第793話 この世界にはないものを

 オルバートはしばらくの間、黙ったままシァシァを見ていた。

 やたら赤紫色が濃くなった瞳で凝視し、そして顎を緩く擦って口を開く。


「――そう考えてもいい事柄だ。けれど僕はここに至るまでにシェミリザに不信感を持っている」

「だからこそワタシにローズライカについて調べさせたんでしょ」

「そうだね。おかげで引っかかっていたことは解消された。彼女は何らかの理由でローズライカを始末した可能性が高い。……でも」


 でも? とシァシァは言葉の続きを促すと、オルバートはシェミリザが居るであろう方向を見て言った。

「僕とバルドについて、僕の本来の目的や名前について、そして伊織について。このどれにも関係ないなら、今はいい」

「本当は関係あるかもしれないのにか」

「それを証明するにはシェミリザに直接問わなきゃならないからね。でも今は叶わない。聖女たちがここへ突入してこないのは彼女が前線で暴れているからこそだ」

 あとは突然現れた魔獣のおかげかな、とオルバートは肩を竦める。


「シェミリザは味方だと言っていた。まあ信じられたものではないけれど――今のこの条件なら、僕は予定通り穴を開くことを選ぶ。君の言う危険性を加味した上で手伝ってもらったからね」


 オルバートは『今の条件でどちらが得でどちらが損か』を主軸に考えていた。

 そしてシァシァの指摘では考えを変えるに至らなかったのだ。

「捕まってしまっては元も子もない。僕なら死にはしないけど、一から君たちのような人材を集めるのは骨が折れる。だからここで……」

「オルバ、それなら方法は他にもあったはずだ。ワタシは君の決定に従おうと考えていたから口出しはしなかったケド、そもそも逃げるのが目的なら穴を開くより前に追跡可能なネコウモリを集中攻撃なり捕獲なりしてシェミリザの転移魔法で逃げちゃう方がよほど良い」

「……」

「君はさ、こっちが主目的なんじゃないかい」

 シァシァは伊織が抱えて逃げているであろう装置を思い浮かべる。

 世界に穴を開けるための装置を。


「頓挫したコトもあったけれど、長く君の傍に居たワタシから見ても――これは君の悲願だ」

「……」

「そんなに穴の向こう側が魅力的なのか?」

「……」

「穴の向こうの何が知りたいんだ、オルバ」


 オルバートは知りたいものはとことん調べる。何か探し求めているものがあるかのように。

 その対象は多岐にわたるが、この世界のすべてを調べたとは言えない。途方もないほど長い間調べていても未だに知らないことが湧き出る。

 それらに対して向けられるオルバートの知識欲と、世界の穴に向けられる知識欲は性質が異なって見えた。シァシァほど長い付き合いではない者から見ればどちらも同じように思えただろうが、やはり穴に向ける熱意は異質だ。

 シァシァは髪と同じ緑の目をオルバートに向けて問う。


「君は、この世界にはないものを知りたいのか?」


 黙りこくっていたオルバートは目を瞬かせた。まったく疑ってもみなかったことを生まれて初めて指摘された人間のような顔だった。

「この世界にはないもの……?」

 小さく呟いた言葉はそのまま自分への問いになったのか、オルバートは視線を足下に落とすとしばらく思案する。

 この世界にはないものを知りたいなら外へ目を向けるのは必至だ。外の世界を知りたいというよりも、知りたいことがこの世界になかったのかもしれない。


「――僕は……もう、当初の目的すら覚えていない。けれど穴の向こうが気になって仕方なかった。そうか、穴の向こう側ということは世界の外だ、この世界には僕の目的を満たせるものがなかったんだね」


 この世界には目的のものがない。

 だからこそ外の世界に惹かれたのだろうか。

 だがヨルシャミの『世界の神と対話する方法』を求めたのも好奇心だけではなかったような気がする、とオルバートは思考を掘り下げる。これは世界の穴と同じくらい惹かれた案件だ。

 シァシァに指摘された今ならただの好奇心と、心にこびりつく何かに突き動かされて求めたものの差がわかる気がした。


 世界の神はこの世界そのもの。

 目的のものはこの世界にはない。

 なのになぜそれが気になるのか――世界の神に会いたいのか。


 はたとした様子でオルバートは顔を上げた。

「……僕はもしかして、穴の向こうに何があるか知っていたのか?」

「――知っていた?」

「知りたいからではなく知っているから手を出したかった、そんな……気がするだけだ。それこそ確証もない、っ……」


 オルバートは胸を押さえて崩れ落ちる。バルドが近いせいか発作の頻度が高い。頭が痛んだ気がしたが、発作の方が強く上書きしてしまった。

「――……」

 刹那、酩酊したような頭の中にいくつかの記憶が浮かび上がってきた。シェミリザが何かを言っている。

 それはオルバートに世界の神に会う方法を探ることを勧めるものだった。それはわかるが細部は思い出せない。ただ、目的のために試して良いと感じたことと「それが妥当だ」と思える何かがあったことはわかった。

 だが違和感がある。

 これは恐らく、ヨルシャミが世界の神と対話できる方法を知っているとわかる前のことだ。


「……世界の神に会う方法を知る前から、世界の神に会う方法を探っていた……?」


 好奇心由来ならわかる。

 世界の神の存在はこの世界の住人には信じられていないのが普通だが、転移者や転生者を捕らえて情報を得てきたオルバートたちは早々に存在を知っていたのだから。

 だがここまで追い求めてしまうのは違う感情が由来だ。それがわからない。

 そう混乱するオルバートを助け起こすでもなく、シァシァはただ傍で佇みながら見下ろしていた。


(大分不調みたいだ。……正規の手順は知らないけれど、今のうちに試してみるか)


 本元の装置さえ停止してしまえば伊織側からは操作できない。そのまま停戦についてアナウンスでもすればいいだろう。オルバートはともかく恐らくシェミリザは抵抗するため、その対応は自分がすることになるかもしれない、とシァシァは口角を下げる。なんて面倒な道を歩もうとしているのだろうか。

 そうコンピュータに近づいたところでオルバートがぽつりと言った。

「最初に世界の神に会いたがっていたのはシェミリザの方だ。彼女に促され、そして僕もそれを妥当だと思った。……きっと僕にも関わりがあったからだ。シァシァ」

「……なにさ」

「君は僕も転生者ではないかと疑っていたね」

「ああ、残念ながら調べ直す時間は取れなかったけれどネ」

「僕は」

 オルバートは仮面を押さえながら立ち上がる。


「僕は世界の神に会う提案を受けて、妥当だと思った。シェミリザがなぜ会いたいのかまではわからなかったけれど、僕の目的を達成するには……直接問うのが良いと思ったんだ」

「それは――妥当だネ」

「そんな気持ちを抱いたのは僕が転生者だったならわかる。世界の神に会って問いたいことと……言いたいことがあって、それが動機になっていたのかもしれない」


 オルバートは肩で息をするほど荒い呼吸を繰り返す。本来はまだ立てる状態ではなかった。

 しかし口は呼吸より会話を優先する。

「穴の向こう側について今の僕は知らない。けれど昔は知っていたのかもしれない。だって勝手に感情が湧き上がってくるんだ、向こう側に強く惹かれる感情が」

 その感覚は昔、伊織に対して勝手に口が動いた時に似ていた。

 ――死にたくない。

 そう言った時のことだ。

 死にたくないなどと口にしたのも、忘れてしまった遠い過去の自分が思ったからなのだろうか。そう考えながらオルバートはハッとしてシァシァを見た。

「でもその道はヨルシャミに逃げられ叶わなかった。なら直接穴の向こう側を知るしかない」

 オルバートは冷や汗を流しながら青い顔のまま言う。


「――シァシァ、これはたしかに僕の悲願だ」


 この世界にないものが目的。

 世界の神に直接訪ねたくて堪らない事柄。

 それに惹かれて惹かれて、無意識に一番の目的に据え、今回「逃げる」が目的なら最善策になるものを放り出して実行しようとした。

 本当に転生者なのかはわからない。何故なら欠片も記憶がないからだ。しかしわかったことが、はっきりしたことが一つだけある。


「悲願だからこそ……やはり止めるわけにはいかない」


 オルバートがそう静かに言ったのと、モニターの赤い印が緑に変わったのは同時だった。

 緑の印の隣に数字が%で表示される。

 それは、伊織の魔力が充填され始めたことを示していた。

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