第299話 ミュゲイラの『贅沢』
セトラスは元々本部でも自室から出ることを好まない。
しかしここしばらくは並行して行なっているプロジェクトや聖女一行の件で連携を取りながら進めなくてはならないことが多く、結果的に共有スペースで時間を過ごすことが増えてきた。大分煩わしいが仕方ない。
不死鳥の件はシェミリザとシァシァが担当しているため、こちらにお鉢が回ってくることはなかったのが幸いだ。
(パトレアの脚の調整もしたいところですが……)
調整は少しずつ進められるものではなく、纏まった時間が必要なためもう少し先になりそうである。
そのうちパトレアに泣きつかれそうだなと思いながら、ヘルベールに資料を渡しに行った帰りに休憩室で水を飲んでいるとシェミリザが入ってきた。
「あら、あなたが自分から何かを飲んでるなんて珍しいじゃない」
「気分転換に水くらいは飲みますよ。そっちこそ休憩室に来るなんて珍しいですね」
シェミリザは大抵オルバートの傍にいるか、私室もしくは『誰かに呼ばれた先』にいる。移動中ならともかく、こうして休憩室に自分の意思で訪れるのは珍しかった。
シェミリザはくすくすと笑う。
「私も気分転換に普段と少し違うことくらいしたくなるの」
「どうだか……」
「本当よ、ここしばらく洗脳魔法の調整にかかりきりだったから肩が凝っちゃって」
そう口にしたところで、シェミリザは「あ」と小さく声を漏らした。
そしてまったくの思いつきといった様子でセトラスに言う。
「ねえセトラス、ひとつ頼み事をしてもいいかしら」
「忙しいので却下です」
「もう、話くらい聞いてよ」
シェミリザはわざわざセトラスの隣に座ると足を組み、そして声を潜めて耳打ちをした。
迷惑そうな顔をしながらも一言一句しっかりと聞いた――聞かされたセトラスは眉根を寄せる。
「それ、意味あるんですか」
「確率は上げておいた方がいいでしょう? きっとオルバも同意してくれるわ」
「……」
セトラスは眉間のしわはそのままに考える。ここで断ったところで何度も頼みにきそうな予感がした。
なにせシェミリザが頼んできたのは技術的にセトラスが一番適任だからだ。
『それ』はシェミリザ本人にも出来るのだろうが、精度を上げるならセトラスが担当すべきである。そう本人でさえ思うことだった。
溜息をついたセトラスは脳内で予定の整理をしながら「わかりましたよ」と嫌々答える。パトレアに泣きつかれる可能性が上がった気がした。
シェミリザが尖った歯を覗かせて「いい子ね」と笑ったところで――休憩室にオルバートが入ってきた。
彼が現在よく使用しているラボから近い休憩室のため、こちらはそう意外でもない。
「二人とも休憩かい。不思議な取り合わせだね」
しかしオルバートにとっては『意外』が二つ同時に見えたも同然らしく、目だけ何度か瞬かせてそう口にした。
手は勝手に動いているといった雰囲気でコーヒーを淹れている。
シェミリザはセトラスに頼んだ件をオルバートにも話し「ああ、いいんじゃないか」という返答を貰ったところで「そういえば」と視線を上げた。
「オルバ、あの子を洗脳するとしてどの程度までするの?」
「というと?」
「封じる記憶の取捨選択、手を加える記憶の取捨選択、その二ヵ所はある程度調整できるから希望があるなら聞いておこうと思ったの」
こういうのってヒアリングが大切でしょう? とシェミリザは渦巻いたツインテールを揺らす。
オルバートはしばらく考え、そしてその間に完成したコーヒーを手に二人の向かいに座ると口を開いた。
「なら、そうだな……少し酷いことをしよう」
シェミリザは首を傾け、セトラスは眉根に力を込めるのを一瞬忘れる。
目標さえ達成できるなら後はお任せ、ということが多いオルバートにしては少し珍しいことだ。
「聖女について色んなデータが欲しいからね。あの息子を使うのは揺さぶりをかけて普段見られない彼女のデータを取る、というのが主目的だ。平常時のデータはそれなりに揃いつつある」
「ええ……たしかに、如実なデータの差が出るほど心乱すことがあまりありませんからね、あの聖女は」
少なくともナレッジメカニクスが観測している最中には動揺することはあっても錯乱や我を失うといった様子はなかった。
転生者の力は各人によるが、感情の動きによって変わる場合もある。それを確認したいのだろう。
何の役に立つのか、そんなことはナレッジメカニクスでは関係ない。
知りたいから知る。やりたいからやる。それが信条だ。
「そういうわけだから、シェミリザ。彼の仲間の記憶は封じて母の記憶だけは改竄にしてくれるかい。敢えて敵対させるために心から嫌わせてみよう。愛するものが敵に回るだけでなく心から嫌ってきた時のありとあらゆる身体データ、魂の様子、言動、行動、すべて記録しておきたい」
随分ご執心だなとセトラスは片目を細める。
好奇の対象にオルバートは容赦がないにしても、これはこだわりが強すぎる気がした。
普段は研究テーマそのものに執心するが、今回は一つの対象に絞って執心しているのだ。セトラスはそう気がついて余計に不思議な気持ちになる。
「……熱中期が近いんですかね」
思わず小さく呟いたその言葉はシェミリザにだけ伝わったらしく、彼女は隣で――こちらも珍しく、本心からの言葉を漏らした。
「さあ――私にもわからないわ」
***
どこをどう走ったのか覚えていない。
覚えていなくても今はいい気がした。迷子になって部屋に帰れない、その方が皆と顔を合わせなくて済む。
ミュゲイラはひと気のない階段の踊り場を見つけると、その隅に座り込んで呼吸を整えた。
静夏にもシエルギータにも失礼な態度をとった気がする。それは身分によるものではなく普段から行なっている対等な人と人とのコミュニケーションにおける失礼さだ。もっと真摯な態度で断るべきだったのではないか、と二人に対して思う。
(っつーかさー、ここまでショック受けることじゃないはずなんだよなー)
そう頭を抱えて丸まっていると――靴音が耳に届いた。
のろのろと顔を上げると、下り階段に立っていたのはバルドだった。その姿を見つけてミュゲイラは笑う。
「よく見つけたなぁ、バルド。わりと走ったつもりだったんだけど」
「マジでめちゃくちゃ走らされて死ぬかと思った……いや死なないんだけどさ……」
呼吸を整えながらバルドはミュゲイラの前まで歩いていく。
「それはともかく、大丈夫か?」
「何がだ?」
「どう見てもショック受けてたろ。あの時の真っ青な顔、多分静夏からは見えてないけど俺はモロだったぞ」
うぐ、とミュゲイラは閉口した。
バルドは完全にミュゲイラが静夏の発言にショックを受けたと思っている。そしてそれは間違いではない。
つまりここでどうはぐらかそうが、すでに現時点でボロが出ているのである。
唸った末にミュゲイラは自分の膝の間に顎を置いて言った。
「……まあ、図星だ。隣に居られるだけでよかったんだ、なのにこんなショック受けちゃってさー。あたし、いつの間にかめちゃくちゃ贅沢になってたんだな……」
姉御と呼び親しんで、こうして旅に同行して、時々好きな相手の役に立つ。
それだけでミュゲイラは満足していたが、先ほど静夏の口から「伴侶ではない」と当たり前のことを聞いただけで胸が締め付けられるかのようだった。当たり前のことだからこそ、その事実が余計に苦しさを後押ししているかのようだ。
そう、いつの間にかミュゲイラはちゃんと静夏からも想いを返してほしいと思っていたのである。
一方通行ではない関係がいい、と。
それは至極贅沢なことのように感じた。なにせ今まで静夏から親愛は返されど、それ以外のものはなかったのだ。
わかってはいた。わかってはいたが、あちらは何とも思っていない、というのが今回はっきりとしてしまったかのようで、それに対して湧いた荒波のような気持ちを持て余して逃げ出してしまったのだ。
情けなくてミュゲイラは今の自分を誰にも見てほしくなかった。
それでも話したのはつらかったからだ。
「いや、贅沢でも何でもないだろそれ」
「……へ?」
落ち込んだ気持ちになっていると、心から不思議そうな声で言ったバルドの言葉にミュゲイラはきょとんとする。
バルドは「いやいやいや」と手を横に振りながら言った。
「伴侶っていうのはさ、これからも一緒に生きていきたい奴のことだ。好きだからどうしたいか、っていう選択肢は人によるけどさ、そこで『その人と伴侶になりたい』って思うのは普通のことだろ? 贅沢じゃない」
普段からは考えられないほど真剣な声でバルドは続ける。ミュゲイラには絶対に聞いてほしいと目が語っていた。
「それにミュゲイラ、お前がそれを贅沢だって思ってるってことは、だ。静夏に贅沢言っちゃだめだって思ってるってことだろ。そんな遠慮の仕方してたら普通に隣に並び立つことすら無理だ」
「けど……」
「俺は」
バルドはほんの少し声に力を籠め、自分自身にも言うように言葉を発する。
「俺は、はっきり言えるぞ。――全部に惚れ込んだ静夏と一緒になりたいってな」
ミュゲイラは自分では口にできなかったことをいとも簡単に口にしたバルドを見上げた。
いとも簡単に――いや、バルドもよく考えた上で覚悟を持って口にしたはずだ。同じ想いを持っているからこそミュゲイラにはわかる。
バルドはにっと笑うと焦げ茶の双眸を緩く瞼で隠して言った。
「お前もちゃんと口にしてみろよ」
「あたしも……?」
「静夏なら聞いてくれる。……そうだろ?」
バルドがそう言いながら一歩退くと、体に遮られて見えなかった死角から静夏が姿を現した。目を丸くするミュゲイラの前で静夏はゆっくりと階段を上り、そしてバルドとミュゲイラをしっかり見据えて言う。
「……私からも頼みたい。きちんと聞かせてもらえるだろうか、ミュゲ」
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