第3話 奴隷
弘志の苛立ちを感じとって、店員は肩にかけた手を引く。
「娘が大変な時によくもあんな事が言えるるもんだ。変な宗教にかぶれて家庭をめちゃくちゃにしたくせに、ああ、腹が立つ」
弘志の怒りがエスカレートしていく。店員は赤い目をした沙羅を気遣ってメニューを見せた。
「沙羅ちゃんは何がいいかしら?つわりがひどい時はこってりした物食べたくないでしょ、冷製パスタはどうかしら?それとも今日は肌寒いから特別に何か作りましょうか?」
「そうだった、沙羅、ごめん。君はやっぱり気が利くね。さすがだよ」
弘志は店員を褒めて、沙羅が食べられそうな物を頼むと言った。弘志に笑顔でうなずき、厨房へと入っていく店員。弘志との馴れ馴れしい態度に沙羅は首を傾げる。弘志は一つ咳払いをしてかしこまった顔で沙羅を見た。
「……沙羅、お前に話しておきたい事がある。こんな時に申し訳ないがせっかくの機会だから。いいかな?」
「さっきの
「彼女は朝田真美さんといってこのお店のオーナーなんだ。年はちょうど一回り下だ。まだ籍は入れてないんだ。沙羅や双樹に会ってからの方がいいって真美が、真美さんが言うもんだから」
弘志は真美と呼び捨てにしてすぐ言い直した。沙羅は聞き流すふりをし、俯く。久美子に拒否され、父親にも二度捨てられた気がする。今は結婚前に妊娠したふしだらな娘だと叱って欲しかった。もう娘として接していない父親にふつふつと怒りが沸いてくる。もうあの人の話は聞きたくない。
「……お父さん、私ね、お父さんが家を出て行ってからお母さんの奴隷だったんだよ!」父の気を引くために奴隷というワードをあえて使う。
弘志は少し動揺している。朝田真美との不倫がばれて、離婚は弘志の方から切り出した。すでに夫婦関係は破綻していたので、簡単に離婚が成立した。
「……奴隷ってどういう事だ?養育費も毎月振り込んでいたし、貯金も慰謝料も渡した筈だ。お金に困るような事はしていない」
久美子からかなり罵声を浴びせられたが、弘志は子供たちのために経済的に困らないようにしたはずだった。なのに奴隷とはどういう事だろう。無理やりアルバイトでもさせられたのかと沙羅に問う。
「お父さんは気楽なものね。私たちにお金さえ渡せば自由になれたもの。私はお母さんの精神的な奴隷だったの!何も自由がなかったんだよ!」
自分でも驚くほどの声で弘志を責めていると、朝田真美が近づいてきた。
「沙羅ちゃん、今とびきりのドリアを作っているから待っていてね。大丈夫よ。コレステロールの低いチーズを使っているから」
その後も、塩分を控えているとか、妊婦はまずたくさん野菜を摂らなきゃだめとかうるさいくらいに沙羅に言った。眉をひそめる沙羅に気付くと、
「ごめんなさい、私子供生んだ事がないのに色々でしゃばって。どうしても沙羅ちゃんに丈夫な赤ちゃんを産んで欲しくて。弘志さんから話を聞いて自分の事みたいに嬉しくて!」
朝田真美は今年四十二才だという。一度結婚したが子供が出来なくて離縁されてしまったと悲しげに言った。
「今時、子供が出来ない理由で追い出されるなんて、悔しかったな。すごく辛くて、でも弘志さんとの間には出来たのよ。流産しちゃたけど」
もし、この人が子供を生んでいたら沙羅と十六歳離れた弟か妹がいた事になる。沙羅は、真美に親近感を覚え、哀れな人だと感じた。少なくても朝田真美は父親との事は本気らしい。弘志も真美を大切にしているのが伝わってくる。
「……お父さん、あの頃はまだ子供で何にも分からなかったけど、どうして離婚したの?教えて。どうして不倫なんかしたの?それを聞かないと、私自身が前に進めない気がするの」
久美子は夫が家を出てからもっと宗教にのめり込み、沙羅を縛った。久美子の奴隷として沙羅は多感な高校生活を無駄にし、専門学校にも行けなかった。そして望まない妊娠もこの朝田真美のせいではないか、朝田真美と不倫した弘志のせいではないか、不倫に走らせた久美子のせいではないかと思った。
「……双樹を呼んでから話そうか?」弘志は覚悟を決めたように呟く。双樹は高校を卒業した後、寮のある職場で働いている。そう簡単には仕事を抜け出せないだろう。沙羅は私が兄に伝えるからと、朝田真美との出会いから離婚までのいきさつを話すよう父親に促した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます