第787話 あいつが正気だったことなんて

 ヨルシャミが真っ先に感じたのはドラゴンの視線だった。


 背中に刺さるどころか大きな杭でも打ち込まれたかのような威圧感に脳が混乱する。

 そんな生き物が居ることは知っているが、地上に突然ぽんと現れるようなものではないということも知っていたからだ。

 しかしその経験則は裏切られ、ヨルシャミは振り返るより先に防御体勢を取る。

 ドラゴンの翼に弾き飛ばされたヨルシャミは勢い良く屋上へと激突した。弾かれる直前に間近に見えた硬い鱗は赤褐色で、皮膜に見えた翼の一部は鱗粉の塗された蝶の羽のようだった。それも赤色を中心としており、太陽光をきらきらと反射する様子が目に焼き付いている。

 しかしそれを綺麗だと思う余裕はない。


「っイオリ……!」


 ヨルシャミが顔を上げると同時に発砲音がした。セトラスが間近でドラゴン目掛けて撃ったのである。

 両眼を狙ったと思しき銃弾は逸れて赤黒い角に当たり弾かれた。怪我の影響で上手く狙えないらしい。

 しかしドラゴンはそれを威嚇と受け取り、突進をやめて屋上へ降り立った。それだけで手すりが歪みコンクリートにヒビが走る。

 一瞬のこう着状態。

 それを破ったのは先に伊織を逃そうと動いたセトラスとパトレアだった。

「イオリは装置を持ってオルバートの元へ行きなさい」

「私はあの大きいトカゲを聖女たちの方へ誘導するでありますよ!」

 セトラスは伊織をドラゴンの視線から隠すように前へ出てライフルを構える。パトレアのエンジン音に被せるように伊織は叫んだ。


「僕も戦うよ! ヨルシャミも来てるし兄さんたちだけじゃ――」

「あなたはこれから大仕事が残っているんでしょう。魔力は温存しておかないと」

「侮らないでよ、それくらいで魔力が底をつくはずないだろ! 僕だって家族を守りたいんだ!」


 振り返ったセトラスは目を見開き、そして眉根を寄せると「好きにしなさい」と再び前を向く。

「……なんとも色々な意味で頭の痛くなる会話であるな」

 垂れてきた血を拭い取ったヨルシャミは起き上がりながら渋面を作った。

 伊織は何か言いたげな顔をしたが、ドラゴンがガリガリとコンクリートを爪で掻きながら動き出したのを見て視線を切る。

「こっちに来るな!」

 そのまま水を固めた三叉の槍を作り出すとドラゴンに向かって投げ飛ばした。

 額に命中したと同時に固い音がしてドラゴンの視線がブレる。これは効くかもしれない、と伊織が再び三叉の槍を作り出したと同時にドラゴンの牙がカチンッと鳴った。

 飛び散った火花が口の中であっという間に炎に成長し、肺の空気と共に吐き出される。凄まじい炎のブレスに視界の全てが赤と白に染まったが、灼熱の熱さは襲ってこなかった。


 ヨルシャミと出入り口から飛び出したニルヴァーレの作り出したドーム状の風が炎のブレスを防いだのである。


「イオリ! とんでもないものに襲われてるね!」

「ニル……!」

「しかもいつ追加が来るかわからないときたもんだ、……」


 ニルヴァーレはヨルシャミをちらりと見ると、小さく頷いて風の鎌をずらりと生やした。

「ここはこの邪魔者だけでも協力して退けるべきだ、そうは思わないかい、ヨルシャミ!」

「ははは……なんとまぁ……。だが同意見だな」

 元よりニルヴァーレは仲間だが、共に行動する言い訳が出来たわけだ。

 さっさとドラゴンの魔獣を倒し、そのドタバタに紛れて伊織を奪取するのは有りである。そう判断したヨルシャミは同じく風の鎌を作り出した。

「外装が硬すぎて針が通らん。炎も効きが甘そうだ。故に同じものを使わせてもらおう」

 楽しそうじゃないか、と笑ったニルヴァーレはヨルシャミと共にドラゴンに向かって走り出した。


 ドラゴンは炎のブレスを防いだ二人を警戒してか空へと飛び上がったが、二人は風の鎌を足代わりに床を蹴るとその後を追う。

 ヨルシャミは近づくなり角に影の手を絡ませ、首周りをぐるりと回転してから背中に着地した。

「……!」

 首の後ろに石のような材質で出来た目がある。

 魔獣にしてはただのドラゴンだと思っていたが、石のようでありながら人間のものに酷似した巨大な目はやはり魔獣を彷彿とさせるものだった。

「ご丁寧にまつ毛まで作ってあるとは……」

 相変わらず趣味の悪いことだ、とヨルシャミは風の鎌で目ごと首を切りつける。

 表面に傷は付いたが浅い。

 だが完全に防げるわけではないようだな、と確認したところでドラゴンが空中で体を回転させた。まるで空に住むワニだ。振り落とされたヨルシャミに代わりニルヴァーレが首の付け根を風の鎌で切りつけ、同じ部分を連続で狙う。

 そのまま地面に着地したヨルシャミの隣に降り立ち、ニルヴァーレはふうと息をついた。


「切り落とすまで相当かかるやつだね」

「早くせねばセトラスがイオリを連れて行くぞ」


 いや、とニルヴァーレは首を横に振る。

「さっきのあの子の顔を見たかい、意地でもドラゴンを倒してやるって表情してたよ。今もどうすべきか考えてるんじゃないかな。うん、じつに美しい!」

「お前な……」

 そうヨルシャミが半眼になった時、屋上から黒いものが飛び出した。

 伊織のワイバーン、リーヴァである。

 それに乗った伊織がドラゴンに体当たりし、接触するなり風の鎌を首に振り下ろす。それは奇しくもヨルシャミたちが狙った部分と同じ場所に命中した。

 ばきりと鱗が割れ、生え際から紫色の血が流れ出す。

「ほう、我々より一撃が重いのは込められる魔力が無尽蔵だからか……、!」

 怪我の経験が薄いドラゴンはその痛みだけでもパニックになり、原因を排除しようと首を振り回した。リーヴァごと払い除けられた伊織は宙に放り出される。

 その体を受け止めたのは――ヨルシャミだった。


「ニ、ニル、ありが……」

「ふは、悪いな。私だ」


 ヨルシャミに抱えられている。

 そう把握した伊織は途端に真っ赤になるともがくように腕から逃れた。

「ななななんで僕を助けるのさ!?」

「イオリだからな」

「ホント何なのその理由!」

 伊織は地面に着地したリーヴァに駆け寄りながら理解不能といった顔をした。それを眺めるヨルシャミにニルヴァーレが耳打ちする。

「あのまま確保しなくて良かったのかい」

「今離脱しても上手くいかぬ。見ろ」

 ヨルシャミが視線だけで指した先。

 静夏やリータたちが善戦している向こう側に様々な魔獣が見えた。

「なぜ突然湧いて出たのかはわからんが厄介だ。お前たちにとっても不足の事態なのであろう?」

「そうだね、……けれどこのままじゃ更に悪化するのは目に見えてる」

 ニルヴァーレは新たな風の鎌を用意しながら言う。


「オルバートたちはここで人工的な世界の穴を作る気だ。イオリを使ってね」

「――正気か!?」

「あいつが正気だったことなんて……」

「……ないよねェ」


 真後ろから会話に混じる声がした、と把握するなりニルヴァーレの肩に手が置かれた。

 その手から視線を上げるとモスグリーンの髪が風になびいているのが見える。それは笑みを消したシァシァだった。

「穴を開いて聖女たちに隙を作る。良い案だと思うヨ、あァ、良い案だ。……ケド」

 シァシァはニルヴァーレとヨルシャミを見下ろしながら問う。


「伊織を使うっていうのはどういうことだ?」

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