第6話・朝飯前の屋起し
文禄五年(1596) 九月六日
朝が明けきらぬうちにすっと目を醒ました。
昨日は慣れない作業をしたために体の節々は痛いが、頭の中はじつにすっきりとしている。
清々しい気分だ。朝の目覚めがこんなにすっきりとしているのは何年ぶりだろう。いつもは酒が残ったどんよりとした目覚めが普通だった。
夜が明けようとしている今の時間は、午前四時頃か。
この時代は時刻を十二支で表わし「刻」と呼ぶ。子の刻、丑の刻などと呼ぶのだ。
つまり二十四時間を十二で分けるから、一刻が二時間だ。夜の十二時前後の二時間が子の刻で一日の時間の始まりで、日の出が卯の刻、昼の十二時が午の刻、日没が酉の刻だ。
時刻が日の出・日没に左右されるために、夏と秋の一刻の長さが違うのが特徴で、便宜上一刻を上中下刻の三つに分けて呼ぶ。
そう言う事を、昨夜甚衛門さんに教えて貰ったのだ。この時代には、必ず十二支は覚えておかなければならない。
だから夏の午前四時の今の時刻は、卯の上刻となるのだ。なかなかピンと来ないな・・・。
夜具を片付け部屋の隅に寄せる。
部屋の奥には、昨夜、志乃さんが強引に置いていった大小の刀が刀架けに掛けられている。
着物をあらためると脇差しを取り、ゆっくりと腰に差し込んだ。
それから正座の姿勢になると目を瞑り瞑想をした。
うん、心気ともに澄み渡っている。
こんな状態は本当に久し振りだ。
あの辛かった毎日も遠い未来の事なのだ。まさに次元が違う。
ここには元の家族の事だけで無く、家や仕事や道具・自分の持ち物、あらゆるものが無い。
もはやそんな事を考えても仕方が無い。
今の俺は体ひとつ、それのみなのだ。
ゆっくりと腰を上げると同時に刀を抜き、右足を一歩踏み込むと水平に胴を払った。
腕を引き付け、上段から切り下ろす。
立ち上がり血振りをする。
そのまま納刀しながら正座の姿勢に戻る。
これが居合一本目の「前」という型だ。
間を取ってから二本目・三本目の型に移る。狭い長屋でも脇差しでなら稽古が出来る。
十一本目「抜き打ち」を終えた。途中では細かな動きを戸惑い、記憶を掘り起こしながら何度も繰り返した。
居合の稽古は、久し振りなのだ。忘れているところもかなりある。
もう一度、一本目から繰り返す。
二回目も何カ所かで戸惑った。
さらに三回目、これはなんとか止ることなく出来た。型に合っているかどうかは自信が無いが、スムーズな動きが出来れば良いのだ。
居合道・正座の部、十一本を三回稽古しただけで大汗を掻いた。
始めた時には暗かった外は、もう充分に明るくなっている。
外では先ほどから賑やかな話し声がしている。早朝から屋敷に訪れた者がいるのだ。
それでは俺も顔を洗おうかと、上がりかまちに置かれた手拭いと薄い木の板を見る。昨夜か今朝がた志乃さんが置いて行ってくれたのだろう。
(うん、・・・これは?)
先端を細く切り分けた木を取って見て、ようやくその用途が分った。
これで歯の掃除をするのだろう、要は歯ブラシだ。歯磨き粉は無いのだろうかと、もう一度見ると手拭いの傍に木の葉に乗せた一つまみの塩が添えられていた。
なるほど・・
異邦人は、こういう日常の事が戸惑うのだ。昨日も屋敷の便所を使ったが、入り口の戸は下半分が無くて、いたしているのが丸見えなのだ。
実にこっぱずかしい--。
瓶の上に板を渡した便所は前に何度も使ったことがある。便を投下後に、いわゆる”おつり”が帰ってくることも承知だ。初弾を投下後に素早く尻を上げることでそれをうまく躱した。
それで悦に入った俺は、ある事に気付いた。
(紙が無え--)
まだこの時代にはトイレ紙が無い。
代わりに葉っぱでも置いてあれば問題は無い。要は野グソと同じ感じだ。
嫌いでは無い。いや結構好きだ・・
だがそこに有ったのは薄い木の板だ。
丁度アイスクリームの芯のような物だ。
どうやらこの板で残り便をこそぎ取るようだ。
使用後の物が反対側の入れ物にある。
(クソベラかよ・・・)
と思いながらも何とか処理を済ませた。あとで手を良く洗ったのは言うまでもない。
+
「おはようござる」と言って人々を掻き分けて井戸端に向かった。
水を汲んで口をすすぎ、塩を付けた木端で歯を掃除する。
今日は青空が眩しい。良い天気だ。どうやら彼らは地震で傾いた建物を何とか出来ないかと相談しているようだ。
「秋山殿、おはようございます」
と、甚衛門さんが現われた。
挨拶を返すと、この者たちは大阪屋敷から手伝いに駆けつけて来てくれた者たちだと紹介を受けた。
一時も早いほうが良いとの大阪屋敷差配の判断で昨夜から夜通し来てくれたのだ。
足軽三名とそれぞれの家の下男三名の六名だ。皆若く、夜通しの強行軍をして来たのにもかかわらず元気があった。
その彼らは、屋敷内の倒壊した建物を見て驚き、傾いた母屋を何とか出来ないかと相談しているのだという。
町全体がこんな状況では大工を雇うことは当分の間無理だ。だが彼らには経験が無いためにどうしたら良いのか話が進まないらしい。
「ならば、私がやりましょうか?」
「秋山殿が、・・・経験がおありか?」
「どうすれば良いのかは解りますので、たぶん・・・」
そう俺は記憶を失っているのだ。そこの所はハッキリと言えないのだ。
甚衛門さんはしばらく俺の顔を伺ってから、決めてくれた。
「それでは頼みます。必要な物は?」
そう言われて俺は改めて母屋を見てみた。幅が八間、奥行きが四間の建物が横から見ると、確かに捻れたように傾いている。このままでは危険な状態だ。
(ん・・・なんだ?)
建物を見て、俺はちょっと違和感を持った。何かが違う・・・
それはすぐに解った。
建物の造りそのものが、繊細な造りの日本建築という俺の頭の中の知識と微妙に違っている。それはどちらかと言えば、大らかな丸太を多用したログハウスのピースエンドピース工法に近い物だ。
(丸太か・・・)
つまり見えている柱の外面が丸太のままなのだ。
それはどちらかと言えば、古代の高床式の建物・倉庫に近い。それに柱と梁や土台の接続に使っているカスガイが目に付く。このカスガイを沢山使った作り方は、繊細な造りとは対極にあると言える。
「秋山さんは、ご存じなかったか、これは陣屋造りと言うのじゃよ」
「陣屋造りですか?」
「うむ、肥前名護屋の城下もこればっかりじゃよ」
「肥前名護屋・・・」
それは朝鮮の役のために秀吉が作った強大な城下町である。辺鄙だった海岸線に突如全国の大名と兵士が集合する大都市が出現したの。現代の俺も見に行ったことがある。
「成る程。戦時の陣屋ですか」
「そうじゃ。小田原の時もそうじゃったが、元々は墨又の一夜城から来ているらしい」
それで解った。
突如、秀吉の居城となる城が建築されたここ伏見は、僅かな期間で何百という大名家が屋敷を建てなければならなかったのだ。
大工どころか、まずは莫大な量の材木が必要だ。材木を各大名家の注文に応じて伐採するわけにはとてもいかない。
然しこの時代にも規格化された建物があるのだ。それは、短期間で建物を建てなければならない戦場の陣地に作る陣屋だ。これだと、規格化された材料で良いのだ。
陣屋は組立・解体が素早く出来なければならない。故にホゾなど日本建築特有の複雑な接合加工など論外なのだ。それがこの建物だ。
しかし、それでも莫大な量の木材だ。一体幾つの山・いや地域を禿げ山にしたのだろうか・・・。
いや、それはそれ。とにかく今はこの建物の復興・つまり屋起し(やおこし:建物をきちんと建てること)だ。それだけを考えよう。
「ロー・・・、いや丈夫な綱と梯子、それに釘と金槌、鋸、大工道具の下げ振り・・それは分銅とそれを吊せる糸があれば代用できます。それと仮筋交いにする板と突っ張り用の柱が必要です。これは瓦礫の材料が使えますね」
「分った。すぐに用意する。お前たちも手伝ってくれ」
甚衛門さんは下男や女衆に命じて、俺は若者らに手伝って貰って、瓦礫を片付けた。
倒壊したのは納屋なのだ。殆どの道具や材料は瓦礫の中に埋もれていた。使える柱や板材の予備もあった。しばらくして準備は出来た。
大阪屋敷からの応援者・六名に、屋敷の山本どのと下男を加えた八名の男達を二手に分けた。
建物に綱を架けて引っ張らせる組と、反対側から柱などで突っ張って止める組だ。そして簡単にやり方を説明した。
皆が配置に付いた。
「準備は良いか」と声を掛けると、
「おおー」と良い返事が返ってくる。
「良いか、引っ張り組は左右で声を掛け合って、同じ様に引っ張るのだ。どちらかが引き過ぎたら良くない。突っ張り組はそれに連動して突っ張るのだ」
「せーの」という合図でギシギシ言いながら建物が起きてくる。まずは短辺側を直す事にした。ねじれが気になるのだ。
「そこで止めよ」
俺の担当は、建物の傾きを見ることだ。
一本の柱に分銅を結んだ糸を吊す。上部の柱と糸の間に木片を鋏む、木片は同じ厚さの物を二つ用意する。糸の揺れを止めて、分銅の所で柱との間が木片と同じになれば柱は鉛直に立っていると言う事だ。
これは、下げ振り(さげふり)という大工道具で、現代でも行なっている基本的な作業だ。
「少し戻せ、ほんの一分(3mm)ほどだ」
「よし、そこだ。そこで良い。この状態で板を打ちつけ固定するのだ」
これを仮筋交い(かりすじかい)と言う。
仮筋交いは何処でも良いという訳では無い。効果的に効く場所と角度。それに人が通る邪魔にならない様にすることも必要だ。
間取りからそれらを考慮して、仮筋交いの板を打ちつける場所を指示する。
板壁がある所は、その壁の内側に入れる。そうすると邪魔にならない。だが二カ所は出入り口に掛かる。そこは仕方が無い、不便だが片側を閉め切りとして使ってもらうしか無い。
建物の短辺側も長辺側も、左右と真ん中の三カ所この作業を行なえば、屋起しは完了だ。
さらにねじれが気になったので、水平方向にも筋交いを入れた。これは火打ち(ひうち)という物で、板を短く切って桁の上に固定する。
次に傾いた門と塀も直した。
門は門柱の片側が陥没していたので、そこを浮かして仮固定した。あとで彼らが石と土を詰めて固めるのだ。
そこまで終えたところで朝飯となった。
「おうち、ちゃんと立ったぁ!」
「本当、これで安心ですわ」
「秋山殿、あなたは普請が得意なのですなあ」
と、一連の作業を見ていた千代ちゃん・甚衛門さんや志乃さんらは、喜びの笑みで感謝してくれた。その顔を見ただけでも俺は大満足だった。
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