第7話

 なんてことをしてしまったのだろう。

 私は勝手に持ち場を離れて工場から逃げ出してしまっていた。

 この仕事を紹介されて二週間。最初はそう難しい仕事ではないと思っていたのだが、日に日にベルトコンベアを見つめるのがつらくなってきた。サボっても自分の首を絞めるだけだとはわかってはいるが、逃げださずにはいられなかった。この気持ちはいったいなんなのだろう。

 コンビニへご飯を買いにいく気力もなく、橋の欄干にもたれかかり、水の流れを眺め、私は考える。なぜ私はこうも不安定で脆いのだろうか。気分が落ち込むにつれ少しずつ視線も下がっていく。数メートル下の水面に目をやる。冷たそうな水が流れている。水面に日光が反射してゆらゆらと揺れている。水はなんて自由なのだろう。魚はなんて軽やかに泳ぐのだろう。羨ましく思う。入ってみたい。自然に手すりに足をかけていた。

 「ちょっと待ったぁ!」

 「高峰先生!?」

 高峰先生は私のメンタルの担当の先生だ。以前私が鬱のような状態のときに診てもらったのが縁でそれから仲良くしていただいている。

 「たまたま通りかかってよかった……。急に飛び込もうとするなんて……。なにかあったの?」

 はて、私はなぜ飛び込もうとしたのだったか。先ほどまでの思考の発端を思い出す。

 「……お腹がすいたから?」


*****


 気付けば私はファミレスで値段を見ずに料理を注文し、チキンをむしゃむしゃと頬張っていた。

 「で、なんで飛び込もうとしてたの?」

 お腹もいっぱいになり幸せになったところで向かいの席に座った先生が口を開いた。私の前に並んだ大量のお皿とは対照的に、先生の前には料理はなく、セルフサービスの水だけだ。

 私は誠意をもって正確な答えを返したいのだが、どうしても言葉にできない。

 「……なんでなんでしょう」

 漠然とした不安?みたいなの?うまく言えない。寂寥感?なんだろう。

 私の口はいつもそうだ。穴の開いた桶のようなもので、頭の中にあるものをうまく吐き出してはくれない。

 「少しずつ。時間がかかってもいいから口に出してみて?」

 「うーん……。」

 私は私自身の操作がうまくいっていないような感じがある。私は働きたいのに、体がそれを拒否する。足におもりがついたように外へ出たくなくなる。頭のネジが数本足りないような気がする。

 そのように話すと先生は困ったような嬉しいような顔をした。

 「なんですかその顔」

 「いや、きみがいま辛いのはわかるんだけど、前よりよくなっていると思ってね。以前私のところに来たときのきみは自分で考えるということが難しいようだった。でもいまは分からないなりに自分のことを考えることができるようになっている。これは成長だし、前進だよ。」

 「そ、そうですか……、でも私は結局仕事から逃げ出してしまったんですよ。」

 「何度も言わせないでくれ。君はまだものごとをネガティブに考える傾向が強いかもしれないが、それができるだけでも十分に偉い。」

 「で、でも……。」

 まだこの問答を続けようとさらに口を開いたとき私の鞄のなかの電話が鳴った。

 「おーい、アイくん、いまどこにいる?」

 「え、あ、博士!?」

 間違いない。私が聞き間違えるはずがない。博士の声だ。

 「すみません、私、逃げ出してしまって……。」

 「それはいいの。高峰先生から無事だって聞いたから。無事でなによりだよ。」

 聞いていて落ち着く声。人工知能搭載ヒューマノイドインターフェイスである私の生みの親である博士の声だ。

 「君に謝らなければならないことがあるんだ。」

 「な、なんですか?」

 「今回、君が逃げ出すことを期待してわざとあの仕事場へ向かわせたことと、高峰先生に君を尾行させていたことだ。」

 どういうことなのだろう。私が逃げ出すことを想定していた?

 「新しく君につけた感情回路が正しく動作するかどうかのテストをしていたんだ。君が辛い思いをすることを承知で。」

 あまり頭が追い付いてない。穴の開いた桶はまた思考とは違う言葉を汲み出した。

 「えっと、逃げ出すような感情の方が正しいんですか?」

 「そっち?いや、なんでも人間に従順に従うようなロボットでは困るっていうのが私の持論なんだ。君たちが自分で考えて様々な思想を持ってくれないと我々人類は進化しない。いつかきっと想像の壁にぶつかって頭打ちになってしまう。だから君に今まで以上に感情回路を増やしたんだ。」

 勘定だけで動かないように?と高峰先生が小声で呟いたのが聞こえたが無視しよう。

 「で、いまどこにいるんだっけ?」

 「え?ていうか私にGPSとかつけてないんですか?」

 「私はあなたに人の心を付けようとしているんだよ?そんなあなたにGPSをつけるなんてとんでもない!いや、心配ではあるんだけどね。で、どこなの?」

 「川の近くのファミレスです。ええ。そこです。わかりました。はい。失礼します」

 電話を切ると同時に先生が話しかけてきた。

 「博士はなんて?」

 「いまからこちらにいらっしゃるそうです。」

 「なるほど?じゃあここの代金は私持ちじゃなくなったね。すみませーん、ワインとピザとチキンとエスカルゴとアーリオオーリオひとつずつ!」

 先ほどまで水のみで我慢していた先生が立て続けに料理を注文するのを見て、私はなるほどこれが人間らしさか、と苦笑するのであった。


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