第300話 心に遺るもの
「あたしは……」
ミュゲイラは震えた声でそう言い、しかし続けるべき言葉が見つからない様子で下を向いた。
緊張か、それとも本心は「言いたくない」と思っているのか、喉の圧迫感で声が出ない。
バルドの言う通り静夏はミュゲイラの話を聞いてくれるだろう。もし何日かかってもきっと最後までしっかりと聞いてくれる。それは伊織にも受け継がれた彼女らの善性の一つだ。
ミュゲイラはそんなところも大好きだった。
しかし、そこから先に出されるであろう答えは静夏が一人の人間として考えたもの。
同じだけの想いを返してあげるべきだから応えてやろう、なんてことにはならないし、なってほしいとも思わない。
(もし、もし今はっきりした拒絶をされたら、きっとあたしはまた……)
逃げてしまう。
だが、普段なら相手が逡巡していれば「無理に答えなくてもいい」と言う静夏がじっと黙っているということは、それだけミュゲイラの返答を聞きたいのだろう。
もしくはミュゲイラが本当は話したがっているように見えるか。
「……」
ミュゲイラは自分がどうしたいのか考えた。
(姉御が聞きたいと思ってくれてるなら叶えたい。それに……)
やはり、話したいのではないか。
聞いてほしいのではないか。
今後ずっと抱えておける気持ちではないと気づいてしまった。ここで逃げても何もいいことはない。
ミュゲイラはふと妹の顔を思い浮かべた。
(……リータはずっとイオリのことが好きだったのに、それが叶わなくなっても楽しもうとしてた)
それがどれだけ強かなことだったか、今のミュゲイラは前よりも更によくわかる気がした。
姉らしいことは何もできていないが、今この瞬間、そんな妹の強かな部分にだけは負けてはならないような、そんな気持ちが湧いてきたのはきっとこう思ったからだ。
姉として負けていられない。
妹に見合う姉でありたい、と。
ミュゲイラは自分の鼓動の音に耳を澄ませ、それがほんの少し和らいだところで壁伝いに立ち上がる。階段の踊り場にある窓から射し込む魔石灯の明かりが眩しく感じた。その明かりに照らされながら口を開く。
「あたしは姉御のことが好きです。最初に会った時に口にしたものと、今こうして口にしてるものは全く同じもので……多分これからも変わりません。でも旅をしている間に好きな部分は昔よりもっと沢山増えました」
黙って聞いている静夏の目を見る。
橙色の瞳には拒絶も不快感も浮かんでいない。ああ、ちゃんと聞いてくれてるんだ、と感じながらミュゲイラは言葉を続けた。
「姉御にはイオリのこともあるし、使命もある。だからあたしは姉御の傍らで役に立てるだけで満足だったんです。想いに応えてほしいなんて言ったら困らせるってわかってたし、それは本望じゃない。なのに……」
いつの間にかそれだけでは満足できなくなっていた。
自分の想いが相手を困らせるかもしれない、ということはミュゲイラにとっての本望からはかけ離れたこと。
だというのに心を制御できないことが情けなかった。
しかしバルドが真正面からかけてくれた、それは当たり前であり贅沢なんかじゃないという言葉に救われたのだ。
初めは胡散臭い女好きだと思った。
一目で敵だと判断し、好戦的な態度を取ってしまった。
そのうちバルドの想いも本物で、同じ人間を好きな者同士仲良くしようという誘いも悪いものじゃないと感じるようになった。
そんなバルドがこうして助けてくれたのは、旅の仲間というだけでなく、恋の仲間でもあるという証のような気がした。
その後押しにも応えたい。
ミュゲイラはそんな一心ではっきりと口にする。
「あ……あたしも姉御と一緒になりたいって思うんです。伴侶になるなら姉御がいい」
それがあたしの気持ちです、とミュゲイラは言い終えると震える唇を閉じた。
静夏は柔らかく息を吐くとひとつ頷き、ミュゲイラの頭を優しく撫でる。
「話してくれてありがとう、ミュゲ」
手つきに違わない優しい声音。この後どんな答えが待っていようが、ミュゲイラはそれだけで泣きそうなくらい嬉しかった。
静夏はミュゲイラとバルドを交互に見る。
「私は――自分にそんな感情を向けてくれる人がいるとは思っていなかった。初めは、な」
「初めは……?」
「ミュゲからの好きもバルドからの好きも、一過性のものか賛辞の一種か……そういったものだと思っていたんだ。真摯に向き合っていなかったと今では後悔している」
「それは静夏の自己評価が低すぎるからだろ、自分を恋愛的に好きになる人間なんかいないって思ってたわけだし。俺は本当に良い女にしか良い女って言わないし、惚れた奴にしか惚れたって言わないぞ」
バルドの笑い交じりの声に静夏も笑みをこぼす。
「ああ、……共に旅をするうちに、これは本心からなのではないかと思うことが増えた。しかしそれを自覚してからは自ら一歩引いて見ていたんだ」
「……理由、聞いても大丈夫っすか」
ミュゲイラにこくりと頷き、静夏は己の胸元を握った。
「私は未だに夫のことが好きなんだ」
凄惨な事故で死んだ夫、織人。
彼の死を知ったのは電話でだった。眠る伊織をどうにかこうにか近所に預け、病院に走ったことを今でも覚えている。走るなんて随分と久しぶりのことで、五分と経たずに発作が起こりそうになって苦心した。
ようやく辿り着いたタクシー乗り場で車を拾い、病院に向かう道中に「今まで織人さんと伊織はこんな気持ちで病院に向かっていたのだろうか」と思い知ったが、これも現実逃避の一種だったのかもしれない。
今までは自分のいる病院に来てもらうことはあれど、自分から誰かいる病院に向かうことはほとんどなかった。
その体験の恐ろしさを、院内で対面した夫の変わり果てた――しかし面影がそこかしこに残っていて目が離せない姿を、泣き叫んだだけで体調を崩した自分への怨嗟を、慣れない葬式の準備を、焼き場の香りを、がらんとした我が家を、伊織に感じた織人の残滓に泣いた日々を、今でもはっきりと覚えている。
それと一緒にいつまでも忘れられないでいたのが、織人への想いだ。
「体が弱く人並みの交流さえ満足に行なえない私を想い、支えてくれた人だった。この気持ちを忘れてしまったら、……上書きしてしまったら、そこで織人さんが消えてしまうような気がしていたんだ」
転生したことで形見や彼の墓はもはや手の届かないところへ行ってしまった。
こちらへ持ってくることができたのは気持ちだけ。
だから余計にこだわっていたのかもしれないな、と静夏は瞼を伏せる。
「……しかしこのままではいけない、と思う気持ちもずっとあった。それを特に強く認識したのがついさっき……伊織とヨルシャミの話を聞いてからだ」
大切な大切な息子がパートナーを得て、そして自分の足で自分の道を歩もうとしている。
伊織が自分を鍛え、一人で仕事をしてみたいと言い出した頃から感じていたが、彼は一人立ちしようとしているのだ。
少し成長を急いているような――その行動の真意はわからないが、静夏は伊織を後押ししたいと思っている。
そんな息子が前に進もうとしているのに、自分が停滞したままなのはどうなのか。
「織人さんはもういない。だからこそ、私も前に進まねばならない」
「静夏……」
「まだここで答えは出せないが――二人について受け止め、よく考えたいと思う。時間をもらってもいいだろうか」
バルドはニッと笑って頷く。
「おう、静夏が嫌でなきゃ頼む! な、ミュゲイラ!」
そして拒絶を返されずぽかんとしていたミュゲイラの背中をぽんぽんと叩いた。
「あっ、う、うん! はい! あたしも! 宜しくお願いします!」
拒否ではなくちゃんと受け止めて考えてくれる、その夢のような話に未だ思考停止しつつもミュゲイラは連続で頷く。
結局断られるかもしれないという不安はそのままだというのに、なぜか沈んだ気持ちにならない。
それは静夏が前向きだからだろうか。
(あー……好きな相手の迷惑になってないのが一番嬉しいんだな……)
それを自覚し、ミュゲイラはほっとしながらバルドを見ると、まるで小さな少女のように笑った。
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