踊るように生きろ

@hitsuji

第1話


 ヤバいヤバいとは前から思っていたけど、帰宅した母が乱暴に玄関のドアを閉める音を聞いて、今度という今度こそ本当にもうヤバいかもしれない、と私は思った。

「渚。私、もう本当に無理だから」

 母はそれだけ言うと外出着のまま寝室に入りまた乱暴にドアを閉めた。マンションの近隣住民から苦情がくるのではないかと思うほど大きな音がした。母は機嫌が悪くなるタイミングが少ない人では決してないが、無闇矢鱈に物にあたるような人ではない。それだけに今回のことは相当堪えたのだろうなぁ、と思った。

 父と母の不仲が始まったのは私が小学校の高学年の頃。ひょっとするともっと前から喧嘩はあったかもしれない。いや、おそらくあったのだろう。私が小さかったからはっきりと覚えていないだけだ。娘の私から見ても、二人の性格が根本的に合わないことはよく分かった。父は絵に描いたようないい加減な人間で、何事も優柔不断で、ふらふらと風に流される紙飛行機みたいに生きていた。酒飲みだし。仕事にしたって家族に何の相談もなく何度も簡単に変えてしまい、私は中学を出る頃には父の就職先を覚えることを諦めた。母だってちゃんと把握しているのか怪しい。やらなければならないことをやれない人なのだ。一方の母は面倒くさいくらいに真面目で、とにかく何事もキチンとしていないと気が済まない人だった。それは食器を片付ける位置や、貯金残高のことなんかもそうだし、トイレの蓋を閉めておかないだなんて絶対に有り得ない人なのだ。真面目過ぎる故か、母は自分がやることが百パーセント正しいと思っている。口では否定するも絶対にそう思っている。それはそれでどうかと私も思うのだが、現実的に家のあれこれは長年母が全て一人でやっているので文句は言えない。文句なんて言えば余計にややこしいことになる。しかしそれを父は言ってしまうのだ。

 そんな二人が不仲になるのは必然だと思う。じゃ、なんで結婚したんだよ、とも思うけど、二人が結婚していなかったら私も兄貴もこの世に存在しなかったわけで、それはそれで困る。まぁ、しかしヒヤリとするタイミングは何度かあったものの、そんな不仲でも何とかかんとか家族という体を崩さずにずっと暮らしてきた。私は中途半端に専門学校を中退してしまった親不孝者だが、兄貴は十代の頃は多少グレはしたものの、今は結婚して二人も子供がいるわけで、そういう幸せもありつつ、結局私達は普通の「多少喧嘩の多い家庭」だった。よくある感じだとも言える。でもそれが一週間前、父にそれなりに長い不倫相手がいることが分かって一気に話が変わった。

 寝室に入ったっきり母はもう一時間も出てこない。

 溜りかねて「開けるよ」と言い寝室に入ると、真っ暗な中、母は外出着のままベッドにうつ伏せに倒れ込んでいた。これも母らしくない行動で、いつもの母の感覚から言えば、外出着のままベッドに倒れ込むなんて有り得ないことだった。寝室にはシングルベッドが二つ並んでいる。一床は母が使い、もう一床は十何年か前までは父が使っていたが、今は私が使っていた。私は自分のベッドに腰掛けた。

「相手の女の人、どんな人だったの?」

 どうせいつかは触れなければならない話題だと思い、私はできるだけ軽いトーンで聞いた。

「どうしようもない馬鹿よ」

 母はこちらを見ず、吐き捨てるように言った。その声はいつもの父に怒鳴っている声とはまた違って、噴火した火山から流れ出る溶岩のような、どろどろとした本気の憎悪をイメージさせるような声だった。

「相手は何て言ってんの?」

「分かんない。本当の馬鹿なのよ。話が全然通じないの」

「離婚してほしいとか、そういうこと言われたの?」

「だから分かんないの」

 そう言われてもそれでは私だって分からない。でもこれ以上話すと本気の地雷を踏んでしまいそうだったので何も言わずに寝室を出た。

 スマホの画面が示す22:13という数字の羅列を見ると急にお腹が空いた。そういえば十五時くらいから何も食べていない。いつしか習慣というものを完全に失った私の生活は、軌道を逸れてガーターへ転がっていくボウリング玉のようにだんだんと正解からズレていた。

 冷蔵庫を漁ってみるもほぼ空に近い状態で、仕方がないからカップ麺で我慢するかと思い探してみると、母が好きな激辛ラーメンが大量に買い置きしてあるのを見つけた。「美味しいのよ」と言っていたのは知っていたが、思っていた以上にハマっていたことを知り少し笑ってしまった。

「ねぇ、激辛ラーメン食べるけど、一緒に食べない?」

 私は寝室の母に聞いた。すぐに「そんなもの絶対食べたくない」とまた憎悪の声が返ってきた。

「あ、そう」

 そんなものって、あなたが大量に買ってきたんでしょうが、と思ったけど当然声には出さなかった。激辛ラーメンは思っていた以上に辛かった。一口食べる毎に水を飲むものだから食べ終わる頃にはお腹がたぷんたぷんになっていて、今の行為は果たして「食べた」がメインだったのか「飲んだ」がメインだったのかなんて考えながらシンクに残ったスープを流すと、母が綺麗に保っていたシンクのシルバーを激辛ラーメンの赤が汚く染めた。それを見て、あぁ、これはまさに今の母の心なんだな、と思った。母が何年も何年も苛々しながら何とか保ってきたものをわけの分からない汚れた何かが汚している。怒りたくもなるだろう。乱暴にドアを閉めたくもなるだろう。

 正直今、母にかけられる言葉を私は一つも持ち合わせていなかった。


 翌朝は八時に目が覚めた。私は枕の横で充電していたスマホに手を伸ばし、ゲームアプリを立ち上げる。滞りなく今日のデイリーボーナスアイテムを受け取る。お金のない私にとって課金をせずに手に入るボーナスアイテムはまさに生命線だった。画面には今週受け取るボーナスアイテムが並んでいて、今日の分が「受取済み」に変わる。一週間毎日ログインをしたら今画面に並んでいるボーナスアイテムが全て手に入り、さらにウィークリーボーナスが手に入る。行き先の見えない今の生活の中、唯一間違いのない明確な目標だった。

 ボーナスアイテムを受け取った私はそのまま曜日限定ダンジョンに進み、夜の間に回復したスタミナを使って一週間のうち今日しか手に入れることのできない黄色の進化アイテムを集め始めた。今日中にあと三十個黄色の進化アイテムを集められたら、ずっと一緒に戦ってきたイデオンを進化させることができる。昨夜からそれが楽しみだった。だから明け方近くまで動画サイトを見ていたのにこんな時間に自然と目が覚めたのだろう。

 スタミナを使い切るまでダンジョンを回ったが、黄色の進化アイテムは十三しか集まらなかった。結果から見ると少し運が悪いように思えた。まぁ、いい。今日はまだ始まったばかりだし、スタミナは何もしなくても時間が勝手に回復させてくれる。私は布団を頭から被ってカーテンの隙間から漏れる朝の木漏れ日を遮った。睡眠時間が足りない。しかしいくら自堕落な生活を送っているとはいえ、明るくなった部屋の中ではやはり寝づらかった。ずっと夜でいいのに。何かをするための太陽の光なんて要らない。そんなものがあるから「ちゃんとやる人」と「ちゃんとやらない人」が浮き彫りになってしまうのではないか。私は最近そんなことをよく考える。アイマスクでも買おうか。完全に覆ってしまったら気が楽になるかもしれない。

 結局少しうだうだしていたら割とシンプルな眠気が訪れて眠った。予定なんて何も無い。スタミナが回復するまで死んだように眠ってやろうと思っていたのだが、ディズニー映画の悪役のような意地悪さで普段はほとんど鳴らない家の電話の音に起こされた。寝ぼけ眼でスマホを見るとまだ九時半で、瞬時にイラっとした。誰か出ろよ、と思ったが父はおそらく帰っていないし、空になった隣のベッドと時間から考えると母ももう仕事に出ているようだった。家には私しかいない。布団を被り、無視してもう一度眠ってやろうと思ったのだが、意外と電話の主はしつこく、ベルの音はなかなか止まなかった。根負けした私は仕方なく起き上がりリビングへ向かった。

「はい。藤森ですが」

「あ、朝からすみません。正雄さんはいらっしゃいますか?」

 男の声だった。そして正雄というのは父の名だ。

「いませんけど。どなたですか?」

「あー、いえ、すみません。いらっしゃらないならいいです。すみません」

 歯切れの悪いままに電話が切れた。何なんだよ。私はイラッとして無意識のうちに「死ねっ」と呟いていた。するとトイレの流れる音がして、中から母が出てきた。

「なんだ、いたの」

「電話、誰からだったの? まさかあの女?」

 目の下のクマが凄かった。それは「悩み」からではなく「怒り」からきたクマなのだろうなと私は思った。

「いや、男だったよ。名乗らなかったけど」

「そう」

「あれ、てか仕事は?」

「今日は休んだの」

 何となく「悪い?」というようなトゲのある言い方だった。私は「そっか」と、目を合わせないままに頷き、ベランダに出て煙草に火をつけた。空は新品の絵具で塗ったような綺麗な青で、雲一つなかった。どうでもよかった。



 専門学校を辞めたのは昨年の夏で、気がつけば今年もまた夏になりつつあり、つまりはあれからもう一年が経とうとしていた。私は二十一歳になっていた。

 一年間、私は見事に何もしなかった。就職もしなかったし、就職に使えそうな資格の一つを取ることもしなかった。もっというとそんな資格を取るための勉強もしなかったし、そもそも資格について調べることもしなかった。我ながら気持ち良いくらいに何も無い空白の一年だった。毎日だらだらと煙草を吸って、ゲームアプリをして寝て、一時期はバイトもしたがそれもすぐに辞めてしまった。何だか面倒くさくなってしまったのだ。そう考えるとやはり私は父の子なんだなと思う。まったく、似なくていいところばかりが似てしまっている。もし私の性格が母に似ていたら、少なくとも専門学校くらいはちゃんと出ていただろう。なんて今更どうにもならないことを思って現実では何も行動を起こそうとしない。そういうところもやはり父に似ている。

 周りの人が見たら目を細められるような生活。そして問題はその生活が未だに続いていて、まったく終わりが見えないところにある。


 誰もいないリビングでいつものゲームアプリをしていたら父から電話がかかってきた。

「お前、今どこにいる?」

 がやがやとした喧騒の中、もう何日も家に帰っていない父は「こっちが聞きたいことだっつうの」という質問を私に投げてきた。

「家だけど」

「母さんは?」

「いない。仕事なんじゃないの」

「そうか。ちょっと出れるか?」

「何よ。今忙しいんだけど」

 掌の中、先日の曜日限定ダンジョンで集めたアイテムで進化したイデオン改めイデオムンがサンダーボルトを放つ。

「飯食おう。奢ってやる」

 そう言われるとお金の無い私としては弱い。多少面倒ではあったが父の指定した店へ向かう。二駅先の繁華街にある店だった。

 専門学校を辞めてから何となく友達付き合いも億劫になってしまい、ご飯のお誘いなんかもほとんど断っていた。お金も無かったし。そしてそうしているうちにいつしか誘われること自体がなくなった。だから繁華街なんて久しぶりだった。少し緊張する。

 指定された店は聞いたことのある名前のチェーン店の居酒屋だった。店に入ると柱の陰に父の冴えない顔がチラッと見えた。満席の中、向こうも気づいたようで手を挙げて私を呼ぶ。近づいてみると父は一人ではなかった。

「はじめまして。渚ちゃんよね」

 父の隣に座る女性が私に笑顔を向けて言う。パーマをあてた長い茶髪、赤色の口紅、指に挟んだ細い煙草から煙がすっと立ち昇っていて、香水の匂いが少しした。

 私は「渚ですけど」と答えつつ困惑の目を父に向けるも父はすっと目を逸らした。間違いない。この人が父の不倫相手なのだ。

「私、松永茜。呼び方は茜さんにしてもらえるとありがたいなぁ。みんなそう呼ぶから」

 茜さんはそう言って煙草を灰皿に押し付けた。水商売の人に見えた。私は困惑の中、「茜さん」と復唱していた。店員さんがやってきて私におしぼりをわたして飲み物を聞いてきた。それでビールを注文すると、少し冷静になれた。

「どういうこと?」

 私は眉をひそめて父に聞いた。

「お前に会いたいって言うから」と隣に座る茜さんを指差す。

「この人が例の不倫相手なの?」

「待って、不倫相手って何かいやらしい響きよね。彼女とか、もっと優しい表現にできない?」

 茜さんが口を挟んだ。私はイラッとして「どういうつもりなんですか?」と茜さんを睨んだ。

「どういうつもりって、私はただ単に正雄さんの娘さんに会ってみたいって思ったからお願いしただけよ。好きな人のこといろいろ知りたいって気持ち、渚ちゃんにもあるでしょ?」

 何と言えばいいのか分からず、私は店員さんが持ってきたビールを一気に半分近くまで飲んだ。母が「どうしようもない馬鹿よ」と言っていたことを思い出す。馬鹿なのかどうかは分からないが、とりあえず母が一番嫌いなタイプだなと思った。父はまた何故よりにもよってこんな人を選んだのか。そして何故母の言うことは聞かないのにこの人の言うことは聞いて私を呼び出したりしたのだろうか。

 私は溜息をついて「あなた達、これからどうするつもりなんですか?」と聞いた。

「どうするって、別にどうする気もないわよ」

 茜さんがあっけらかんと答える。

「離婚してほしいとかそういう話じゃないんですか?」

「そんなこと言わないわよ。別に今まで通りでいいの。この前奥さんにもそう言ったわ」

「は?」

「渚、茜はね、別に結婚だとかそういうことにこだわってはいないんだよ。ただ何というか、家族とかそういうのとは別に認めてほしいんだよ。お前等に自分という存在を」

 私は「お前は黙ってろ」と言わんばかりに父を睨んだ。

「そうそう。私はあなた達と仲良くしたいのよ。お正月にお節料理を食べたり、春には花見をしたり」

「そんなの、無理に決まってるでしょう」

「そう? ズバッとそう言われると悲しいんだけどね」

「だいたい何でそんなことしたいんですか? 不倫なんだからこっそり会っていればいいじゃないですか。私達を巻き込む必要なんて無いじゃないですか」

「うーん。私はね、その不倫っていうのが何かね、こそこそと悪いことしてるみたいで嫌いなのよ。私は正雄さんが好きで、あなた達家族も正雄さんが好きで、それならみんなで仲良くした方が楽しいじゃない」

 私はビールを持つのと逆の手で顔を覆った。この人はおそらくこれと同じことをこの前母にも言ったのだろう。母が荒れる理由も分かる。理解が追いつかない。

「そんなの、おかしいと思わないですか?」

 私は絞り出すように言った。

「おかしいかもしれないけど、やっぱり幸せになりたいじゃない」

 茜さんはにっこり笑って言った。私は残りのビールを一気に飲み干した。

 その後はもう怒る気力もなくて、私は一問一答のように茜さんの質問に答えていた。

「渚ちゃんは大学生?」

「去年専門学校を辞めました。今は何もしていません」

「へぇ、趣味は?」

「ゲームアプリです」

「うわぁ、今時っぽい。私やったことないわ。楽しいの?」

「楽しいです」

「今彼氏は? いないの?」

「いません」

 よく分からない時間だった。茜さんだけが昼休みの高校生のように楽しそうにはしゃいでいた。父も私がいたたまれなくなったのか無言で煙草を吸い、何を注文するわけでもないのにメニューに視線を落としていた。

「ちょっとトイレ」

 あまりの気まずさに耐えられなくなったのか、父はそう言って席を外した。席を離れていく父の背中。背広のシワが目立った。情け無い人間ではあるのだが、それ以上に情け無く見える。

「あの人、全然帰って来ないんですけど一緒に住んでるんですよね?」

「ううん。住んでないわよ。どっかその辺のホテルにでも泊まってるんじゃないの。それか飲み友達のところか」

「え、そうなんですか」

 ちょっと意外だった。二人はもう一緒に住んでいて、今夜だって「じゃそろそろ」と二人連れ立って帰っていくのだろうと思っていたのだ。

「そうよ。だってうちには息子がいるから。一緒に住むってわけにはいかないわよ」

「息子?」

「そうそう。渚ちゃんと同じ歳くらいかなぁ」

「私二十一ですけど」

「あぁ、じゃあ一つ下だわ。今二十歳だから」

 私は向かいでハイボールを飲む茜さんをまじまじと見た。どう見ても二十歳の息子がいるようには見えない。いったい今いくつなのだろう。気になったがさすがにそれを聞くのは躊躇われた。

「今度紹介するよ」

 茜さんはそう言って笑う。少し酔っ払っているようだった。

「はぁ」

「楽しみにしておきなさい」

 結局閉店時間まで居座った。店を出た茜さんはかなり千鳥足で、「送っていくよ」と父がその肩を支える。私もその方がよさそうだと思った。でも一応自分の立ち位置もあるし私からは何も言わなかった。「渚ちゃん、超楽しかった」と茜さんは強引に私の手を取り握手をしてきた。

 茜さんの家はここから歩いて帰れるほどの距離のようで、父と茜さんは駅の改札まで私のことを見送ってくれた。改札をくぐる私、改札の外で手を振る二人。なんだ結局こうなるんじゃないか。吊革を握り、車窓の外を流れていく街灯りをぼぉっと眺めていると、少し複雑な気持ちになっていることに気づく。最初は父の不倫が原因だろうかと思ったが、違う。私は父のクズっぷりにはもうすっかり慣れてしまっていた。ちょっとやそっとでは動じない。しばらくして気づく。茜さんだ。かなり変わった人ではあるが、私は茜さんのことが嫌いではなかった。父の不倫相手なのに。それで複雑な気持ちになっていたのだ。

 家に帰ると母はまだ起きてきた。母はお酒の匂いに敏感で、すぐに私が飲んで帰ったことに気づいた。

「何よ、飲みにいくなんて珍しいじゃない」

「うん。まぁ」

「お風呂は?」

「いい。明日朝入る」

 私は寝室に入り部屋着に着替えてベッドに倒れ込んだ。母が口うるさいのでいつの間にかどんな時でもベッドに入る時は服を着替える癖がついていた。緊張の糸が切れたのか、横になると急にどっと疲れが出た。あ、でもゲーム、ゲーム、スタミナが回復してるはず、とスマホを手に取りアプリを開くもそのまま寝落ちしてしまった。気がついたら朝だった。



 三日後、冗談だと思っていたのに茜さんから本当に「息子を紹介するよ」とラインが来た。「マジですか?」と私。「マジマジ。明後日の夜空いてる?」と即座に茜さん。さすがに躊躇った。でも結局十分くらい考えた挙句、ただ会うくらいなら別にいいかなと思い、「空いています」と返信する。予定なら地平線の先まで見渡す限り空いている。約束が決まった。

 でもそれから二日間は迷った。やっぱり行かない方がいいのかなと考えた。茜さんと深く関わることに対して罪悪感があった。生活の中、母の何気ない視線や会話が痛かった。そんなに迷うのなら止めてしまえばいいのに、と思うも「茜さんの息子」がいったいどんな人なのか、正直言って興味があった。

 そして結局「まぁ、いいよね」と自分を曖昧に正当化して向かった待ち合わせ場所、彼は不意に現れた。

「もしかして渚さん?」

 ガリガリの長身にセットを失敗したような茶色の長髪、フレームの無い眼鏡。私が言えた立場ではないが、正直言って頭が良さそうな男には見えなかった。そしてその声、どこかで聞いたことがあるような気がした。

「あなた一回うちに電話してきたでしょ?」

「あ、しました。母に言われて」

 そう言って笑う。

「まったく、何で家電にかけるのよ。携帯に直接かければいいじゃない」

「俺もそう言ったけど母さんが、昔はみんな家電にかけてたんだよ、とか言って聞かなくて」

 茜さんらしい。

「どっかで飯食いましょか?」

「あれ、茜さんは来ないの?」

「あぁ、何か店が忙しくて来れないみたいです」

 初対面の二人を置き去りか。これもまた実に茜さんらしい。

 聞けば、彼は車で来ているとのこと。外見的にはどう見ても車好きの人には見えなかったからそれは少し意外だった。そしてパーキングから現れた彼の車はもっと意外だった。やたらと車高が低く、ボディには何かを主張しなければ気が済まないのかのように色とりどりのペイントが施されており、トランクには用途が不明ないかついウイングが付いていた。いかにも「こだわってイジっています」という感じの車だった。

 エンジン音のうるさい車中、「車好きなの?」と聞いてみた。「いや、全然」と彼は笑う。

「その割にはいろいろ改造してるみたいじゃない」

「これ、買った時のままだよ。中古車だから前の人がいろいろイジってたんじゃないかなぁ。よく知らないけど、シルビアって昔走り屋の間で流行った車らしいから」

「そうなんだ。もっと普通の車にした方が良かったんじゃないの?」

「俺もそう思ったんだけどね。選びに行った時、やたらと母さんがこの車を気に入って、これにするなら多少援助してやるって言うからさ。俺、金なかったし」

「へぇ」

 国道沿いのファミレスに入る。あまり流行っていないのか、まだ十九時半にもかかわらず店内はガラガラだった。席に着き、「改めてだけど、松永哲です」と言われて、そう言えば名前を聞いてなかったなと思った。「哲」と私は茜さんの時と同じように復唱していた。私の癖なのかもしれない。

「藤森渚です」

「はじめまして。てか、何かすみません。母さんがいろいろと迷惑かけてるみたいで」

 すみませんじゃすまない問題のような気がするが、こんなところで腹を立てても仕方ないし、そもそも腹を立てているわけでもないし、全て分かったうえでここに来ているのだからその謝罪に対しては軽く「まぁ」と流した。「お腹が空いたから何か食べよう」と哲は提案する。意義無し。私もお腹が空いていた。私は目玉焼きハンバーグに小ライスを付け、哲はミックスグリルに大ライスを付けた上でチーズピザを半分こしようと提案した。「まぁ、いいけど」と答えたもののけっこう多いなと思った。そして会った初日にいきなりピザを半分こしようだなんて言ってくるあたり、やはり茜さんの息子なんだなと思った。

「大学生?」と、哲は茜さんと同じことを聞いてくる。

「去年専門学校を辞めて今は何もしてない」

「へぇ、また何で?」

「何でと言われると何でだろ」

 そんなこともう忘れてしまった。

 哲は「そういうもんかぁ」と言って水を飲んだ。たまたまそこに水があったから飲んでみたという感じだった。

「あなたは?」

「印刷会社の工場で働いてる」

「へぇ、印刷会社。ポスターとか刷ってんの?」

「いや、俺は封入の部署なんよ」

「封入?」

「印刷したものを封筒に入れるんよ。そういう機械があって、俺はそれを回してる。最近の印刷会社は刷るだけじゃ食ってけないからいろいろやるんだよ」

「そうなんだ」

 私がボサッとしている間にも世間はちゃんと動いている。料理が来て、哲はまず最初にチーズピザに手をつけた。それで「どうぞ」とピザを指差して私にも勧める。ピザはその名に恥じないチーズっぷりで、多少しつこくもあったが美味しいは美味しかった。

「何か、趣味とかないの?」

 一瞬の沈黙が気まずかったのか、ミックスグリルを頬張る哲が聞いた。またも茜さんと同じ質問だった。

「ゲームアプリかな」

「へぇ、どんなやつ?」

 私はアプリを立ち上げてイデオムンを見せた。「これ知ってる。俺も前に少しだけやってた」と哲。このゲームアプリはテレビCMもやっているし、その他広告もがんがん打っていて知名度は高い。「すげぇレベル上げてんじゃん」と哲はイデオムンのステータスを見て目を見開く。私は手塩にかけて育てた我が子を褒められたかのような気持ちになり素直に嬉しかった。

「あなたは何か趣味ないの?」

「あなたって何か固いなぁ、哲にしといてよそこは」

「じゃあ哲は何か趣味ないの?」

「俺はライトノベルかなぁ」

「単語は聞いたことあるんだけど何だっけ、それ」

「まぁ、つまりは小説だよ。ちょっとファンタジーというかアニメチックというか」

「それを読むのが好きなの?」

「読むのも好きだけど書いたりもしてる」

「小説を書いてるの?」

 私は少し驚いた。

「一応ね。書いて賞に応募したりネットに上げたりしてる。まぁ、ほとんど自己満の世界だけど」

「へぇ、すごいじゃない」

 褒めると哲は「別に」と目を逸らして照れた。ちょっと可愛いかった。目玉焼きハンバーグに小ライス、そしてチーズピザ半分はやはり私にとっては多かった。私はこの空白の一年ですっかり小食になっていた。動かないとエネルギーも使わない、お腹も減らない。一年でよく分かった。ハンバーグ三分の一とチーズピザ二切れを前に完全に手が止まる。「腹いっぱいならもらおうか?」と向かいで頬杖をつく哲が言う。彼の料理は既に完食済みで下げられていた。私は無言の訴えでうんうん頷く。哲はチーズピザだけでなく私の食べかけのハンバーグまで綺麗に食べた。やはり茜さんの息子なのだ。

「母さんはさ、馬鹿だけどあれはあれで意外と苦労人なんだよ」

 哲がそう呟いたのは帰りの車中。私は満腹の身体を少し倒した助手席のシートに預けていた。窓の外を早送りのように景色が流れていく。

「別に私は馬鹿だなんて言わないよ」

「そう? でも本当、訳わかんないくらいに真っ直ぐだろ?」

「真っ直ぐよねぇ。あの人なら何にぶつかってもぶち破って進めそう」

「でも多分、最初っからああいう性格だったわけじゃないと思うんだよ。ずっとシングルマザーで俺のこと育てて、仕事も思いっきり水商売だしさ。いろいろ苦労もあってああいう性格になったんだろうなぁ、と思うよ」

「シングルマザーだったんだ」

「親父は俺が生まれる前に死んだ。交通事故だったらしい。って言っても不幸な事故ってわけじゃなくて、親父、暴走族だったらしいんだけど、スピード出し過ぎてコーナー曲がりきれなくて事故って死んだらしい。まぁ、自爆だよなぁ。それからすぐ母さんは妊娠してることに気付いて、周りにはいろいろ反対されたらしいけど、結局一人で俺を生んだんだって」

「そうなんだ」

 できればもっとマシなリアクションをしたかったがこれしか出てこなかった。

「で、そこからずっと女手一つ、水商売して俺を育ててきたって話。こうやって口にしてしまうとありふれた話なんだけどなぁ、まぁいろいろと苦労はしたと思う。それで苦労する度に何クソって気持ちになって、いつしかあんな性格になったんだよ。本人が言ったわけじゃないけど、俺はそう思ってる」

 私は頷いた。哲は独り言のように「でもだからって人様に迷惑かけちゃダメだよなぁ」と呟いて頭をかいた。

 噂をすれば何とやらで、私のスマホに茜さんから電話がかかってきた。見られていたのかというくらいのタイミングだったので驚いた。出ると、「二人とも楽しんでる?」とかん高い声。相変わらずテンションが高く、また酔っているようだった。

「今、車です。ご飯食べた後で」

「そう。こちらはやっとちょっとお店が落ち着いて休憩中。ねぇ、私お腹空いちゃって。ラーメンでも食べに行かない?」

「あ、でも私達今ご飯食べたところで」

 そう言いかけたところで運転席から哲が「何て言ってんの?」と聞いてきたので、「ラーメン食べたいって」と伝える。哲は少し笑って、「とりあえず拾おう」と車の進行方向を変えた。

 繁華街のちょうど先っぽ、ネオンが途切れてアスファルトが暗くなるぎりぎりのところで茜さんは待っていた。煙草をくわえて笑顔で私達に手を振る。その姿は無人島で一人助けを待っていた漂流者を連想させた。

 茜さんは「どうもどうも」と笑顔で後部座席に乗り込んできた。どう見ても酔っていた。私はテンションについて行けず「お疲れ様です」と四歩くらい引いたテンションで会釈をした。「どこ行きたいって?」と哲。「ラーメンラーメン」と茜さん。哲は少し欠伸をしてゆっくりと車を発車させた。辿り着いた先はリクエスト通りのラーメン屋で、私はまさか哲の奴、もう一度ご飯を食べる気じゃないだろうなと不安になった。四人掛けの座敷の席に通される。席に座る時、茜さんのミニスカートの奥にピンクの下着が一瞬見えた。それが妙にセクシーで、私は何故だかたまらなく恥ずかしくなった。

「ビールでいい?」

 茜さんが私に聞く。

「あ、はい」

「私、ラーメンと餃子と唐揚げを注文するから適当につまんでよ。ご飯はもう食べたんでしょ?」

「はい」

 私達がご飯を食べた後だということを茜さんがちゃんと理解してくれていたことに安心した。

 茜さんは実に美味しそうにラーメンを食べた。この人のやることには嘘が無い。美味しそうに食べているということは実際美味しいのだろう。それは見ている分には実に気持ちのいいことだった。うらやましくもあった。注がれた瓶ビールは何だかんだすぐに飲んでしまった。哲は唐揚げを二つと餃子を三つ食べた。見かけよりもよく食べる。

「で、二人で何の話してたの?」

 ラーメンの汁をすすりながら茜さんが聞いた。

「別に何って説明するほどのことは話してないよ。趣味が何とか。そんな話」

 と、哲。私も頷く。

「はぁー、つまらない回答」

「何とでも言え。初対面なんだからそんなもんだろ」

「渚ちゃんいい子でしょ。あんた、こういう子を嫁にもらいなさいよ」

「うっぜえな」

 哲はそう言って眉を潜めた。私は私で毎日だらだらとゲームアプリをしているだけの私が何故そんなに褒められるのか理解不能でへらへら笑っていた。茜さんも笑う。この人の周りには幸せが満ち溢れているように思えた。



 母は日に日に荒れていった。仕事も休みがちになり、食事もあまり作らなくなった。父は一度も帰って来ていない。だから家には私と母しかおらず、母の苛立ちの向かう先は必然的に私になった。私は働きもせず学びもせず毎日だらだらしているので、多少嫌味を言われることは仕方がないと思っている。しかし、父の不倫から来る苛立ちをぶつけられるのは堪らない。最初のうちは「まぁまぁ」と宥めていたが、そんな気遣いもすぐに限界を迎えた。家の中の空気は十点差で負けている野球部のベンチみたいに最悪で、私はなるべく母を避けるようにして暮らしていた。

 しかし、父が戻ってきたら今度という今度こそ本当に離婚という話になるかもしれない。そうなるとよく知らないが親権だとか財産分与だとかややこしい問題がいろいろ発生するのではないか。おそらく今の父と母の感じでは話し合いにならないだろう。誰かが間に入らなければならない。そして今の状況からするとそれはどう考えても私だ。考えただけで期末試験前のように頭が痛い。というか無理だ。私一人ではそんな重要な役割はできない。

 それで私はかなり久しぶりに兄貴に電話をかけた。

「もしもし」

 十回くらいコールして、諦めて切ろうかというくらいに兄貴は電話に出た。

「あ、今大丈夫? 仕事中?」

「いやもう家だよ」

 兄貴の孝弘は私の六つ上で二十七歳。今は運送業をやっていると聞く。ギリギリ職業を知っているくらいで特別仲の良い兄妹というわけではない。兄貴も「どした?」と私からの電話を不気味がっていた。

 私は「実は今ちょっと家が荒れてて……」と現状を伝えた。兄貴は最初はまたいつもの夫婦喧嘩かと、うんざりした様子だったが、さすがに不倫の話には驚いていた。私は茜さんのことも全部話した。

「何なんだよその女」

 兄貴は隠すことなく怒った。昔から気が短いのだ。グレていた時代にはすぐにキレるから爆弾男藤森の略で爆森と呼ばれていたらしい。兄貴はそれを武勇伝のように語っていたが、私は正直そのネーミングセンスは無いなと思った。

「まぁ、ちょっと変わった人だよ」

「お前も会ったのか?」

「うん。まぁ」

「あの馬鹿親父は何を考えてんだ」

 相当怒っている様子だった。

「さぁ、私達と茜さんを仲良くさせたいと思ってるんじゃないのかなぁ。何か、だいぶ尻に敷かれてる感じだったよ」

「なんで不倫相手の尻に敷かれてんだよ」

「そんなこと私に言われても」

「で、親父はずっと帰ってきてないの?」

「うん。茜さんと住んでるわけでもないらしくて行方不明」

「全然意味分かんねぇ。とりあえず俺、親父探すわ」

「探すってどうやって?」

「チームの現役の奴等使って探す。一週間もあれば見つけられるだろ」

 チームというのは兄貴がグレていた時代に属していた不良集団、今は半グレ集団とでも呼ぶのか、とりあえず凶悪なチームだった。兄貴は一応爆森の名に恥じぬくらいに喧嘩は強かったようで、チームを抜けて数年が経った今も現役メンバー達には顔が利く。以前、私は怖いもの見たさで兄貴の属していたチームの名前をネットで検索したことがある。するとまぁ、出るわ出るわ悪い噂。あまり関わり合いになりたくないチームなことは間違いなかった。自業自得とは言え、そんなチームに追われる父が少し可愛そうになった。

「まぁとにかく、何か分かったら俺に連絡してくれ」

 そう言って兄貴は電話を切った。まったく、相変わらず一方的な男だ。私は今目の前にいない父の話ではなく、実際目の前にいる母の話をもっと聞いてほしかったのに。

 しかし父。急に半グレ集団に追われることになった父。やはり少し可愛そうだった。一応状況だけでも伝えておこうかなぁ、と思い電話を入れる。出ないかと思ったが、意外とツーコールで出た。

「どうした?」

 と、声色が優しい。この前茜さんに会わせたからもう私のことは味方だと思っているのだろうか。甘い。私はそんな簡単な女ではない。

「まだ帰って来ないの?」

「帰って来ないって、どの面下げて帰るんだよ。どうせあいつ怒ってるんだろ?」

「そりゃ怒ってるわよ。当たり前じゃない」

「だろ」

「でもだからと言っていつまでも放置してられないでしょ」

「それはそうだけど」

「と、言うわけで、さっき状況を兄貴に伝えたらえらい怒ってチーム使って探すって」

「え、探すって俺をか?」

「他に誰がいるのよ」

「待て。あいつのチームって、それは勘弁してくれよ。お前だってどういうチームか知ってるだろ」

「だったら今すぐ帰ってきたらいいじゃない」

「孝弘も怒ってんだろ。尚更帰れないじゃねえか」

「そりゃみんな怒るわよ」

「てかお前、孝弘に余計なこと言うなよ」

 父は困ったような声を出した。もう十年近く前だろうか、グレ出した兄貴を最初は父も注意した。母に向けるような態度でガツンといったのだが、そこは流石に爆森で、逆にガツンとやり返し、結局父が負けていた。そうこうしているうちに父はすっかり兄貴を恐れるようになってしまったのだ。まったくもって情け無い父親である。

 電話を切った後、何だか自分はものすごく余計なことをしたのではないかという気持ちになった。父も結局帰って来るでもなく逃げる気で、そうなると兄貴とチームは父を探して、その時間が長ければ長くなるほど捕まった時のイザコザも大きくなる。私の行動は間違っていたのだろうか。しかし、この状況で正解って一体何なんだ。見当もつかない。



 流れが悪い。公式のツイートで次のイベントは私が好きだったアニメ、ヘビーボンボンとのコラボだということを知っていたから十連ガチャのためにスターコインをせっせと集めていたのに、結局三回も十連を回したのに惨敗。欲しかったボンボンは出なかった。寝る間を惜しんで貯めた私のスターコインはわずか一分の間に泡のように消えた。

 私はスマホをマンションの窓から投げ捨ててやろうかと思った。もちろんやらなかったが。スターコインの残数が「90」になっている。もう単体ガチャすら一回も引けない状態だった。全身から力が抜けて立ち上がれない。自分のモンスターのステータスを見直す。イデオムンは確かに強い。しかしだからと言ってそれだけでずっと満足できるわけではなく、運営はどんどん魅力的なイベントを打ってくるし、そうなると私もどんどん頑張りたくなる。イタチごっこである。そんなことは分かっている。でもやめられないのだ。スターコインは千枚で二千円だ。課金をすれば楽になる。楽に意中のモンスターを手に入れられる。が、私にはそんなことをする金銭的余裕がない。だから時間をかけて地道にダンジョンを回りアイテムを集める。結局はお金をかけるか時間をかけるかという話なのだ。頭の良い人は私を笑うのかもしれない。時間はお金より重いだとか結局はお金をかけてしまった方がコスパがいいだとか私に説くだろう。でも実際、お金はなくて時間はあるというのが私の現状なのだ。今まさにこの手の中にあるものの話である。

 敗北感で目を瞑る。十五時という変な時間だが今日はもうこのまま眠ってしまおうと思った。だがこんな変な時間にはもちろん眠れない。ふと哲の小説のことを思い出す。私は帰りの車で哲が小説をあげている投稿サイトを教えてもらっていた。言われたサイトに飛び、「TETSU☆」とハンドルネームで検索すると小説が一つ上がってきた。「チート能力だと思っていたけど実は俺最強だった説~史上最強ユニオンの逆襲~」タイトルから内容がまったく想像できなかった。私は「何のこっちゃ」と呟き寝返りを打つ。しかしここまで来て読まないのもナンなので試しに開いてみると、これが二十三章も続く超大作だった。私は唖然とした。このタイトルで何を二十三章も書くのか。まったく想像がつかなかった。とりあえず読み始める。

 物語は主人公、渉という冴えない普通の中学生なのだが、彼が伝説の剣を手に入れるところから始まる。まぁ、漫画なんかではよくある話である。しかしおかしいのが、普通そういったアイテムは妖精の導きだとか、岩から引き抜くだとか、そういった多少選ばれた感があって手に入れるものだと思うのだが、渉の場合はちょっと違って、何と近所のコンビニのくじ引きで伝説の剣が当たってしまったのだ。「大当たり! 一等賞です」とテンションを上げる店員さん。拍手喝采の他のお客さん達。渉はその中で伝説の剣を手にポカーンとしていた。そりゃそうである。渉は三等賞のアニメフィギュアしか目に入っておらず、伝説の剣など眼中になかったのだ。まぁ、しかし当たってしまったものは仕方がない。

 帰り道、公園のブランコに腰掛けて揺れる。夕暮れ時。見渡す限りの景色が赤に染まっていた。帰って勉強をしなければならない。明日はまた英語の小テストがある。前回の小テストはたったの十点しか取れなかった。今度の小テストでも同じような結果であれば、次月は小遣いを無しにすると母親から言われている。次月は渉が楽しみにしていたコミックの新刊が出る。小遣いをもらえるかどうかは死活問題だった。しかし渉は未だに一分たりとも勉強をしていない。見事な現実逃避であった。

 渉は先程コンビニで当たった伝説の剣を握りしめる。すると不思議なことに緑のぶよぶよしたオーラが切先から広がり剣全体を覆った。渉は何となくそのまま剣を振ってみた。緑のオーラはまるでムチのようにしなり、ブランコの前に設置されていた滑り台を真っ二つに斬った。「どぉん」と地鳴りのような音を立てて滑り台は力なく地面に倒れる。この剣には何か特別な力がある。だてに伝説の剣と呼ばれているわけではないのだ。渉は握りしめた剣を見つめた。そして思った。

「すげぇけど、一体何に使うんだよ」

 滑り台には悪いが、渉はそのまま公園を後にした。家に帰る頃には完全に火が暮れていて、母親には学校で勉強していたと嘘をついた。絵に描いたような母親の疑いの視線がチクチクと渉の顔を突いた。自分の部屋に入ると飼猫のきなこが部屋の真ん中に座っており「おかえり」と笑う。渉は驚いた。何せきなこは普通の猫で、今朝まで喋ったりなどしなかったからだ。

「お前何で喋ってんだよ」

「何でってお前が勇者になったからだろ」

「はぁ? 意味分かんねぇ」

 そう言いつつも渉にも心当たりがあった。鞄の中にしまってある伝説の剣。真っ二つに切れた公園の滑り台。

「行くぞ。冒険が始まる」

 きなこはそう言って窓際にふわっと飛んだ。

「おい待てよ。始まるじゃねえよ。俺明日の小テストの勉強しないと」

「小さいことを言うな。世界が終わってしまったら来月の新刊だって発売されないんだぞ」

 何故きなこが来月の新刊のことを知っているのかということも不思議だったが、世界がどうこうという言葉が出たことに驚いた。

「ほら、言ってる間に来た」

 窓の外、きなこが視線を向けた方向を見ると、野蛮そうな顔をした男が二人こちらに飛んでくるのが見えた。男達は二人とも顔は鳥で背中には羽があった。イラストにしたらよくあるモンスター像であるが、実際に目の当たりにするとなかなか生々しい。考える間もなく窓を突き破り渉の部屋に入ってくる。「剣だ!」ときなこが鋭い声で叫ぶ。渉は鞄から伝説の剣を取り出して男達へ向ける。剣はすぐにまたオーラを纏った。渉はそれで迷いなく鳥男達を斬りつけると、二人は獣のような断末魔を上げ倒れた。渉は興奮して肩で息をしていた。

「おい。どういうことだよ」

 渉はきなこに聞く。部屋の中は割れた窓ガラスが散乱し、壁には伝説の剣の斬撃による大きな傷が残っていた。

「お前は勇者だ。大魔王ユニオンを倒さなければならない」

 きなこは強い口調で言う。倒れた鳥男達は死んでいるようで、やがてその死体は泥になった。酷い匂いがした。手の中の伝説の剣は相変わらず眩いオーラを発していた。やるしかないのだと思った。「ユニオンの国へ行く」と言ったきなこは尻尾をピンと立てたかと思うと、みるみるうちに巨大化してライオンくらいの大きさになり、背中から羽が生えた。

「乗れ」

 渉は頷き屈強な生物となったきなこの背中に乗る。触れた毛並みの感じは猫の時のままだった。

 きなこはゆっくりと羽ばたき宙に浮く。窓のサッシに足をかけると一気に飛び上がり、次の瞬間にはもう空にいた。「しっかり捕まってろよ、勇者様」。渉は頷く。

 きなこは豪快に羽を羽ばたかせ、遠くユニオンの国を目指す。月は気持ち悪いほどまん丸な満月だった。かくして渉の冒険が始まった。



 ブンブンとエンジン音が聞こえ、哲が来たのだとすぐに気づいた。でも私はスマホから顔を上げなかった。

 そのまま車に乗り込むと「ゲームばっかやってると目悪くなるよ」と哲は嫌な顔をして言った。

「ゲームじゃないよ」

「じゃあ何さ」

「哲、あんた天才ね」

「は?」

 私はスマホで読んでいた「チート能力だと思っていたけど実は俺最強だった説~史上最強ユニオンの逆襲~」の画面を見せた。

「あぁ、読んでくれてんの」

 哲はそう言ってハンドルを回した。こちらを見ないのは照れ隠しか。駅のロータリーを離れる車はプールサイドを蹴る水泳選手のようになめらかだった。夏の夜に泳ぎ出す。

「すごいよあんた。めちゃくちゃ面白い」

「ありがとう。今何章目読んでんの?」

「十七章目」

「すげぇ読んでくれてんじゃん」

 そう言って哲は笑った。

 居酒屋に移動する。屋外の席だった。頭上には赤と白の提灯が交互に連なっている。何となくお祭りのようで、夜風が気持ち良くて、私は上機嫌でいかに哲の小説が面白かったかを語った。お世辞抜きで本当に面白かったのだ。私はここ数日寝る間も惜しんで哲の小説を読んでいた。小説なんて読むのはいつ振りなのか分からないくらいに久しぶりだったのだが見事にハマった。語っているうちにだんだんと興奮してきてお酒が進んだ。一方の哲は運転があるので飲まなかったので素面だった。それもあってか最初のうちは「うんうん」と嬉しそうに相槌を打っていた哲も途中から私の相手をするのに疲れてきたのか反応も「そうね」とすっかり軽くなっていた。あー、何か素っ気なくなってきたな、と気付いた頃にはもうだいぶ酔っていた。

「飲み過ぎだよ」

 私は哲に肩を借りて助手席に座った。何故だか楽しくて仕方なかった。言いたかったことを全て哲に言えた気がする。でもまだ言う。「哲、あんた印刷の工場なんて辞めて小説家になった方がいいよ」と運転席に乗った哲の肩をぽんぽん叩く。

「分かったから。ほら、水飲みな」

 と、哲はいつの間に買ったのだというペットボトルの水を私にわたした。

「小説家になるなんて、そんなに甘くないよ」

「そうなの? あんなに面白いのに。でもいつかはなってみたいんでしょ?」

「そう、だなぁ。だから書いてるんだろうね」

 哲は少し考えるような顔でそう言った。

「夢に向かって一歩一歩進んでるって感じ?」

「ちゃんと進んでるんならいいけど」

「進んでる可能性があるだけマシよ。私なんて今、百パーセント一歩も進んでないって言い切れるもん」

「茜さんも何か好きなもの見つけなよ」

 好きなもの。やっぱゲームアプリだな。でもいくらゲームアプリを頑張ったところで私はどこにも行けない。ルームランナーの上をただただ走っているだけのようなものだ。そんなのずっと前から分かっている。

「このままホテルでも行こうか」

 言ってみた。哲は「マジ?」と驚いて私を見る。「半分マジで半分は言ってみただけ」と、これは私の本心だった。

「やめた方がいいんじゃないかなぁ」

 哲は少し考えてそう言った。私もそう思う。だから大きく笑って誤魔化した。茜さんと父がそういう関係である今、考え方によっては哲は私の弟なのだ。可愛い可愛い弟なのだ。

「家まで送るよ」

「ありがとう」

 哲はいい奴だなと思った。そして私は助手席で眠る。



 兄貴に電話をしたちょうど一週間後に父が捕まった。

 ビジネスホテルを転々としていたようだが、一応仕事にはちゃんと行っていたようで、現在の職場をチームに割り出されてしまい退社するところを取り押さえられたのだ。

 二十時半。兄貴に連れられて父は久しぶりに家に帰ってきた。私と母は遅めの夕飯を食べているところだった。母はバナナで釘が打てるかのように冷めた目線を父に向けた。テレビからは急に場違いになってしまったバラエティ番組が流れていて、即座に消す。ちょうどいいタイミングで麦茶の中の氷が溶け落ち、カランと乾いた音が静寂を打った。父は諦めたようにソファに座り溜息を一つ。こうして父の逃避行は終わった。

「おい。まずは謝れよ」

 兄貴がドスの効いた声で言った。

「仕方ないだろ」

 と、今度は父が怒鳴った。しかしあまり迫力はなかった。私はついつい「何が仕方ないのよ」と挟む。

「だって、好きになってしまったんだから。人間なんだから、生物なんだから。そんなことくらいあるだろ」

 そんなのは極論だ。「何よそれ」と私は呆れた。父はもう開き直っているようだった。

「子供のことはどうなのよ」

 ずっと黙っていた母が初めて口を開いた。迫力のある声だった。

「子供って、こいつらはもう大人だろ」

「大人になっても子供はいつまでも子供よ。私達の子供。だから私達にはその責任がある。それは一生変わらないでしょう」

「それはそうかもしれないけど、だから何だっていうんだよ」

「子供から見たら父親はあなただけなのよ。それに恥じない行動をしなさいって言ってるの」

 私には母の言いたいことが何となく分かった。でもそれは父がずっと中途半端に逃げていたことで、今更それを受け止めるのは難しいだろうと思った。言っていることは母が正しいのだが。

「とにかく、不倫してたのは親父なんだろ。まずは一言家族に謝るべきじゃないのかよ」

「だから仕方なかったって言ってるだろ。お前等だってもう成人してるんだし、俺が誰かと付き合おうと大して影響無いだろ。迷惑かけないだろ」

「そういう問題じゃないでしょ」

 私は溜息をついて言う。母の言葉を一パーセントも理解できていない父に絶望した。

「お前もお前でいつまであんな連中とつるんでるんだよ」

 父は吐き捨てるように兄貴に言った。

「何だと?」

「もういい歳だろ。子供もいるんだろ。いい加減あんな奴等とは縁を切れよ」

「そんなことお前に言われる筋合いねぇよ」

 そう言って兄貴は父の胸ぐらを掴んだ。私もそれにはさすがに焦って「ちょっと、ちょっと」と兄貴を止める。

「おい。結局俺達は何も上手くいかなかったじゃないか!」

 父は母に怒鳴った。

「孝弘はいつまでも不良だし、渚も中途半端に専門学校を辞めて働きもしないし、俺だってボロボロだよ。お前の言う通りにやってきた結果だ。お前のやり方が結局間違えてたからこうなったんだろ」

「何で全部私の責任になるのよ!」

 今度は母が怒鳴った。

「私のやることが全て正しいわけないじゃない」

「いや、お前はいつもそんな顔をしてる。誰の話も聞きやしない」

 それは確かに父の言う通りだった。おそらく兄貴もそこはそう思っただろう。

「偉そうに言わないでよ。家族のことなんて一度も考えたことないくせに。一度も何も。孝弘や渚にひらがな教えたのも、数字教えたのも全部私じゃない。あなたはずっと文句だけ言って家族のことから逃げてるだけだったじゃない」

 母の声は震えていた。怒りを必死で抑えるようにバンバンとテーブルを叩く。私は母は泣くと思った。

「俺が何言ったってお前は聞かないからだろ」

「あなたが何も考えず適当に話すからでしょ」

「考えてないわけじゃない」

「考えが足りないってもう何千回も言ってる」

「俺も何千回も言ってるけど、お前のその傲慢な態度が嫌いなんだよ!」

 これは喧嘩になるといつも出るやりとりだ。結果、「もう無理よ」と母がうなだれる。これもいつも通りだ。でも今日の母は泣かなかった。泣けば茜さんに負けたことになるとでも思ったのだろうか。私もだんだん父に腹が立ってきて、「だからって不倫していいわけじゃない!」と怒鳴った。「お前は黙ってろ!」と父、ソファを思いっきり蹴る。次の瞬間、兄貴が父を殴った。

「男らしくねぇんだよ!」

 父は勢いでフローリングに転がったが完全に頭に血が上っているのだろう、すぐに起き上がり兄貴に掴みかかった。しかしそこはさすがは爆森。父は呆気なく引き剥がされ再度殴られ、今度は壁に激しく打ち付けられた。飾られていた昔から何なのかよく分からないなと思っていた絵画が床に落ちる。額が音を立てて割れた。兄貴がなおも拳を握る。完全に爆森スイッチが入ってしまっていた。ヤバいヤバいと私があたふたとしていると、背後でがしゃあんと物凄い音がした。見ると母が夕飯の乗ったテーブルをひっくり返していた。フローリングに散乱する夕飯。お皿が割れ、野菜炒めの汁や麦茶がソファにまで飛んでいた。「親を殴るなっ!」母は今日一番の大声で叫んだ。

 正直言って、家族全員が幸せになれる方法なんて、もうこの家には無いのかもしれないと私は思っていた。でも母は諦めていなかった。口ではどう言おうと、ずっと守ってきたものをこれからも守っていきたいと思っているのだ。肩で息をする母。その姿に私は涙が溢れた。



 夏も折り返しに差し掛かった頃、私は金銭的な問題に直面した。いずれはそうなることは分かっていたのだが、貯金が底をつきかけていたのだ。当たり前だが働かないと口座にお金は入ってこない。実家暮らしなので最悪のたれ死ぬことはないのかもしれないが、一応私にだって危機感というものがある。

 お金。日雇いバイトでまた問題を先送りすることはできたが、そろそろこの現状を何とかしなければならないという思いが遅らせながら芽生え、私は幾つかの会社の中途採用の面接を受けた。事務職、営業職、オペレーター等、職種に拘らず目についた企業をとりあえず受けたのだが、結果は芳しくなかった。一社も採用には至っていない。落ちる理由は自分でも何となく分かっていた。面接で話す私の言葉には信用が持てないのだ。ぺらぺらの今考えたような薄い志望理由、深掘りできない趣味の話、聞かれてもよく知らない時事の話。我ながらこんな奴を雇いたいとは思わない。

 哲なら、あんなに面白い話を作れるのだから面接とか上手くやりそうだなぁ、と思った。私はダメである。面接には向いていない。しかし面接をせずに採用してもらえる企業なんておそらくあまりなくて、そうなると私はもうこのまま一生働くことができないのではないかとも思った。逆に今世に出て働いている人達は何かしらの面接をパスしたうえで働いているのだ。すげぇ。

 そういうわけで久しぶりに出た外の世界は相変わらず私に優しくなかった。いや、悪いのは私か。私はつまりは社会不適合者なのだ。じゃ、もういっそ死んだ方がいいんじゃないか。そんなことを考える午前面接後のファミレス。十五時。ドリンクバーはすでに四杯目だった。

 あの騒動から三週間が経つ。あの日以来父はまた家に帰って来ない。兄貴はもう父を追うのをやめたようだ。そういえばあれ以来兄貴とも連絡を取っていない。しかし一方であの日を境に母の苛々は不思議と落ち着いていた。当然父を許せないし怒っているのだろうが、最近は仕事も休まず、家事も以前と同じようにちゃんとやっていた。気持ち悪くもあるが、とりあえずは家の中に穏やかな日々が戻ってきていた。

 何となく家に帰りたくなくてファミレスにだらだらと居座る。やがて外が暗くなってきて、スマホを見るともう十九時半だった。ゲームアプリを開いてみるもスタミナもスターコインもほぼ残っていない。何もやることがなかった。手癖でイデオムンのステータスを見る。相変わらず惚れ惚れするステータスだった。どこに出しても恥ずかしくない戦闘力。「ねぇ、イデオムン、私もあんたみたいな優秀な人材になりたかった」と心の中で呟いてみる。イデオムンの身体をタップするとイデオムンはぐるっと回って飛び上がった。ゲームアプリみたいに人間のステータスもアイテムで上げられたらいいのになぁ、と思った。あ、でもダメか、私は今ダンジョンにすら入れていない。自分に課金するお金もない。

 ファミレスの中はクーラーがよく効いていて少し寒かった。私に早く帰ってほしいからこんなに寒いのかなぁ、と思った。顔を上げると暗がりの窓ガラスにリクルートスーツに身を包んだ自分が映っていた。何だか自分じゃないみたいだ。似合ってなさすぎて笑える。溜息をつくと同時にスマホが鳴る。哲からの電話だった。

「もしもし」

「あぁ、今大丈夫?」

 電話の後ろでエンジンの音が聞こえる。多分車の中なのだろう。「大丈夫」と私。

「外?」

「外だね。ファミレスでぐだぐだしてるよ」

「ファミレス? どこの?」

 私は今いる場所を哲に伝えた。

「そっちに行ってもいい?」

「いいけど。どうしたのよ」

「まぁ、ちょっと」

 と、何故だかはぐらかすような言い方だった。それで十五分後くらいに来た。哲はまず私のリクルートスーツ姿を見て驚き、「就活?」と聞いた。

「そうっすよ」

「順調?」と、何だか今日は質問が多い。

「ダメ。私、多分社会に向いてないんだよ」

「上手くいかない時はみんなそう思うんだって」

 歳下のくせに生意気な、と私はコーヒーの残りを飲んだ。「で、どうしたの?」と私。するといきなり「来月からシンガポールに行くことになった」と突拍子も無いことを言い出す。

「は? シンガポール?」

「うん、仕事で。転勤だよ」

「だってあんた印刷の機械回してるんじゃないの?」

「正しく言うと封入機だけどね。向こうに連結子会社の工場があるんだ。それでオペレーターとして行ってくる」

「そんなことあるんだ」

「俺も驚いた。海外なんて行ったことないし、パスポート取るところからスタートだよ」

 哲は少し興奮しているようで、いつもよりテンションが高いように見えた。

「楽しみ?」

「まぁ、楽しみっちゃ楽しみ」

「うそ、すごい楽しみでしょ。顔にそう書いてあるよ」

 そう言うと哲は恥ずかしそうに笑った。

 それからしばらく話して、ファミレスを出たのは二十二時過ぎだった。結局私は今日、十時間近くもここにいたことになる。外に出ると生々しい夏の夜の匂いがした。あぁ、これが現実だ。と気持ち程度に星が散らばった空を見て思った。

「私も頑張らないとなぁ」

 助手席で欠伸をしながら言う。哲は「またいい加減なこと言って」と思ったかもしれないが、私は結構マジで言ったつもりだった。

「頑張れ。俺も頑張る」

「向こうに行ってもちゃんと小説書いてよ。伝説の剣のやつは全部読んじゃって、私新作を待ってるんだから」

「そう言ってくれると嬉しいよ。大丈夫、ちゃんと書くから」

 仕事は海外転勤、趣味の小説も私というファンがついて、どちらも上手くいっていて多分哲は今満たされている。表面張力のコップみたいに満たされている。まったく羨ましい限りである。

「しかし寂しくなるねぇ」

「多分しばらく会えないもんな」

「てか、私達の関係って結局何だったんだろうね」

 と言うと哲はうっすら苦笑いを浮かべた。

「こんなこと俺が言うのもアレだけど、うちの母さんと渚さんのお父さんは一応上手くいってるみたいだよ」

「知らないよ。もう何でもいいんじゃない? 何だろうと上手くいってるってのはいいことだよ」

 そんな投げやりなことを言って、母にはとても聞かせられない。でも正直今私は自分のことでいっぱいいっぱいなのだ。他のことにまで気を遣う余裕なんてなかった。

 そうこうしているうちにマンションの下に着く。エンジンを切ると映画のシーンが変わったように急に静かになった。「最後だしキスでもしとく?」と哲が少し照れながら言う。やめろよ、照れられるとこちらまで照れる。「マジ?」「半分マジで半分は言ってみただけ」「はっ」と私は笑う。それでキスした。私にとってはかなり久しぶりのキスだった。いつ振りかはっきりと思い出せないくらい久しぶりの。

 家に入るとやたらとテレビの音がうるさく。リビングのドアを開けると母が一人でお酒を飲んでいた。

「お酒飲んでるなんて珍しい」

 と、言った時に空になったワインのボトルが床に転がっているのを見つけてギョッとした。拾い上げて「一人で全部飲んだの?」と聞くと、「そうよぉ」とトロンとした目、母はかなり酔っ払っているようだった。

「これ、二本目。あんたも飲みなさいよ」

 と、母は私のグラスを取りに立ち上がったがフラついていて危なかったので自分で棚から取った。

「そんなになるまで飲んでどうしたのよ」

「私にだって飲みたい夜があるのよ」

 そう言って私のグラスにワインを注ぐ。良い香りのする赤ワインだった。「飲みたい夜ねぇ」私はそう言ってグラスのワインをえいっと一気に飲み干した。

「おっ、渚も飲みたい夜?」

「まぁね」

 シンガポールでもどこでも行っちまえ、バーカ。そんな気持ちでもう一杯ワインを注ぐ。

「あんた、就活頑張りなさいよぉ」

「分かってるわよ。そっちこそこれからどうするつもりよ」

「どうするって何を」

「何をじゃないでしょう。本当に離婚するつもりなの?」

「まぁ、このままの状態が続けば離婚するしかないわよね」

「それでいいの?」

「分かってないわねぇ。そんなの良いも悪いもないわよ。人の心なんて結局はなるようにしかならないんだから。無理にねじ曲げたり繋げたりしても結局意味ないわ」

「そういうものかぁ」

 母がそんな考えを持っていたのは意外だった。「やれるだけやる。後は運次第よ」と母は私の目を見ずに呟いた。私は頷く。

「でも離婚したらあんた達の親権は私がもらうわ。渚の結婚式には出たいしね」

 私はチャペルに立つ私、そして見守る着物姿の母を思い浮かべた。私の隣には旦那らしき男、顔は分からないがすらりと背が高い。そして歓声と共に舞う花吹雪。まぁ、確かにそこは父よりも母に見てもらいたいかもしれない。一切予定はないけど。

「はは。よろしくたのみます」

 二本目のワインもやがて空になった。



 でも結局父と母は離婚しなかった。

 師走。街が少しずつクリスマス色に染まり出した頃、父はひょっこりと家に帰ってきた。母も私も父を受け入れるでもなく拒否するでもなく、数ヶ月に及ぶ逃避行について何も触れなかった。もはや情けなさ過ぎてそこに触れるのも面倒くさい。多分母もそんな感じなのだったと思う。父はそんな私達が不気味で、禊のつもりだろうか、休みの日には自主的にお風呂を洗ったりなんかして大人しく暮らしていた。

 兄貴も父が帰っていることは知っている。それでいてお正月には奥さんと子供を連れて家族で帰ってくるらしい。それを聞いた私が「兄貴のとこの子供達、また大きくなってるんだろうねぇ」とキッチンで洗い物をしている母に言うと、ソファに座って新聞を読んでいた父が「楽しみだよな」とポツリとこぼした。あの夜、ソファに付いた野菜炒めの汁の跡は消えていないが、何となく家族が元に戻ったのだなと感じた。

 まったく、この半年のドタバタはいったい何だったのだろう。父の不倫、逃避行、そしてあの夜の騒動。今にして思い返すと何かもう本当に全てが滑稽だった。どうしようもないくらいに滑稽だった。家族とは、それだけに強い。



 二月。街は氷を纏ったように冷たくて、逃げ場などなかった。しかし「今日こそ降ります」と連日予報で言われる初雪はなかなか降らない。

 仕事帰りに駅前のコンビニで煙草を吸っていたらブンブンとうるさい車が私の前に停まった。ド派手なペイント。使用用途不明のウイング。シルビアだ。私はその名前を覚えていた。

「久しぶりじゃない」

 運転席から茜さんが顔を出す。

「どうもです」

「よくそんな寒いところで煙草吸ってられるわね」

 ははっ、と笑って誤魔化すと「乗ってきなよ」と茜さんは助手席をくいくい指差した。その頃にはもう私にとって茜さんは過去の人になっていて「今更なぁ」とも思ったが、結局寒さに負けて助手席に乗った。

「この車、今は茜さんが乗ってるんですね」

「哲が置いてったからね。国際免許取ってまで向こうで乗りたいとは思わなかったみたい」

 助手席から見る茜さんの横顔は哲に似ていた。親子なのだから当たり前か。半年ほど前の事を思い出す。

「仕事帰りだったの?」

「そうです」

 就職活動の甲斐もあって私は秋頃に無事スポーツクラブの受付の仕事に就いた。立ち仕事だし体力的にキツいはキツいが、近頃ではだんだんプールを習いにくる小学生達も私の顔を覚えてくれて「渚ちゃん、渚ちゃん」と慕ってくれたりと、割と楽しくやっていた。私は彼等にイデオムンのステータスを見せびらかし、ドヤったりしていた。

「父とは別れたんですか?」

 ストレートに聞いてみた。

「どうだと思う?」

 茜さんは悪戯っぽく笑い煙草に火をつけた。煙を逃すために窓を開けるものだから風が吹き込み、車内は一気に寒くなった。外で吸うよりも寒いんじゃないのかな、と私は思った。

「別れた?」

「バーカ」

 茜さんは煙草の煙を鼻から吹いて言った。

「まだ付き合ってるんですか?」

「知らないよ、そんなの」

 それで何とも言えずしばらく黙っていたら、「まぁ、全ては幸せになるための決断なんだから仕方ないのよ」と茜さんはポツリと言った。父とは別れたのだなと思った。

「哲は元気なんですか?」

「あぁ、元気みたいよ。全然連絡もよこしてこないわ。シンガポール、楽しいらしいね。私は全然興味ないけど」

「シンガポールかぁ、私も行ってみたいなぁ」

 私がそう言うと信号で停まった茜さんはじっと私の目を覗き込む。

「何? 渚ちゃん哲のこと好きなの?」

「いや、誰もそんなこと言ってませんよ」

 私はちょっと焦って言った。

「いいえ、私には分かるわ。私、そういうのは目を見たらだいたい分かるのよ。だてに何十年も水商売やってないわ」

「違いますって」

 顔が熱くなって、頬が赤くなるのを感じた。

「そういうことはもっと早く言いなさいよ」

「いや、だから」

「そうと決まったら行くわよ」

「行く? どこへですか?」

「シンガポールに決まってるじゃない」

 そう言うと茜さんはシルビアのアクセルをグッと踏み込んだ。ガクンと反動が身体に来て、車が一気に加速する。

「ちょっと、冗談でしょう」

 私は恐る恐る聞いたが、「この人ならマジで行きかねない」と思ったら何故か笑えてしまった。茜さんも笑っているようだった。「よーし」とアクセルを更に踏み込む。

「結局、幸せになったもん勝ちよ」

 どこへ向かっているのか分からないが、シルビアはもの凄い音を立てて夜の街を駆けていった。

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踊るように生きろ @hitsuji

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