第25話 初姫
それから、ひと月が過ぎた頃、旅に出ていた蓮之助が、一人の若い女を連れて帰って来た。
「蓮之助様、そのお方は?」
出迎えた華が、市女笠を被った女の顔を遠慮がちに覗く。
「道中、盗賊に襲われていたのをお助けしたのだ。一晩止めてやってくれ」
「只今すすぎをお持ちします。どうぞこちらへ」
上がり框に腰を下ろした女が笠を取ると、気品のある美しい顔が現れた。だが、彼女はツンとして、礼の一つも口にする事は無かった。
華が、客間に案内してお茶を出した時、女が口を開いた。
「われは蓮之助が気に入った。蓮之助をわれにくれぬか?」
「えっ!」
とんでもない話を切り出された華は、一瞬戸惑いを見せたが、次の瞬間には鋭い目で女を睨んでいた。
「何と申されました? 蓮之助は我が夫、戯言はおやめください」
冷静さを装ったつもりの華だったが、その言葉には怒気が含まれていた。
「戯言ではない。盗賊に襲われた時のあの強さ凛々しさ、われは蓮之助に心を奪われてしまいました。柳生蓮之助にはわれこそ妻に相応しい、其方のような卑しい身分では釣り合わぬとは思わぬか」
女は顔色も変えず、言いたい事を言って来る。
「何と無礼な。蓮之助様と私の中に、貴女の入る余地などありませぬ!」
華は叫ぶように言って、小走りに部屋を出て行き、蓮之助の居る部屋に駆けこんだ。
「華、どうしたのだ?」
興奮している華を見て、蓮之助が怪訝な顔で聞いた。
「あの御方ったら失礼なんですよ。私に蓮之助様をくれと仰るのです。それに、私は身分が低いから貴方に相応しくないと言うのです」
華が悲しそうな目を蓮之助に向けた。
「ほう、人の世話になっておいて失礼な言いようだな。身なりや言葉使いからして、何処かの我儘姫だろう。気にするな」
「まあ、どこの誰かも分からずにお連れになったのですか?」
「難儀を助けたところ、泊まるところも無いというのでお連れしたのだ。一度話を聞いてみよう」
蓮之助は、すっくと立って客間へと向かった。
彼が客間に入ると、女の顔が緩んだ。
「何か入用の物があれば、遠慮なく申されよ」
「では、そなたが欲しい」
「戯言を申されるな、世話になっておいて失礼であろう。そもそも其方は何者なんじゃ」「われは山之内一豊の娘、初じゃ。われは心底其方の妻になりたいと思うておる。戯言などではない」
「ほう、あの山之内家の……。
初姫様、柳生家は剣に生きる家柄。その妻は、いざと言う時、命懸けで戦う同志でなければ務まりませぬ。初姫様にそれが出来ますか!?」
蓮之助が厳しい口調で、初姫に迫った。
「……」
「蓮之助に弱い妻はいらぬ。剣の試合で我妻に勝ったら、貴方を娶りましょう」
蓮之助は、自分より下だと思っている華に打ち据えられれば、この傲慢な女の鼻っ柱もへし折れるだろうと、一計を案じたのである。
「われとて、剣の修行はしておる。あんな女子に後れを取るものか!」
我儘姫の顔が嫉妬に歪んだ。
次の朝早く、福丸が三人の土佐藩士を連れて帰って来た。
「柳生様、この度は姫を助けて下さり、かたじけのうございます。拙者は土佐藩の姫の守役で立花主水と申す者です。姫と逸れてしまって難渋しておったところ、福丸殿から姫の居場所を聞き、駆けつけた次第です」
福丸は、蓮之助の指示で、助けた女の供の者を探していたのである。
蓮之助は、昨日からのいきさつと、今日、華と初姫が試合をする事になった事を立花主水に話した。
「奥方はお強いのですか?」
「私ほどに強いです」
蓮之助が事も無げに言うと、立花主水の顔色が変わった。
「蓮之助殿。奥方に、手心を加えるように言ってもらえまいか。あの様に我儘なれど、姫は姫、打ち据えられては……」
「そこのところは華もわかっていよう。ただ、かなり怒っていた故、ただではすむまい」
「……」
華と初姫の試合の時刻が来た。華は、着のみ着のままで、家事でもこなすような調子で木剣を持った。一方初姫は襷に鉢巻と仇討ちでもするような出で立ちで気合を入れていた。
「何処からでも打って来てくだされ」
華が右手に木剣を持って、構えるでもなく自然体で立つと、初姫は中段に構えて、華を睨みつけた。
華は涼しい顔で彼女の目を見ていたが、突然、眼光鋭い修羅の顔へと変貌させて、初姫を睨み据えた。
初姫はその眼光に射すくめられると、身体が強張り身動きできなくなった。
汗がたらたらと流れ落ち、息遣いが激しくなった初姫は、終には、白目をむいて気を失ってしまったのである。
「姫様!」
立花主水達が、倒れた初姫に走り寄って抱き起すと初姫の意識は直ぐに戻った。
「あやつは化け物じゃ、化け物には勝てぬ。主水、土佐へ帰りたい……」
初姫一行は駕籠を仕立てて早々に土佐へと帰っていった。
「化け物だなんて、ひどい言い方ですわ」
「いや、このわしでも、あの眼光の前には逃げ出しとうなった。はっはっはっ」
「まあ、ひどい!」
華が、真顔で蓮之助を睨んだ。
数か月後に華は懐妊して、年が明けた二月に元気な男の子を出産した。
旅から帰った蓮之助が、華と子供の顔を見て、顔をほころばせた。
「華、でかした。我が家に跡継ぎが出来たな。何と凛々しい顔じゃ。何と……」
子供の顔を見つめている内、蓮之助の目から大粒の涙が溢れた。
「私も嬉しゅうございます。蓮之助様、この子に名前を付けてやってくださいまし」
「うむ、実はな、子供の事を家康様にご報告したところ、男だったらと言われて、このような名をつけて頂いたのだ」
蓮之助が懐から取り出した書付を開くと、墨痕鮮やかに「家法(いえのり)」と書かれてあった。
「家法。家康様の一字を頂いたのですね、なんと立派なお名前でしょう。大御所様からお名前を頂けるなんてこの子は幸せ者です」
千代の目にも感動の涙が溢れた。
「有難いことだ。華、心して立派な人間に育てないとな」
「はい」
三人の慈顔に見守られて、家法はスヤスヤと寝息を立てていた。
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