子供の腕ほどの長さだった。それも実用に至り、凡そ半径一メートルほどになるだろうと伊織は聞いていたが、今目の前にある亀裂はどう見積もっても半径十メートル以上はあった。

 知らない内に仕様が変わったのだろうか。

 それとも失敗し開きすぎたのだろうか。

 まさか逃げている間に装置を壊してしまったのか。

 様々な憶測が伊織の頭の中を駆け巡ったが、それはすぐに一つの予想に収束した。亀裂を作った後に伊織の魔力から鎖が作り出され、それが亀裂にぴったりの規模だったのだ。


(鎖が亀裂に物理的に触れられる以上、その角度や本数や強度はしっかり計算されてた。だから……)


 つまり、この大きさは想定されたものということだ。

 きっと土壇場で「あの聖女たちを乱すならこの規模では足りない」と変更したのだろう。そう伊織はひとまず自分を落ち着かせたが、納得はしていなかった。いくらオルバートたちが天才的な技術を持っていたとしても時間が足りなさすぎる。

 しかし自分の知らない解決策があるに決まっている。そう考えていると静夏の声が耳に届いて現実に引き戻された。


「伊織……これは……」

「僕の魔力を利用して世界の穴を作ったんだ。本物には及ばないけど――見逃せないでしょ?」

「世界の穴を……!?」


 目を見開いた静夏は何かに耐えるように表情を歪めたが、その目の前で亀裂が無理矢理こじ開けられたのを見て臨戦態勢に入った。

「伊織、そんなものは作ってはならない。この世界の寿命を縮めるだけだ」

「そんなの構うもんか! 今は母さんたちをどうにかする方を優先しなきゃならないんだから!」

 伊織は思い切り口角を上げて笑うと両腕を開いた。

「わからないことばっかりだったけど――見てよ! 成功した! 穴さえ開いちゃえば装置を壊したって無駄だ、それは本体じゃないからね!」

 実際に操作しているのはメインコンピュータだ。それも穴が安定すれば制御下を離れる。

 それでも試してみなくてはわからないだろう、と静夏は装置を睨み腕に力を込めたが、その時伊織と二人同時にあることに気がついた。


 西から聞こえる音が減っている。

 そして。


「……よくやったわ、イオリ。本当によくやったわね」

「シェミリザ姉さん!」


 黒い闇を纏って飛び出してきたのはシェミリザだった。駆けつけてくれたんだ、しかも褒めてくれた、と伊織は表情を明るくする。

 伊織と静夏の間に立ったシェミリザは闇色のローブをざわめかせ、異様なものでも見たような顔をした静夏を無視して言った。

「聖女のお仲間、とても酷い邪魔をしてくれるから逃げようとしたら……この穴が見えたの。だからがむしゃらに走ってきちゃった」

「こんなものを伊織に作らせたのはお前たちか」

「ええ、これでわたしの目的が果たせるわ」

 伊織はシェミリザの背中に声をかける。


「ばっちりだよね! さあ姉さん、これを撒き餌に父さんたちと逃げ――」

「あら、だめよ」


 シェミリザはゆっくりと振り返る。

 声音は普段のように笑っていた。

 陰ってよく見えなかった表情が緩やかに見え始める。その顔はまるで大切な人に余命宣告をされたような、辛さを堪えながらもどこか壮絶な覚悟を決めた顔だった。

 シェミリザはそんな表情をいつも通りの笑みで上書きしてしまう。呆然とする伊織にシェミリザは優しく言った。


「この穴はね、世界を殺すためにあるのよ」

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