第795話 恐ろしくて仕方がないこと
数分前。
シェミリザを抑えていた静夏は凄まじい速度で建物から離れる影に気がつき目を見開いた。距離があるがあれは確かに伊織である。
その人影にバルドも気づいたのか、闇色狼を掻い潜ると背後からシェミリザに飛びついた。
「静夏! 行け、孤立してれば話を聞いてもらえるかもしれない!」
「嫌だわ、あなた程度の力でわたしを拘束できると思ってるの?」
シェミリザは背中側から生やした影の手をバルドに向かって振るう。オルガインとミュゲイラと戦った際のように手先が刃物になったものだ。
自在に動く刃に背後から首を飛ばされたバルドの四肢から力が抜ける。
いくら不老不死でも身体能力は人間レベルだ。経験値の高さから動きは良いが、真後ろからの素早い一撃を防ぐのは難しい。
シェミリザはバルドの胴体を振り払おうとし、しかし――血飛沫の向こうから走ってきたサルサムが刃を一閃させたのを見て一歩引いた。
サルサムは未だ不完全な形でシェミリザに掴まったままのバルドを踏み台にすると、そのままシェミリザの頭上を跳び越える。
「なんのつもり――、っ!」
サルサムを追っていた二匹の闇色狼がシェミリザの目前に迫っていた。
突然消えたターゲットの向こうに召喚主を見つけた闇色狼たちは慌てた様子を見せたが、止まろうと思ってすぐに止まれる距離と速度ではない。
無様な形でシェミリザに突進することになった二匹は影の手の刃で切り裂かれ血と肉に変わった。
ダメージはない。しかし体勢を崩したシェミリザに向かってリータのごうごうと燃える矢が飛び、服と皮膚を焦がす。
「うちの子も随分減らされたのね、多勢に無勢だわ」
「二匹はお前が殺ったんだろ」
そう言いながら首をさすったのはバルドだ。
――やはりオルバートより回復が早い。目を細めたシェミリザは背後から斬りつけるサルサムを避けながら小さくため息をついた。
「本当に面倒だわ……」
視線を戻した先。
そこに静夏の姿はすでになかった。
***
伊織はミッケルバードのすべてを把握しているわけではないが、以前しばらく滞在した際に見つけた洞穴に向かっていた。
ニルヴァーレを連れて島の散策をしながらウサウミウシを探していた時に発見したのだ。
ここを二人の隠れ家にしよう! と張り切ったものの、後半は装置の実験に夢中ですっかり忘れていた場所である。
あの時とは異なり、今ここにニルヴァーレは居らず一人っきりであることに伊織は不安を感じたが、こんなことで挫けてどうするんだと自分を鼓舞して走り続けた。
(パパの簡易認識阻害装置があるからオーラを見られることはない。ヨルシャミの目さえ封じちゃえば後はかくれんぼと同じだ……!)
ここで上手く隠れて装置に魔力を充填できればオルバートたちが有利になる。――様々なデメリットを見ようとせず、伊織がただひたすらそう信じて動いているのは洗脳によるものというよりも不安を打ち消し落ち着くための心の防衛反応だった。
そんな防衛反応が必要なほど精神が幼くなっていると気づきもせず、伊織は金色の装置を抱えて木々の間を高速移動する。
そこへやや遠くから響いてくる音がした。
音がした方角を見るが、草木や岩しか見えない。
シェミリザたちが戦闘している音だろうか。そう伊織は眉を顰めたが、音の正体はすぐにわかった。
「……ッん、な!?」
空から降ってきた黒いもの。
それは高くジャンプした静夏だった。
間近に着地したその姿を見て伊織は思わず声を上げて転倒する。視線が釘付けになったせいで倒木に躓いたのだ。装置を抱きかかえたまま慌てて顔を上げると、間近に迫った静夏が手を差し出して立っていた。
「ど、どこから跳んできたのさ!?」
「何度か着地したが、シェミリザと戦っていた場所からだ。仲間たちに任せてきた。……大丈夫か?」
なんで僕にそんな言葉をかけて手を差し伸べるんだ。そう伊織は警戒しながら「自分で立てるよ!」と立ち上がり、風の鎌で後退して距離を取った。
装置のことを静夏はまだ知らないはず。
そして静夏は魔力の流れを見ることが出来ない。
つまり装置に魔力を注いでも気取られることはないということだ。ここは逃げる前に時間を稼ぎながら注いでおこう、と伊織はじっと静夏を見つめ――ミッケルバードに来てから見た夢の中の母の姿が重なって見えて唇を噛んだ。今は関係のないことだ。
「任せてきた、ってことはこっちに来たのは母さんだけってこと?」
「そうだ」
「随分余裕だね」
伊織は牽制の意味も込めて風の鎌を五対に増やす。圧縮された風の音が低く響く中、一歩近づこうとした静夏の足元を伊織は斬りつけた。
「僕、成長したんだ。強くなったんだ。いくら聖女マッシヴ様でも一人でなんとかなると思わないでよ」
「ああ、そうだ。お前は強く成長した」
静夏はざっくりと切れた地面を見下ろして言う。
「要因が何であれ、これはお前が努力し頑張った結果なのだろう、伊織」
「そりゃあ――」
「ならば私はそれを誇らしく思う」
「……!」
まだ母親面するのか。
そう伊織は爪が食い込むほど手を握る。なぜか痛んだのは手の平ではなく胸の中だった。
「母さんの言うことは全部今更なんだよ……! そういうことはね、前世で生きてる時に言ってほしかったんだ!」
「伊織……」
「僕の時間を奪っておいて! 欲しかったものなんてくれなかったくせに! 与えてくれたことなんてなかったのに……全ッ部今更だ!」
風の鎌がすべて静夏に向く。
伊織は呼吸を乱しながらも心の中で自分を落ち着かせた。我を失っては上手く魔力を注げなくなってしまう。オルバートたちをはじめとする新しい家族のためにもここは抑えなくてはならない。
どれだけ酷い答えを聞かされようがいなしてみせる、そう心に決めたところで静夏が口を開いた。
「……前にも伊織のそんな主張を聞いた時、私はお前が洗脳で言いたくもないことを言わされているのだと心のどこかで思っていた。元の伊織はこんなこと思ってもいなかったはずだと。しかし……」
静夏は伊織を真っ直ぐ見たが、その視線には哀情が込められている。
「それは元の伊織の本心でもあったのだろう」
「……は、初めからそう言ってるだろ」
「洗脳など関係なく、私はお前と――伊織と向き合わなくてはならない。そのためにも訊きたいことがある」
訊きたいこと? と伊織は訝しんだ。
この期に及んで何だというのか。今なら答えてもらえる、そう思うような内容なのか。しかし時間を稼ぐことには活かせるかもしれない。そう考えた伊織は「言ってみなよ」と先を促した。
頷いた静夏は己の胸元に手をやり、凪いだ声音で言った。
「――私には生まれ変わってからずっと、お前に訊ねるのが恐ろしくて仕方がないことが一つあった」
橙色の瞳に伊織が映っている。
どんなことを問われようが可能な限り時間をかけて答えてやろう、そんなことを思いながら身構えていた伊織の耳に届いたのは酷く単純で――
「伊織。お前が命を落としたのは……私のせいではないのか」
――耳にした瞬間、今なお問われたくないと激しく感じる事柄だった。
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